失敗作
最初に壁を越えてきたのは、小型のやつだった。
犬みたいな胴に、やたら長い前脚。目は二つなのに、口の裂け方だけが異様に広い。飛びかかるというより、引っかくみたいに壁の上へ爪をかけ、そのまま自分の体重でよじ登ってくる。
私は小銃を構え、迷わず引き金を引いた。
頭が砕ける。血と何かの体液が壁に散る。だが一匹落としたところで終わりじゃない。すぐ後ろから別の影がぬるりと現れ、さらにその奥でも何かが蠢いている。
「左を見ろ!」
ジンの声が飛ぶ。
私は反射で身を捻り、左側の足場に乗りかけた小型へ二発。落ちる。今度は下から、誰かが槍で突き上げた。壁際にいた男たちも応戦しているが、動きに余裕はない。ここは大きな拠点じゃない。戦い慣れた連中ばかりでもない。
「リノは中へ!」
まとめ役の女が叫ぶ。返事は聞こえなかった。
私は舌打ちしながら弾倉を替えた。外の影は減らない。いや、増えている。どう考えても、たまたま流れてきた数じゃない。ここまで群れが寄る理由があるとしたら――考えたくもないが、答えはひとつだ。
「……くそったれ」
胸の奥が焼ける。熱だけじゃない。皮膚の下で、何かが脈を打っている。内側から、出たがっているような、不愉快な圧だ。
このまま壁の上で撃ち続けても、削られるのはこっちだ。拠点の中に入られれば終わる。だったら、やることは一つしかない。
私は小銃を肩に戻し、バイクのほうへ駆けた。
「何してる!」
ジンが怒鳴る。
「引き剥がす!」
「一人でか!」
「他に誰が走れるの!」
言い返す間にも、影が一匹こちらへ跳んできた。私は咄嗟に拳銃を抜き、口の中へ撃ち込む。ぬるい飛沫が頬にかかる。気持ち悪い。だが今さらだ。
バイクへ跨がり、エンジンを叩き起こす。低い唸りが返るより早く、私は門のほうへ向かっていた。
「開けろ!」
見張りが一瞬迷う顔をしたが、まとめ役の女が叫ぶ。
「開けな! 今しかない!」
門が軋みながら左右に開く。私は一気にアクセルをひねり、夜の外へ飛び出した。
空気が変わる。壁の内側の匂いじゃない。湿った肉と土と、飢えた息の匂い。群れは私に気づいた瞬間、はっきりと向きを変えた。
やっぱりだ。
「来いよ」
誰にともなく吐き捨てて、私は前輪を滑らせるように旋回した。ヘッドライトを一瞬だけ照らし、すぐ消す。明かりは敵にも味方にもなるが、今は目立ちすぎる。
後方で複数の足音が地面を叩く。人間より速い。だが直線だけなら、こっちに分がある。
私は外壁から少し離れた空き地を大きく回り、わざと銃を二発空へ撃った。群れが一斉に反応し、こちらへ流れてくる。壁の上から誰かの怒鳴り声が聞こえたが、もう振り返らない。
十分に引きつけたところで、瓦礫の斜面へ突っ込む。背後の気配が増える。三匹、五匹、それ以上。遠くに別の唸りも混じっている。面倒な数だが、拠点から剥がせればそれでいい。
斜面の途中で一匹が跳びついてきた。私は車体を振って振り落とし、横手の廃材へぶつける。骨の折れる嫌な音がした。別の一匹が足元を噛もうとしたので、クラッチを蹴り込みながら拳銃を下へ向けて撃つ。火花と悲鳴が上がる。
しばらく走ったところで、地面の段差に前輪が跳ねた。
その瞬間、胸の奥で何かが裂けたような痛みが走る。
「っ……!」
視界が白くにじむ。片手が痺れる。まずい。まずいが止まれない。止まれば追いつかれる。追いつかれなくても、もっと別のものに飲まれる。
私は半ば勢いのまま崩れたコンクリート壁の陰へ滑り込み、バイクを横倒しに近い角度で止めた。追ってきた小型が角を曲がった瞬間、小銃で二匹をまとめて撃ち抜く。三匹目は近すぎた。私は銃床で顔面を殴り、そのまま脚で蹴り飛ばした。
呼吸が荒い。
喉の奥が熱い。嫌な咳がせり上がる。私は唇を噛んで押さえ込もうとしたが、結局ひとつ大きく咳き込み、掌に吐いたものがどろりと指の間を伝った。
暗くて色までは見えない。見えなくても分かる。
「こんな時に、律儀に……」
自嘲が漏れる。体は本当に、頃合いを外さない。
その時だった。
「サニー!」
声。ジンだ。
