ひび
朝、目を覚ました瞬間に分かった。
やってしまった。
身体の奥に沈んでいた熱が、一晩で明らかに深くなっている。喉だけじゃない。胸の裏側、腹の底、腕の付け根、脚の関節。見えないところから、じわじわと何かが広がっていく感覚があった。痛みというより侵食に近い。慣れているはずなのに、毎回きちんと嫌だ。
私は他の連中が起きる前に外へ出た。朝靄が低く残り、地面には夜露が薄く光っている。冷えた空気を吸い込むと少しだけ頭が冴えたが、代わりに喉がひりついた。
煙草に火をつけようとして、やめる。今は喉を焼くより、水が欲しかった。
揚水機のところへ行くと、昨日より滑らかな音で水を吐いていた。ちゃんと動いている。整備した甲斐はある。私はそのまま桶を借りて顔を洗い、水面を覗き込んだ。
ひどい顔だ。
目の下に影。唇は乾いて、頬の色も悪い。旅の疲れだと言えば誰も疑わないだろうが、自分では分かる。これはそういうものじゃない。もっと根本の、どうしようもない側の顔だ。
「早いね」
後ろから声がした。振り向くと、まとめ役の女が籠を抱えて立っていた。朝の火起こし前らしく、髪をざっくり結んだだけの格好だ。
「旅人は寝起きがいいの」
「嘘だね。寝てない顔だ」
「昨日も言った」
「嘘つきの顔は覚えがいいんだよ」
私は桶を戻しながら肩をすくめた。女は私の横へ来て、揚水機の音を聞いて少し嬉しそうに笑う。
「直ってるねえ。助かったよ」
「一応、昼まで様子見た方がいい。古いから、別のとこが逝くかもしれない」
「じゃあ見てっておくれ」
さらっと言われて、私は言葉に詰まった。
見ていく。それだけのことが、今の私には軽くない。
けれど女は、こちらの沈黙を気にする様子もなく続けた。
「今朝は畑の柵も直したいし、昼には薬を飲ませた子が少し起きるかもしれない。忙しい忙しい。人手はいくらあっても足りないからね」
その口調には、引き留める意図と同じくらい、本当に今日を生きる予定が詰まっていた。そういうのに私は弱い。困っている相手に、綺麗に背を向けられるほど出来た人間じゃない。いや、人間ですらないのかもしれないが、どちらにしても中途半端だ。
「昼まで」
気づけばそう言っていた。
「うん?」
「昼までなら見る」
女の目が細くなる。
「助かるよ、サニー」
名前を呼ばれる。柔らかい調子で。それだけのことなのに、妙に胸のあたりがざらついた。
午前中は忙しく過ぎた。
畑の柵を補強し、揚水機の管を一部取り替え、壊れた手押し車の軸に油を差す。子どもがまとわりつき、リノが弟の様子を何度も見に行き、ジンは壁の外の痕跡を確認して戻ってくる。
「東の斜面に足跡が増えてる」
昼前、ジンがそう言った。
「どのくらい」
「昨日より多い。大きいのはいないが、群れは近い」
「……そう」
私は管の締め具を回していた手を止めた。やっぱり、と思う。思いたくもない確信だ。
「この辺り、普段からこんなに来るの?」
私が聞くと、ジンは首を振った。
「多くないらしい」
「らしい?」
「俺もここは初めてだ」
それはそうか。私は布で手を拭きながら、壁の向こうを見た。何かが起きる前の空気は、大抵似ている。風向き、匂い、鳥もいない静けさ。そういう細いものが、じわじわと周囲を固めていく。
昼には、リノの弟が一度だけ目を開けた。
熱に浮かされた顔のまま、それでも水を飲んで、小さな声で姉を呼ぶ。リノは泣きそうな顔で笑っていた。まとめ役の女も、薬を煎じていた若い母親も、皆どこかほっとしている。
私はその様子を、少し離れた場所から見ていた。
よかったね、と思う。普通に。心の底から。そういう感情が自分に残っていることに少し驚くくらいには、ちゃんとよかった。
「サニー」
リノが私を振り返る。
「弟、喋った」
「見てた」
「ありがとう」
「薬を運んだだけ」
「それでも」
その“それでも”が、やけにまっすぐ飛んできた。私は曖昧に手を上げて、視線を逸らす。感謝されるのは苦手だ。借りを作るみたいで落ち着かない。
午後になると、空は重く曇りはじめた。雨にはならないだろうが、光が鈍る。怪物はこういう空を好む。
私は外壁沿いを歩きながら、腕をさすった。寒いわけじゃない。皮膚の下がむずむずする。見えない虫が這っているみたいで、気持ち悪い。
その時、指先に硬い感触が触れた。
袖の下、肘の内側近く。皮膚の下に、小さな盛り上がりがある。骨でも筋でもない。昨日までこんな位置にはなかった。
私は立ち止まり、呼吸を浅くした。
来てる。
頭ではずっと分かっていた。長居しすぎた時の兆しだ。熱、咳、血の濁り、皮膚の下の脈。止まっている時間が長いほど、内側の“失敗した何か”が体を押し広げてくる。まるで、自分の居場所を主張するみたいに。
「……昼までのつもりだったのに」
ぼやいたところで遅い。
そのくせ、すぐに荷をまとめて出ていくことができない自分がいる。揚水機はまだ様子を見る必要がある。壁の足場も緩い。外の群れの気配も気になる。理由はいくらでも並ぶ。並べられてしまう時点で、もう駄目だ。
夕方、壁の見回りをしていたジンが戻ってきた。
「西にも痕がある」
「何匹」
「数えきれないほどじゃないが、増えてる」
「人の臭いを拾っただけならいいけど」
「違うのか」
私は答えなかった。
違う。多分。いや、ほとんど確実に。こいつらはただ人を嗅ぎつけているんじゃない。もっと別の、慣れたようでいて本来あってはいけない匂いに引かれている。
私の中の、出来損ないの匂いに。
「今夜、壁の見張りを増やす」
ジンはそう言った。
「勝手にすれば」
「お前は」
「寝る」
嘘だ。寝られるわけがない。だが見張りに立てば、余計なものまで見えてしまう。気づかなくていいものまで。
夜は早く来た。
火は最小限。話し声も低い。皆、外の気配をなんとなく感じているのだろう。小さな共同体は、危険が近づくと独特の静けさを持つ。恐怖を叫ぶ代わりに、皆が少しずつ声を落とすのだ。
私は食事もほとんど喉を通らず、壁際に座っていた。煙草を吸いたかったが、匂いを広げる気になれない。代わりに空を見上げる。雲が低く、月は薄い。
静かすぎる。
その静けさを破ったのは、壁の外から聞こえた、ひっかくような音だった。
ぎ、と。
ぎぎ、と。
乾いた木を、爪か牙で擦る音。
周囲の空気が一瞬で変わる。
「来たぞ!」
見張りの叫び。
誰かが子どもを抱えて建物へ走る足音。
銃の安全装置が外れる音。
私は立ち上がった。体の奥で熱がどくんと脈打つ。
壁の上へ目をやると、暗がりの向こうに、低い影がいくつも動いていた。ひとつ、ふたつ、みっつ――いや、それ以上。
私の喉の奥で、嫌な確信が冷たく固まる。
「やっぱり」
思わずそう漏れた。
壁の向こうからは、湿った鼻息と、飢えた唸り声が重なって聞こえてくる。
誰かが叫ぶ前に、私はもう荷台に積んだ小銃へ手を伸ばしていた。




