遠まわり
次の日も、朝はあったかかった。
目が覚めた時、俺の頬にはやわらかい毛が当たっていて、くすぐったくて鼻がむずむずした。誰だよと思って顔を離すと、ミアの尻尾だった。寝返りのせいでこっちまで来たらしい。本人はぐっすり寝てる。ナギは少し離れた場所で丸くなっていて、小さいやつがその背中へ勝手にくっついていた。
俺はしばらくそのまま転がっていた。
朝の群れの匂いがする。
土の匂い。
火の残り香。
毛布に移った体温の匂い。
眠ってるやつらの静かな息。
こういう時間は、目を開けてすぐ動くのがもったいない。起きてるのに起きてないみたいな、朝のいちばん気持ちいいところだ。
でも今日は、寝てるのも少し惜しかった。
昨日の川が気持ちよかったせいか、今朝は起きた時から、どこかへ行きたい気分だった。高い木の上でもいいし、川のもっと先でもいいし、花の多い場所でもいい。とにかく、いつもより少し遠くまで行ってみたい。
俺はそっと起き上がって、寝床から下りた。
外はもう明るい。朝日が森のあちこちへ差し込んで、葉の先を白く光らせてる。空気は昨日より少し軽い感じがした。風に乗って、川の匂いとは違う甘い匂いが混ざってくる。花だ。南の方だと思う。
腹は少し減ってる。けど、今はそれより先に歩きたい気分だった。
「レオ?」
後ろから、寝起きの掠れた声がした。ナギだ。
「起きたのか」
「そっちこそ……どこ行くの?」
「まだ決めてない」
「決めてないのに出るの?」
「出てから決める」
ナギは寝ぼけた顔のまま瞬きをした。こいつは本当に分かりやすい。たぶん頭の中で、俺の言ってることを一回ちゃんと並べて、それでも意味が通らなくて困ってる。
「飯は?」
「あとで食う」
「絶対遅くなるやつじゃん」
「別にいいだろ」
「よくないよ。年長の女に怒られる」
「怒られるのはおまえじゃなくて俺」
「それでも聞くの僕なんだよ」
たしかにそれはそうかもしれない。ナギはこういう時だけちょっと可哀想だ。けど、起きた瞬間の気分っていうのは大事だから仕方ない。
「じゃ、行ってくる」
「ひとりで?」
「ひとりで」
ナギはちょっと迷った顔をしたけど、結局何も言わなかった。たぶん止めても無駄だと思ったんだろう。正しい。
俺はそのまま森へ入った。
群れのまわりは歩き慣れた匂いがする。よく知ってる木、よく知ってる石、よく知ってる曲がり方。でも、今日はそこを少し外れてみたかった。木の並びがいつもと違う方へ。まだあんまり通ったことのない、少しだけ草の深い方へ。
朝の森は気持ちいい。
足元の土はまだひんやりしてるけど、上から当たる光はやわらかい。鳥の声があちこちから聞こえるし、虫の羽音も遠くでしてる。風は強くない。歩くたびに草が膝へ当たって、露が少しだけ毛につく。それが冷たくて、でも嫌じゃなかった。
しばらく歩くと、木々のあいだに細い水の筋が見えた。昨日の川へ流れ込んでる小さい流れだろう。水は澄んでいて、底の石が丸く光ってる。そこへ小さな魚影がひとつ、ふたつ走った。
「あとで戻ってもいいな」
俺はそう呟いて、飛び越えた。
行き先なんて決まってなくても、歩いてるだけで楽しかった。匂いが変わるたび、景色が変わるたび、知らないところへ来た気がする。木の幹が太くなったり、逆に細い木が増えたり、地面に花が多くなったり、岩が大きくなったり。群れの近くと同じ森なのに、少し離れるだけでちゃんと別の顔をする。
俺はそのたびに立ち止まって、見て、聞いて、また歩いた。
途中で鳥を見つけた。
黒っぽい羽で、枝の低いところに止まってる。こっちに気づいてない。俺は足音を殺して近づいた。猫系だから、こういうのは得意だ。呼吸もゆっくりにして、枝の影へ身体を寄せて、一気に跳ぶ。
ばさっと羽音がした。
「あっ」
半歩遅かった。鳥は空へ逃げる。俺はそのまま地面へ転がって、草まみれになった。