私は思わず顔を上げた。瓦礫の向こうから、あいつが走ってくる。小銃を抱え、息を切らし、それでも真っ直ぐこちらを見る目だけはぶれていない。
「なんで来た!」
「一人じゃ無理だ!」
「馬鹿!」
叫んだ直後、横手から飛び出した影がジンへ向かう。私は反射で発砲した。間に合ったが、銃口の跳ね返りで肩が軋む。
ジンは一瞬こちらを見て、それから私の手元を見た。
月明かりが、袖のめくれた腕を照らしている。
皮膚の下に走る黒い脈。肘の内側近くで不自然に盛り上がった肉。裂けかけた薄皮の隙間から覗く、血とも肉ともつかない色。人間の怪我じゃない。病でもない。もっと作りが歪んでいる何か。
ジンの目が、はっきり見開かれた。
しまった、と頭では思う。だが今さら隠せる段階じゃない。私は舌打ちして袖を引き下ろそうとしたが、うまく指が動かなかった。
「……見た?」
私が言うと、ジンは答えなかった。ただ、視線だけは逸らさない。
「見たなら分かるでしょ。帰んな」
「それは何だ」
「面倒の種」
「そういう聞き方じゃない」
私は笑った。笑うしかなかった。
「じゃあ何。怪我? 病気? 呪い? 好きなの選びなよ」
「サニー」
「私は人間じゃない」
口に出した途端、夜気が少しだけ冷たくなった気がした。
ジンの喉が動く。
私は背中を壁に預け、拳銃を握ったまま続けた。説明なんてしたくなかった。けれど、ここまで見られて、なお誤魔化す方がよほどみっともない。
「うまく作られなかったんだよ。昔、そういう場所があってね。人を作るとか、もっと強いのを作るとか、そういうふざけたことしてた場所」
「……」
「私はその失敗。見た目だけ、ちょっと人に近い失敗作」
「魔物、なのか」
「そう」
自分で認めるのは、今でも少しだけ腹が立つ。だが事実だ。
「十で出るはずのものも、まともな形にならなかった。祝福にすらなりそこねた何かが、ずっと身体の中に残ってる」
「だから……」
「止まると腐る」
ジンが眉を寄せる。
「何だそれは」
「そのままの意味。長く同じ場所にいると、身体が駄目になる。熱が出て、血が濁って、肉がおかしくなる。それだけじゃない」
私は壁の向こう、まだこちらを探る唸り声へ顎をしゃくった。
「こういうのも寄ってくる。多分、匂いがするんだろ。似た出来損ないの」
ジンは何か言いかけて、やめた。言葉が追いつかない顔だった。無理もない。私だって、最初に自分の体でこれを理解した時は吐いた。
「分かったなら戻れ」
私は立ち上がろうとして、膝が揺れた。
「お前がいるとあそこに寄る。だから離す。いつもそうしてる」
「それで一人で走ってたのか」
「そう見えたなら上出来」
乾いた笑いが喉に引っかかる。痛い。
「サニー」
「何」
「それでも、あそこにいたって――」
「言うな」
思ったより強い声が出た。
私は自分でも少し驚いて、唇を噛む。ジンも黙った。夜の向こうで、低い唸りがまた近づいてくる。
「そういうこと言われると、困るんだよ」
吐き出すみたいに言う。
「困る?」
「居たくなるから」
その言葉だけは、ちゃんと本音だった。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
やがて私は息を整え、小銃を拾い上げる。まだやることは終わっていない。群れをもっと遠くへ引かなければ、拠点の連中は朝まで持たないかもしれない。
「話は終わり」
私はバイクを起こす。
「戻って、壁を固めろ。私はこいつらを連れてく」
「一人で行かせると思うか」
「思わないけど、思え」
言い終わる前に、闇の中から新しい影が飛び出した。
私は反射でアクセルを吹かし、前輪でその腹を撥ね上げる。ジンが追撃を入れ、影は地面に転がった。
会話の時間は終わりだ。
「来るぞ!」
ジンが叫ぶ。
私はバイクへ跨がり、もう一度だけ拠点の方角を見た。暗くて見えない。見えなくていい。見えたら多分、少しだけ迷う。
「帰れ、ジン!」
「断る!」
「ほんとに真面目だね、あんた!」
「褒め言葉として受け取る!」
馬鹿だ。どうしようもなく馬鹿だ。
私は笑いかけて、結局笑えないままアクセルをひねった。




