出発
群れを拠点から引き離しきったのは、夜が半分以上過ぎてからだった。
瓦礫の斜面、干上がった水路、崩れた橋脚の陰。私はバイクで大きく回りながら怪物を散らし、ジンは途中から半ば意地でついてきた。何度か死にかけたし、何度か本当に置いていこうとしたが、そのたびにしぶとく追いついてくる。真面目というより執念だ。
ようやく数が減り、残った影も遠ざかり始めた頃には、空の端が白みかけていた。
私は廃工場の外れでバイクを止めた。エンジンが熱を持ち、金属がちりちり鳴る。自分の息も似たようなものだった。喉が焼ける。腕は重い。視界の隅が時々暗く欠ける。
「戻る」
ジンが言った。
「勝手にどうぞ」
「お前もだ」
「私は別」
私はそう言って、地面に吐き捨てた。黒ずんだ血が砂に染みる。
ジンはそれを見て、眉を寄せる。嫌悪ではない。痛みを見た時の顔だ。そういう顔をされると、かえって腹が立つ。
「別じゃないだろ」
「別なんだよ」
「拠点は守れた。なら――」
「なら、なおさら戻れない」
私は言葉を切って、額を押さえた。熱が酷い。皮膚の下の脈動も、さっきよりはっきりしている。袖の中が気持ち悪い。裂け目が広がっているのかもしれないが、今は見たくない。
ジンはしばらく黙っていたが、やがて低く言った。
「朝になれば、向こうもお前を探す」
「探させとけばいい」
「リノも」
私は返事をしなかった。
リノの顔が浮かぶ。弟の熱が下がるかもしれないと笑っていた顔。子どもみたいに真っ直ぐな、あのありがとう。そういうのを思い出すのは、今はいちばんよくない。
「……戻ったら、何て言うつもり」
私が聞くと、ジンはすぐには答えなかった。
「そのままは言わない」
「優しいね」
「お前が嫌がる顔してるからだ」
「余計なお世話」
けれど少しだけ助かる。全部を言いふらされるくらいなら、その方がましだ。
結局、私たちは夜明け前のぎりぎりで拠点へ戻った。
門の前では見張りが二人、疲れ切った顔で待っていた。私とジンの姿を見た瞬間、ひとりが大きく息を吐く。門が開く。中へ入ると、夜の騒ぎの痕があちこちに残っていた。壁の外板は何枚か割れ、地面には黒い血の跡が点々とついている。
それでも、人の気配はまだある。
鍋の匂い。子どもの泣き声。誰かを叱る声。そういうものが消えていない。それだけで十分すぎるほどだった。
「サニー!」
リノが走ってきた。寝ていなかったらしい。顔色は悪いが、目だけは赤くなっていない。泣かなかったのだろう。泣く暇がなかったのかもしれない。
「怪我……」
「生きてる」
「それは見れば分かる!」
珍しく少し怒った声だった。私はそれを聞いて、なぜか安心した。
まとめ役の女も出てくる。私とジンを順に見て、それから私の腕へ視線を落とした。袖口から滲んだ黒ずみを見たのだろう。女は一瞬だけ何かを悟った顔をしたが、何も言わなかった。
「中で手当てしな」
「いい」
「いいわけないだろう」
その言い方があまりにも普通で、私は笑いそうになった。普通じゃない怪我に、普通の手当てでどうにかなると思っているような響きだった。もちろん実際は、そんなことはない。
「少し休んだら出る」
私が言うと、空気がほんの少し固まった。
リノが先に口を開く。
「また?」
「また」
「弟、熱が下がってきたんだよ」
「よかった」
「よかったって、それだけ?」
「それ以上何言えっての」
自分でも刺々しい声だと思った。だが、柔らかく返したら終わる。少しでも優しい言い方をしたら、たぶん私はここに残る理由を探し始める。
ジンが間に入るように口を開く。
「外の群れは減った。でも消えたわけじゃない」
「なおさら休んでけ」
まとめ役の女が言う。
「昼まで。せめてそれまで」
私は首を振った。
「昼までいたら、また夜が来る」
「なら明るいうちに準備して――」
「そういう問題じゃない」
気づけば声が低くなっていた。周囲の空気が少し張る。私は息を吐いて、こめかみを押さえた。
「ここ、ちょっと駄目だったんだよ」
ぽつりと口をついて出た言葉に、自分で一番驚いた。
リノが目を瞬く。ジンは黙っている。まとめ役の女だけが、静かに私を見た。
「何が」
そう聞いたのはジンだった。
私は少しだけ笑おうとして、失敗した。
「欲しくなった」
たったそれだけで、十分だった。
温かい飯。直した機械が動く音。明日もここで暮らすつもりの人たち。誰かの弟が助かるかもしれないこと。名前を呼ばれること。いてくれて助かると言われること。
そういうものを、欲しいと思ってしまった。
欲しいと思った時点で、私はもうここにいてはいけない。
私は荷台の固定具を確かめながら続ける。
「ここに長くいると駄目になる。私も、あんたたちも」
「それはあの怪物のことか」
ジンが聞く。
「それも」
「それも、って何だ」
私は答えなかった。答えたところで理解できる話じゃないし、理解してほしいわけでもない。私の身体がどう壊れるかを誰かに説明するのは、ひどくみっともない気がする。
リノが唇を噛む。
「それでも……いてくれたらいいのに」
その一言は、思っていたより深く刺さった。
私は一瞬だけ目を閉じる。そういうことを、簡単に言うな。こっちは簡単に頷けないから困っているのに。
「駄目」
やっとそれだけ言った。
「なんで」
「止まったら死ぬんだよ、あたしは」
比喩でも、冗談でもなく。
リノはそこでようやく口をつぐんだ。意味を全部理解したわけではないだろう。それでも、言葉の重さくらいは伝わったらしい。
まとめ役の女が、深く息を吐く。
「追わないほうがいいね」
誰にともなく、あるいは皆に向けて言う。
その声には、引き留めたい気持ちと、引き留めてはいけない理解の両方があった。
「世話になった」
私はそれだけ告げた。
もっとまともな礼を言うべきなのかもしれない。けれど今の私には、それが精一杯だった。長く話せば話すほど、出発が遅れる。遅れれば遅れるほど、あのぬくもりに足を取られる。
バイクに跨がる。エンジンをかける。振動が掌に伝わり、ようやく呼吸が少しだけ整った。
これだ。これしかない。止まらないための音。
ジンが一歩近づく。
「サニー」
「何」
「またどこかで会うか」
私はヘルを被らない代わりに、サングラスを額に押し上げたまま笑う。
「会わない方が長生きできる」
「それでも」
言いかけたジンに、私は肩をすくめてみせた。
「その時まだ走ってたらね」
それが精一杯の約束だった。約束になっていないことくらい、自分で分かっている。
門が開く。
私は外へ出る前に、一度だけ後ろを見た。リノが立っている。まとめ役の女がその肩に手を置いている。ジンは何も言わないまま、ただこちらを見ていた。
戻りたくなる前に、私はアクセルをひねった。
外へ飛び出す。冷たい風が頬を切る。群れの残りを引きつけるため、わざと東の開けた方角へ進路を取る。遠くでいくつかの影が動くのが見えた。まだいる。なら、置き土産としては十分すぎる。
「じゃあね」
誰に向けたのかも分からないまま呟いて、私は速度を上げた。
走る。走る。走る。
欲しいと思ってしまった場所から、振り切るみたいに。




