旅人は煙とともに
東へ向かう道は、道と呼ぶにはあまりに荒れていた。
かつては何かの工業地帯だったのだろう。低い建物の骨組みと、崩れた煙突と、錆びついた配管が延々と続いている。地面にはひび割れたコンクリート、散乱した鉄骨、乾ききった泥。バイクで走るには最悪の足場だが、そのぶん追ってくる側も速度を殺される。
私は振り返らずに走った。
背後の気配は、完全には消えていない。群れの大半は引き離したが、それでも何匹かはしつこく残る。いや、怪物だけじゃない。もっと厄介なのは、身体の内側に巣くっている方だ。
胸が熱い。
喉が焼ける。
左腕の感覚がときどき遠くなる。袖の下では、皮膚の裂け目が確実に広がっているのだろう。風が当たるたび、ひりつくような痒みが走った。
「ほんと、性格悪いね」
私は自分の身体に向かって吐き捨てる。
止まったら死ぬ。
走っても壊れる。
自由そうに見えるくせに、やることは最初からひとつしかない。
エンジン音が、空っぽの建物群に反響する。私は意識的にその音を大きくした。怪物をもっと引き寄せるためだ。拠点から十分距離を取るまでは、私自身が囮でいなければならない。
前方に、途中で崩れた高架の残骸が見えた。道幅は狭いが、左右を瓦礫で塞がれている。追ってくるやつらをまとめて処理するには悪くない。
私はアクセルを緩めず、そのまま高架下へ滑り込んだ。
直後、背後から湿った唸りが重なる。
来た。
私はハンドルを切って車体を横向きに止め、ほぼ同時に小銃を構えた。先頭の影が跳ぶ。頭を撃ち抜く。二匹目は腹から地面へ落ちる。三匹目は脚を撃ち、もがいたところを轢き潰す。
火薬の臭い。血の飛沫。金属が擦れる甲高い音。
それでも、静かにはならない。
影はまだいる。高架の上、配管の陰、割れた窓の向こう。小型ばかりじゃない。二回りは大きなやつが一匹、遅れて現れた。肩が妙に張り出し、顔の半分が骨みたいに露出している。人間の失敗作だろうか。それとも、もっと別のものの残り滓か。
「そっちも出来損ない?」
聞いても答えるわけがない。
大きいやつが吠える。空気が震えた。
私は拳銃へ持ち替え、バイクごと横へ滑らせる。突進を避けざま、眼窩らしき窪みへ一発。浅い。止まらない。ならもう一発――と思った瞬間、胸の奥で激しい痛みが弾けた。
「っ、ぁ……!」
視界がぐらりと傾く。握力が抜ける。拳銃が手から落ちた。
大きいやつが目の前まで迫る。
終わった、と思うより先に、私は本能でアクセルを吹かし、前輪を無理やり持ち上げた。車体の重みが相手の胸にぶつかる。勢いで体勢を崩したところへ、落ちた拳銃を拾ってゼロ距離で撃ち込む。耳が痛くなるほどの発砲音。肉と骨の弾ける感触が腕に返った。
沈黙。
それでも私はすぐには動けなかった。
荒い呼吸の合間に、熱いものが喉から込み上げる。私は咳き込み、その場に膝をついた。吐いたものは赤ではない。赤黒い、とも少し違う。もっと濁って、煤けて、最初から血であることをやめたような色をしていた。
それを見下ろして、私は少しだけ笑う。
「綺麗じゃないなあ」
この世界の夕焼けより、ずっと。
膝をついたまま、ふいに昔のことを思い出した。
八つのときだった。
私は逃げた。逃げるしかなかった。
白い部屋。薬品の匂い。冷たい床。数字で呼ばれる声。
Sunnyなんて名前は、その後だ。実験番号の名残を面白がって、老夫婦がそう呼び始めた。三世代目の二十一番。だからSunny。安っぽい冗談みたいな名付けだ。
でも、好きだった。
婆さんはよく笑う人で、爺さんは無口なくせに手が優しかった。私はその頃、自分が何なのかもよく分かっていなかった。人間の子どもと同じように飯を食い、同じように眠って、少しだけ耳がいいとか、少しだけ傷の治りが早いとか、その程度の違いしか知らなかった。
十で、壊れた。
祝福なんて大層なものじゃない。なるはずだった何かが、ぐしゃぐしゃのまま体の中へ出てきた。立ち止まると熱が上がり、数日もすると肉が裂け、もっと長くいると近くに怪物が寄るようになった。
爺さんと婆さんは、それでも私を追い出さなかった。
泣きながらバイクをくれた。
拳銃を持たせた。
「生きな」と言った。
「帰ってきていい」とも言った。
でも、帰れなかった。
帰ったら、あの家まで壊すから。
私はよろよろと立ち上がり、倒れた大きな怪物を見下ろした。崩れた肉塊の輪郭は、どこか人に近い。失敗の仕方が似ているのかもしれない。あるいは、私だって時間が経てばこうなるのかもしれない。
見た目はほぼ人間に近い魔物。
人型を強く残した失敗作の魔物。
それが私だ。
認めたところで少しも楽にはならない。ただ、名前のないものとして逃げ続けるよりは、ましだった。
空を見る。もう昼を回っているはずなのに、雲は低いままだ。遠くの地平だけがわずかに明るい。
私は倒れた拳銃を拾い、残弾を確認し、バイクへ跨がった。エンジンはまだ死んでいない。いい子だ。私よりよほど粘る。
「行こうか」
今度はちゃんと、自分の意思で言う。
どこへ行くのかは知らない。次の補給地か、別の共同体か、誰もいない道の果てか。そんなことはどうでもいい。ただ、ここじゃないどこかへ向かうしかない。止まった場所がそのまま終点になるなら、それは自由じゃなくて行き倒れだ。
私は最後に一度だけ、来た方角を振り返った。
もう拠点は見えない。
見えなくていい。
見えたら、戻りたくなる。
アクセルをひねる。赤と黒の車体が、瓦礫の上で唸りを上げる。風が頬を打つ。痛みも熱も消えない。消えないまま、それでも前へ出る。
空の色が少しずつ変わっていく。灰色が薄れ、遠くの雲の端が赤く染まる。夕方にはまだ早いはずなのに、世界は一足先に燃え始めたみたいだった。
私は煙草を一本くわえた。火をつける。走りながら吸うのは行儀が悪いが、今さら誰に叱られるでもない。煙が後ろへ流れ、ちぎれて、消える。
旅人は煙とともにある。
そんな格好いいものじゃない。
ただ、残るほどの居場所がないだけだ。
それでも、煙みたいに消えるには、まだ少しだけ惜しい。
私は夕焼けへ向かって走った。
止まれないまま。
どこにもいられないまま。
それでも、生きているうちは前へ行くしかないまま。




