やさしい場所
朝の空気は冷たく、少しだけ湿っていた。
私はほとんど眠れないまま立ち上がり、火の残りを靴で散らした。ジンはすでに起きていて、無駄のない動きで荷をまとめている。リノはまだ半分寝ぼけた顔で、水を飲んでいた。
「顔色悪い」
開口一番、ジンがそう言った。
「お互いさま」
「俺は寝不足なだけだ」
「私は生まれつき」
昨日コウに使ったのと同じ返しをすると、ジンはそれ以上聞いてこなかった。助かる。詮索されるより、覚えておかれる方がまだましだ。
そこから先の道は、昨日より歩きやすかった。代わりに視界が開けている。こういう場所は怪物に見つかりやすいが、こちらも相手を早めに見つけられる。良し悪しだ。
瓦礫の丘を越えたところで、遠くに風車の残骸が見えた。羽は折れ、柱も傾いているが、その周囲だけ地面が均されている。人が行き来している証拠だ。
「あれ?」
リノが前を指さす。
「避難拠点の印」
私も見えた。布切れを結びつけた棒が二本、道端に刺さっている。素人にしか見えない目印だが、目的地を知っている者には十分だ。
昼を少し過ぎた頃、私たちはその拠点へ辿り着いた。
正直、拍子抜けした。
もっと荒んでいると思っていたのだ。食い詰めた連中が寄り集まって、銃を抱えたまま睨み合っているような場所を想像していた。けれど実際にあったのは、壊れた石造りの建物を囲うように板壁を足した、小さくて不格好な共同体だった。
門は低い。見張りも二人だけ。畑は痩せているし、水場だって立派ではない。なのに妙に整って見える。木箱が積まれ、洗った布が干され、子どもの靴みたいな小さなものが入口の横に並んでいる。そういう些細な形が、ここがただの避難所じゃなく、生活の場所なのだと知らせていた。
「リノ!」
門の向こうから女の声が飛んだ。
リノが走り出す。迎えに出てきた女は二十代半ばくらいで、頬がこけてはいるが目元の強い顔立ちをしていた。その腕の中へリノが飛び込む。
「薬は!?」
「持ってきた!」
言葉が早口で重なる。そこに男や子どもが集まり、布包みを受け取っていく。私とジンは少し遅れて門をくぐった。
中へ入ると、煮炊きの匂いと土の匂いがした。どちらも新しい。さっきまで誰かが水を撒いていたらしい。地面が少しだけ湿っている。
「助かった……本当に助かった」
包みを受け取った女が何度も言う。その背後から、小さな咳が聞こえた。建物の中、薄い寝台に寝かされた子どもの額に布が乗っている。リノはすぐそちらへ駆け寄り、顔を覗き込んだ。
弟、か。
私は視線を外した。ああいうものは、あまり長く見ない方がいい。
「部品もある」
ジンが私の荷台から布包みを下ろす。
すると別の男が、中身を見てぱっと顔を明るくした。
「これなら揚水機を直せる」
「直す前に壊した張本人が言うんじゃないよ」
どこからか飛んだ年配の女の言葉に、周囲が笑った。
笑い声。
この世界で聞くと、どうにも不意を打たれる。珍しいわけじゃない。人間はどんな場所でも笑う。笑うしかない時ほど笑う。分かっているのに、ちゃんと生活の中から零れた笑いは、時々胸に引っかかる。
「あなたが運んできてくれたの?」
年配の女が私を見た。髪には白いものが混じり、背は曲がりかけているが、目はしっかりしている。たぶんこの場所のまとめ役だ。
「道案内と護衛」
「十分だよ」
その女は私の肩から足元までを一通り見て、少し眉を寄せた。
「疲れてるね」
「旅の途中はだいたいこう」
「嘘つきの顔だ」
言われて、少しだけ笑ってしまった。
拠点の人間たちは忙しそうに動いていたが、どこか慌ただしさが柔らかい。薬を煎じる者、壊れた部品を運ぶ者、鍋の中身を混ぜる者、泣きそうな子どもをあやす者。誰もが足りないものだらけのはずなのに、空気だけは不思議と尖っていなかった。
私はその理由を少し考えて、すぐ分かった。ここには、ちゃんと「明日」があるのだ。今日をしのぐだけじゃなく、明日も水を汲み、畑を見て、飯を炊くつもりの空気がある。そういう場所は強い。
