帰り道
帰る時の俺は、たぶんちょっと浮かれていた。
花畑を見つけて、鳥も捕まえて、腹も満ちて、日差しまで気持ちいい。こんな日は帰ってからも気分がいい。ミアに花の匂いのことを話して、ナギに鳥を捕まえたところを大げさに話して、小さいやつには羽を見せびらかしてやろうと思ってた。
帰り道は、来た時とは少し違う匂いがした。昼に近づいて、土のぬくさが増してる。葉っぱの青い匂いも濃い。風は少し弱くなって、かわりに森の音がよく聞こえた。
鳥の声。
虫の羽音。
遠くの水の流れる音。
どこかで木の実が落ちる音。
全部いつも通りだ。だから、最初は気づかなかった。
群れの近くまで戻ってきた頃、ふと鼻の奥に変な匂いが引っかかった。
「……ん?」
足が少し止まる。
煙の匂いだった。
火の匂い自体は珍しくない。群れではいつも火を使ってる。飯を作る時も、肉を干す時も、夜のあかりにもなる。だから火の匂いは知ってる。
でも、今のは少し違った。
焦げた匂いが強い。
木だけじゃない。毛とか、肉とか、そういうものが混ざったような、嫌な重さがある。
風向きが変わったのかと思った。誰かが魚でも焼きすぎたのかもしれないし、小さいやつが火のそばで何かひっくり返したのかもしれない。
そう考えて、また歩く。
でも、二歩、三歩と進むうちに、胸の奥が妙にざわつき始めた。
静かだ。
群れの近くなのに、静かすぎる。
いつもなら、もう少し前から声が聞こえる。誰かの笑い声とか、小さいやつの騒ぐ声とか、鍋の鳴る音とか。そういうのが混ざって届くはずなのに、今日は風の音ばかりが耳についた。
「……ミア?」
なんとなく呼ぶ。
返事はない。
「ナギ?」
ない。
足が少し速くなる。草を踏む音がうるさい。心臓の音まで聞こえる気がした。やめろよ、と思う。変なだけだ。たまたま静かなだけかもしれない。みんな昼寝してるのかもしれない。そういう日だってある。
木のあいだから、群れのいる場所が見えた。
最初に見えたのは、倒れた寝床だった。
枝を組んだ屋根が崩れて、片方へ傾いてる。干してあった毛布も地面に落ちて、泥にまみれていた。火の場所のそばには鍋が転がっていて、中身がひっくり返ってる。
「……は?」
意味が分からなかった。
次に見えたのは、血だった。
土の上に広がっている。
寝床のそばにも。
火の前にも。
木の根元にも。
赤い。
昼の光の下なのに、妙に黒く見える赤だった。
俺は走った。
「ミア!」
叫んだつもりなのに、自分の声が変に遠い。
最初に見つけたのは小さいやつだった。動かない。目が開いてる。さっきまで俺の腹の上で寝てたやつじゃない。けど、群れの小さいやつだ。首のあたりが変な方向に折れていた。
息が止まる。
「っ、あ……」
次に年長の男が見えた。木にもたれたまま、座っているみたいに見えた。でも胸が開いていて、そこから先を見なくても分かった。
違う。
違う違う違う。
俺はさらに奥へ走る。足元で何かを踏んだ。見たくなくて見ないまま走る。鼻の奥が焦げた匂いと血の匂いでいっぱいになる。胃がひっくり返りそうだった。
「ナギ!」
返事はない。
「ミア!」
返事はない。
火のそばで、年長の女が倒れていた。片腕が伸びたまま、指先が土を掴んでる。その先に、割れた椀があった。
俺は息を吸って、むせた。喉が痛い。肺がうまく動かない。
その時、見えた。
ミアだった。
倒れた寝床の影、崩れた枝のそば。髪が土に広がってる。顔は見えない。でも体つきですぐ分かった。俺は駆け寄って、膝をつく。
「ミア、ミア!」