「くそ」
でも悔しいより先に笑えてきた。今の、もうちょいだったのに。惜しかった。逃げられた鳥が上の方で鳴いてる。馬鹿にされてるみたいで腹立つ。
「次は捕まえるからな」
言い返しても仕方ないけど、言いたくなる。
少し先へ行くと、風の匂いがまた変わった。甘い。花だ。朝、寝床の外で感じた匂いが濃くなってる。
木々が途切れた先に、小さな花畑があった。
「うわ」
思わず声が出た。
背の低い花が一面に咲いてる。白、薄い黄色、淡い紫。派手じゃないけど、そのぶん朝の光によく合っていて、風が吹くたびに一斉に揺れる。まるで草の上に色が流れてるみたいだった。
俺は迷わずその中へ入った。花を踏みすぎないようにしながら、ちょうどいい場所を探して、ごろんと寝転がる。
空が広い。
木の下から見るのとは全然違う。遮るものが少ないから、青さがそのまま落ちてくるみたいだ。風が吹くと花の匂いがまとめて押し寄せて、鼻の奥がくすぐったい。あったかいし、やわらかいし、気持ちいい。
「ここ、いいな……」
誰に言うでもなく呟く。
こういう場所を見つけると、なんだか自分だけが得した気分になる。今度ミアとナギも連れてきてもいいけど、教えたくない気持ちも少しある。ひとりで見つけた場所って、それだけで特別だから。
俺は腕を枕にして、しばらく空を見ていた。
雲がひとつ流れていく。
鳥の影がその下を横切る。
草の先が揺れる。
花の匂いがする。
遠くで水の音がかすかに聞こえる。
何も起きない。
でも、何も起きないのがよかった。
腹が鳴ったので、ようやく起き上がる。そういえば朝飯を食ってなかった。今さらだけど。俺は花畑を出て、匂いをたどるようにまた歩き出した。
少し進んだところで、さっきとは違う鳥がいた。今度は茶色で、地面の近くをぴょんぴょん跳ねてる。俺は身を低くした。さっき失敗したばかりだから、今度は慎重にいく。
風向きは悪くない。
足音も消せてる。
距離も近い。
一気に飛びかかる。
羽ばたく前に、両手で押さえ込んだ。
「やった」
鳥はばたばた暴れたけど、逃がさない。ちょっと羽が手に当たってくすぐったい。さっき逃げられた分、余計に嬉しかった。
しばらく歩いて、日当たりのいい石の上で羽をむしる。これくらいなら俺ひとりでもできる。年長の男みたいに綺麗にはいかないけど、腹を満たすだけなら十分だ。近くで拾った乾いた枝を集めて、小さい火を起こす。煙が細く上がる。肉が焼ける匂いがしてくる。
自分で獲ったものを自分で食うのは、なんだか少し誇らしい。
「うま」
皮はちょっと焦げたけど、中はちゃんと火が通っていた。塩がなくても悪くない。肉の味がそのままして、噛むたびに腹が落ち着いていく。
食べ終わって、指を舐めて、また寝転がる。
ひとりの時間も好きだった。
群れにいるのも好きだし、誰かとくっついて眠るのも好きだ。
でも、こうして好きな方へ歩いて、見つけた場所で寝転がって、腹が減ったら自分で獲って食う時間も、同じくらい好きだ。
どっちも俺の自由だ。
しばらくして、太陽が少し高くなった。そろそろ戻るか、と考える。でも真っ直ぐ帰るのもつまらない。せっかく少し遠くまで来たんだから、もうちょっとだけ遠回りしてもいい。
俺は立ち上がって、花畑の向こうへ続く細い道のようなものを見た。道というほどはっきりしてない。ただ、草が少し寝てる。誰かが通ったことはあるんだろう。
「帰りはこっちでいいか」
独り言を言って、俺はそっちへ歩き出した。
森はまだやさしかった。
風も日差しも、さっきまでと何も変わらない。
その中を歩くのがただ楽しくて、俺は少しだけ足を速めた。
帰ったら、ミアに花畑のことを話そう。
ナギには鳥を捕まえたことを自慢してやる。
小さいやつには、羽を一本くらい持って帰ってもいい。
そんなことを考えながら、俺は森の奥を進んでいった。