「サニー」
リノが振り返った。泣きそうな顔で、でも笑っている。
「熱、下がるかもしれないって」
「そりゃよかった」
「うん」
その“うん”が妙にまっすぐで、私は目を逸らした。
荷を渡し終えたらすぐ出るつもりだった。そう決めていた。けれど、結局その日のうちには離れられなかった。
理由はいくらでもつく。
ひとつは、部品の合う揚水機が古く、慣れた者が見た方が早かったこと。
ひとつは、外の風向きが悪く、群れの動きが落ち着くまで様子を見るべきだったこと。
ひとつは、ジンが「せめて飯くらい食っていけ」と珍しく強めに言ったこと。
どれも本当だ。だから余計に厄介だった。
私は揚水機の前にしゃがみ込み、受け取ってきた部品を当てていく。軸の径はぴたりと合った。古い機械というのは、たまにこうして昔の規格が生きる。工具を持つと少しだけ気が楽になる。手を動かしている間は、余計なことを考えなくて済む。
「そんなに簡単に直るもの?」
背後から声がした。振り向くと、まとめ役の女が水桶を抱えて立っている。
「簡単じゃない。慣れてるだけ」
「旅しながら覚えたのかい」
「まあ」
「便利だね」
「便利じゃないと死ぬから」
女はそれを冗談と思ったのか、ふっと笑った。
「今夜は泊まっていきな。空いた寝台はないけど、床ならいくらでも貸せる」
「飯だけで十分」
「人の好意は受け取るものだよ」
「受け取ってばっかりだと重い」
「返せばいい」
あまりにも当たり前みたいに言うから、私は返す言葉を失った。
返せばいい。
そんな簡単なこと、今さら言われても困る。返せるものばかりなら苦労はしない。置いていくのがいちばん安全な時だってある。
けれど夕方、直った揚水機から勢いよく水が出て、子どもたちがその周りではしゃぎ始めたのを見た時、私はほんの少しだけ肩の力を抜いていた。
リノの弟はまだ熱が高いらしく、寝台から起きられないままだったが、薬は効き始めていると聞いた。ジンは壁の見回りを買って出ている。誰かが鍋の中へ乾き肉を足し、誰かがそれを味見して顔をしかめ、塩をひとつまみ入れた。そういうどうでもいいやり取りが、妙に穏やかだ。
日が落ちるころには、空は薄い紫に染まっていた。
私は建物の外壁にもたれて煙草に火をつける。紫煙が冷たい空気にゆっくり溶けていく。遠くでは誰かが子どもを叱り、別の誰かが笑っている。
「吸うんだな」
隣に立ったのはジンだった。
「見れば分かるでしょ」
「臭いで分かってた」
「失礼」
ジンは壁にもたれ、私の煙を気にする様子もなく前を見た。
「夜が明けたら出るのか」
私は煙草をくわえたまま、少しだけ考える。
「そのつもり」
「その言い方は、だいたい変わる」
「よく分かってるじゃない」
「ここ、嫌いじゃないだろ」
私は答えなかった。
嫌いじゃない。むしろ困るくらいだ。風が冷たいくせに人の気配は温かい。足りないものだらけなのに、明日も同じように暮らすつもりでいる。そういう場所は、うっかりすると心の中へ入り込んでくる。
煙を吐いて、私は空を見上げた。
「たまにあるんだよ」
「何が」
「ちょっとだけ、離れにくい場所」
ジンはそれ以上聞かなかった。ただ、否定もしなかった。
その夜、私は床に敷かれた毛布の上で目を閉じた。眠れないだろうと思っていたのに、意外にも少しだけ意識が沈む。耳の奥では、誰かの寝息や遠い咳、木材が軋む音が混ざっている。
どれも、生きている音だ。
ここにいてもいいかもしれない。
ふと、そんな考えが浮かんだ。
たった一泊。もう一日くらいなら。揚水機の様子も見た方がいい。外の群れの動きだって完全には読めない。理由ならいくらでも作れる。作れてしまう。
そう思った瞬間、胸の奥で鈍い痛みがひとつ脈打った。
私は薄く目を開ける。
暗がりの中、誰かが寝返りを打った音がする。外では風が壁を撫でていく。静かな夜だった。
静かすぎる夜は、ろくなものじゃない。