肩を掴む。冷たい。嫌だ。嫌だ。ひっくり返す。
目が開いていた。
開いたまま、何も見ていない。喉のところが深く裂けていて、そこから乾きかけた赤が毛皮へ染みていた。
俺の頭の中で何かが真っ白になる。
声が出ない。
出したはずなのに、聞こえない。
手が震えて、指がうまく動かない。
「……やだ」
やっと出た声は、自分のものじゃないみたいだった。
嘘だと思った。思いたかった。ミアがこんなふうに動かないなんて、おかしい。さっきまでいなかっただけだ。朝だって話した。魚だって食べた。川だって行った。笑ってた。ちゃんと、いた。
「起きろよ……」
肩を揺らす。
「なあ、起きろって……」
動かない。
俺は立ち上がろうとして、膝が崩れた。手をついた土がぬるっとする。見たら血だった。誰のものか分からない。分かりたくない。
その少し先に、ナギがいた。
木の根元。横向きに倒れてる。片足が変な方へ曲がっていて、脇腹の毛が焼け焦げていた。目を閉じてる。眠ってるみたいで、でも違う。
俺は這うみたいに近づいた。
「ナギ……」
触る。
冷たい。
胸に手を当てる。
何もない。
「……やだ」
さっきと同じ言葉しか出ない。頭がうまく回らない。なんで。どうして。誰が。何が。何も分からない。さっきまで、あんなにいい日だったのに。
風が吹いた。
焦げた匂いの向こうに、別の匂いがした。
知らない匂い。
汗と、鉄と、油みたいな、硬い匂い。
俺は顔を上げる。
少し離れたところで、何かが動いた。
倒れている仲間かと思った。まだ誰か生きてるのかもしれない。そう思って立ち上がる。ふらつく足でそっちへ向かう。
「……っ、誰か……」
近づく。
草の向こうに見えたのは、毛のない腕だった。
群れのやつじゃない。
土に転がっていたのは、人間だった。
服が裂けて、胸のあたりが真っ赤になってる。顔には変な透明の板みたいなものが半分ずれてついていて、手には見たことのない黒い棒が握られていた。棒の先は金属みたいに光ってる。死んでるのかと思ったけど、喉がごぼっと鳴った。
生きてる。
俺は一歩近づいた。
仲間じゃない。
でも、生きてる。
そいつのまぶたがぴくっと動いた。次に、顔がゆっくりこっちを向く。
目が合った。
一瞬、何も起きない。
次の瞬間、その目の色が変わった。
驚いたみたいに開いて、それから、笑った。
「……まだ、いた」
変な言葉だった。何を言ってるか全部は分からない。でも、声の感じだけで十分だった。
そいつは俺を見た。
仲間じゃなく。
助ける相手でもなく。
何か別のものを見るみたいに。
黒い棒を持っていない方の手が、がくがく震えながら腰へ伸びる。そこに別の何かがついている。丸くて、鈍く光るもの。
危ない、と思うより先に、体が動いていた。
俺は後ろへ飛び退く。
次の瞬間、耳を裂くような音が鳴った。
地面が弾ける。土が頬に当たる。熱い。怖い。何が起きたのか分からない。でも、あれは駄目だ。あれはこっちへ向けられた。
「っ、あ……!」
息がうまく吸えない。足が勝手に下がる。人間はまだ笑ってた。血を吐きながら、こっちを見てる。
その後ろ、もっと奥の方で、別の声がした。
複数。
人間だ。
俺は振り向いて走った。
何も持たず。
何も考えず。
ただ、走らなきゃ死ぬとだけ分かっていた。
背後でまたあの音がした。木の幹が弾ける。葉が散る。耳鳴りがする。何も見えない。息が苦しい。胸が痛い。足がもつれる。
でも、止まれなかった。
さっきまで帰る場所だったところを、俺は振り返らないまま走った。




