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IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
ひだまりに包まれて_IRIS.log

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冷たいもの

 走る。


 息が切れる。

 喉が痛い。

 肺が焼ける。

 足がもつれる。


 後ろでまた、あの音がした。


 空気を裂くみたいな、耳の奥まで痛くなる音。次の瞬間、すぐ横の木の皮が弾け飛ぶ。破片が頬に当たって熱い。何かが焼けた匂いがした。


 怖い。


 何が起きてるのか分からない。

 分からないけど、止まったら駄目だ。

 止まったら、あれが当たる。

 あれが当たったら、死ぬ。


 枝が顔に当たる。草が足に絡む。飛び越えたつもりの根に引っかかって、体が大きく傾いた。転ぶ。手をつく。土が口に入る。すぐ起きる。起きなきゃいけない。


 後ろを見るな。

 見るな。

 見るな。


 でも見てしまう。


 木々のあいだを、何か白っぽいものが動く。人間だ。ひとりじゃない。二人か、三人か、分からない。体に変な固いものをつけてる。顔の半分が光って見える。手に黒い棒みたいなもの。あれが鳴る。あれが木を砕く。


「っ……!」


 声にならない。


 走る。

 もっと走る。

 息を吸う。

 吸えない。

 苦しい。

 胸が痛い。


 頭の中がぐちゃぐちゃだ。


 ミア。

 ナギ。

 血。

 目。

 冷たい。

 動かない。


「やだ……」


 言った気がする。聞こえない。自分の声かも分からない。


 目の前の木を避ける。岩を飛び越える。飛び越えきれなくて膝を打つ。痛い。立つ。走る。後ろでまた音。地面が爆ぜる。土が背中に当たる。熱い。焦げ臭い。


 なんなんだよ。

 なんなんだよこれ。

 なんで。

 なんで。


 さっきまで、花の匂いがしてた。

 鳥を捕まえて、腹いっぱいで、帰ったら話そうと思ってた。

 いい日だった。

 ほんとに、いい日だった。


 なのに、なんで。


 木々が少し途切れる。見慣れない場所だ。こんなところ来たことあったか。分からない。考えてる余裕がない。とにかく、群れから離れる。人間から離れる。あの音の届かないところまで。


 風が強くなる。


 匂いが変わる。森の湿った匂いじゃない。もっと乾いてる。土と葉の匂いの下に、何か硬いものの冷たい匂いが混ざってる。知らない匂いだ。


 足元の草が少なくなる。代わりに石が増える。走りにくい。滑る。転ぶ。手のひらの皮が剥ける。熱い。ひりひりする。血が出てるのかもしれない。でも見てる暇はない。


 後ろから声。


 人間の声。


 言葉はよく分からない。短く、強く、何かを伝える声。ひとつじゃない。近い。近い気がする。いやだ。近づくな。来るな。


 俺は歯を食いしばって走る。


 木の幹を蹴る。

 低い枝をくぐる。

 跳ぶ。

 着地を失敗する。

 肩から地面にぶつかる。


「ぐっ……」


 息が詰まる。視界が白くなる。動け。動け。動け。


 無理やり起き上がろうとした時、左腕に激しい痛みが走った。


「ッああ!」


 何かが掠った。


 焼けるみたいな痛み。切れたのか、焦げたのか分からない。ただ熱くて、痛くて、腕に力が入らない。見たら、毛が一部焦げて赤くなっていた。そこからじわっと血が滲む。


 怖い。

 怖い。

 死ぬ。

 死ぬ死ぬ死ぬ。


 俺は立ち上がって、また走った。


 目の前が滲む。涙か汗か分からない。鼻水まで出てる気がする。格好悪い。そんなことどうでもいい。生きたい。嫌だ。死にたくない。あいつらみたいに動かなくなるのは嫌だ。


 ミア。

 ナギ。

 小さいやつ。

 年長の女。

 年長の男。


 頭に浮かぶたび、胸がぎゅっと縮む。

 でも、思い出したら駄目だ。足が止まる。

 今は走れ。

 走れ。

 走れ。


 視界の先に、急に光が広がった。


 森が切れている。


 開けた場所だ。


 助かった、と思った。何に助かるのかも分からないのに、そう思った。木がなければ見える。見えれば逃げやすい。そういうぐちゃぐちゃの考えだった。


 俺はそのまま飛び出した。


 次の瞬間、止まった。


「……え」


 目の前に、壁があった。


 壁だった。


 木じゃない。

 石でもない。

 土でもない。


 空へ届くみたいに高い。横にもずっと続いている。色は変だ。灰色っぽくて、でも岩みたいなざらざらがない。つるっとしているようにも見えるし、少しだけ継ぎ目みたいな線も入ってる。生き物の匂いがまったくしない。


 俺は何歩かよろめいて、壁の前まで行った。


「な、に……」


 言葉が出ない。


 手をつく。


 冷たい。


 びっくりするくらい冷たい。

 日が当たってるのに。

 昼なのに。

 ぬくもりが、まるでない。


 木なら、少しは熱を返す。

 石だって、日向ならもっとぬるい。

 土なら、もっとやわらかい。

 でもこれは違う。


 硬い。

 冷たい。

 何も返してこない。


 俺は両手で押した。びくともしない。爪を立てた。傷ひとつつかない。叩いた。鈍い音が返るだけ。どこまで続いてるのか分からない。上も見えない。横も、木々の向こうまでずっと続いてる。


「……なんだよ、これ……」


 息が震える。


 壁。

 壁?

 なんでこんなものがある。

 ここに?

 森の端に?

 俺たちのいた場所の、こんな近くに?


 心臓がまた変な音を立て始める。


 待て。

 じゃあ、俺たちは。


 群れは。

 森は。

 川も、花畑も、寝床も、火の場所も。


 この中だったのか?


 俺は壁から手を離した。手のひらに冷たさだけが残ってる。生き物の温度じゃない。日だまりのあったかさでもない。毛布のぬくさでもない。誰かの体温でもない。


 何もない冷たさ。


「うそ……だろ……」


 自由だと思っていた。


 好きな時に寝て、好きな時に起きて、好きなところへ行って、帰りたくなったら帰る。森は広くて、空は高くて、どこまでも続いてると思ってた。


 でも、違ったのか。


 行ける場所が最初から決まっていたのか。

 知らないだけで、囲われていたのか。

 俺たちは、その中で走っていただけなのか。


 後ろで、遠く音がした。


 人間かもしれない。

 風かもしれない。

 もう分からない。


 俺は壁に背を預けた。冷たい。ぞっとするくらい冷たいのに、足に力が入らなくて、そのまま崩れ落ちた。


 膝を抱えようとして、左腕の痛みで顔が歪む。息がうまく吸えない。喉がひゅうひゅう鳴る。目の前がぼやける。


 壁は何も言わない。

 何も返さない。

 押しても、叩いても、触れても、ただ冷たいままそこにある。


 朝、目を覚ました時のぬくさを思い出した。


 腹の上の重み。

 ミアの尻尾。

 ナギの寝起きの声。

 火の匂い。

 魚の味。

 川の冷たさ。

 花畑のやわらかい匂い。


 全部、本物だった。


 本物だったのに。


 その外側は、こんなに冷たかったのか。


 俺は声を出そうとして、出せなかった。喉の奥で何かが引っかかるだけだ。泣いてるのかもしれない。分からない。顔は熱いのに、背中は壁のせいでどんどん冷えていく。


 逃げ場なんて、最初からなかったのかもしれない。


 そう思った瞬間、胸の奥で何かが完全に折れた気がした。


 俺は冷たい壁に手をついたまま、動けなくなった。

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