表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
旅人は煙とともに_IRIS.log

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

75/258

停まれない女

 朝、私は最悪の目覚め方をした。


 夢を見ていたわけじゃない。ただ、起きた瞬間に分かる。身体の奥に、鈍くて重い熱が溜まっている。骨の内側をじわじわ煮られているみたいな、嫌な熱だ。汗はかいていないのに、喉だけが渇いていた。


 薄い毛布を蹴りのけて身を起こす。周囲にはまだ寝息が残っている。寝床代わりの小屋は狭く、藁と布の匂いが混じっていた。私は舌打ちを飲み込んで、そっと外へ出る。


 空は白み始めていたが、門のところが妙に騒がしい。見張りの交代だけじゃない。何人も集まって、壁の外を気にしている。


「おはよう、旅のお姉さん」


 昨日の少年が、眠そうな目をこすりながら立っていた。よく起きてきたなと思う時間だ。


「早いね、あんた」


「おれ、見張り手伝うから」


「その背丈で?」


「矢なら渡せる」


 誇らしげに言うから、少し笑ってしまった。


 私は門のほうへ歩きながら、「で、今日は何があったの」と見張りに声をかける。


「夜のうちに増えた。東の道にも二、三匹いたらしい」


「群れで?」


「ばらけてる。でも嫌な数だ」


 門の隙間から覗くと、たしかに地面に新しい足跡がいくつも刻まれていた。獣とも人ともつかない、歪んだ形。大きさも揃っていない。小型が群れているのか、それとも別種が同じ方角へ動いているのか。どちらにせよ、私にとって都合がいい話ではない。


 私は壁にもたれて、こめかみを軽く押した。


「今出るのはやめとけよ」


 見張りの男が言う。


「言われなくても分かる」


「そうかい。物分かりのいい旅人で助かる」


 皮肉でも何でもなく、本気でほっとした顔をしている。門番というのは厄介事が嫌いだ。外へ出て食われる馬鹿も困るし、それを助けに行く羽目になるのはもっと困る。


 私は頷いて、井戸のほうへ向かった。顔を洗うついでに、水面を覗く。顔色は悪いが、まだ誤魔化せる程度だ。唇の色もそこまで酷くない。問題は見た目じゃない。内側だ。


 掌を水に浸したまま、私はそっと息を吐いた。


 たった一晩。そう思っていたのに、身体はもう反応を始めている。早すぎる。いや、最近はずっとこんなものかもしれない。間隔が狭くなっている。


 気分を変えるように顔を上げると、帳面をつけていた女が桶を抱えて歩いてきた。


「顔色が悪いね」


「朝はだいたいこんなもん」


「酒飲みかい」


「そんな贅沢できるように見える?」


「見えないね」


 女はあっさり言って、私の横で桶に水を汲んだ。井戸の滑車がぎしぎし鳴る。


「昼まで様子見て、少し静かになったら道を開けるつもりだよ。でもねえ、東の道は避けた方がいいかも」


「西は?」


「橋が落ちてる」


「北は?」


「この前、略奪の連中が出た」


「南は?」


「何もない」


「何もないがいちばん困るのよ」


 私が言うと、女は声を立てて笑った。


 こういう会話をしていると、ほんの少しだけ普通の朝みたいだと思う。どこにでもある、退屈で、どうでもよくて、それでいて嫌いじゃない朝。


 だが昼になる頃には、身体の熱ははっきり増していた。


 私はなるべく人の目につかないところを選んで、壁際でバイクの整備をしているふりをしていた。工具を触っていれば、黙っていても不自然じゃない。だが指先に力が入りづらい。視界の端が、たまに白く霞む。


 気分が悪い。


 部品箱を閉じようとして、私は手を止めた。甲の血管が、いつもより濃く浮いている。青というより黒に近い。皮膚の下で、細い虫みたいに脈打っている気がして、ぞっとした。


「……くそ」


 小さく吐き捨てる。薬なんかない。休んで治るようなものでもない。分かっている。分かっているから、余計に腹が立つ。


「サニー」


 名前を呼ばれて顔を上げると、昨日の少年が立っていた。両手に、割れた木椀を抱えている。


「これ、あげる」


「何」


「スープ」


「毒見は?」


「してない」


「じゃあ危ないな」


 冗談で言うと、少年は真顔で椀を引っ込めかけた。


「うそ。ありがと」


 慌てて受け取ると、少年はほっとした顔をした。湯気の向こうで笑う顔が、妙にまっすぐだ。


「おれ、コウ」


「そう」


「サニーは?」


「見たまんま、サニー」


「へんな名前」


「だろうね」


 コウは私の隣にしゃがみ込み、バイクをじっと見た。


「ほんとに今日いくの」


「そのつもり」


「昨日、母ちゃんが二、三日いてけばいいって言ってた」


「優しいね」


「サニー、道知ってそうだから」


「それが本音か」


「うん」


 即答だった。可愛げがあるのかないのか分からない。


 でも、その正直さは嫌いじゃなかった。必要だから引き留める。好ましいから引き留める。そういうのはこの世界では、むしろ誠実な方だ。


「長くはいられないんだよ」


「なんで」


 私は椀の中を見た。薄い豆のスープに、刻んだ根菜が少し。湯気が目に沁みる。


「性分」


「せいぶんって何」


「生まれつきってこと」


 コウはよく分からない顔をしていたが、それ以上は聞いてこなかった。子どもは案外、答えたくないことを見分ける。


 その日の午後、私は少しでも身体を動かして熱を散らそうと、集落の外壁沿いを歩いていた。風は乾いているのに、肌にまとわりつく感じがする。嫌な日だ。嫌な日は、大抵もっと嫌な話が来る。


「旅人さん」


 見張りの男に呼び止められた。帳面の女と、昨日の揚水機の前にいた男も一緒だ。三人とも妙に真面目な顔をしている。


「何」


「頼みがある」


「その顔で言う頼みはろくでもない」


「否定はしない」


 男は頭を掻いて、壁の向こうを顎でしゃくった。


「ここから西に半日ちょっとのとこに、避難拠点がある。小さなとこだが、子どもと病人が多い。今日中に薬と部品を届けるはずだった」


「はずだった?」


「運び手が戻らない」


「食われたか」


「多分な」


 帳面の女が、布に包んだ荷を持ち上げた。振った感じで、中身が軽くはないのが分かる。


「向こうに熱を出してる子がいる。部品も揚水機に使うやつだ。これがないと水も困る」


「それを私に持ってけと」


「道が読めて、怪物避けながら走れて、機械も分かる。今ここにいる中じゃ、あんたがいちばん向いてる」


「つまり他にいない」


「そういうこと」


 私は黙った。


 断る理由なら幾つもある。面倒だ。危険だ。私の事情だけで言えば、一刻も早くここを離れて走り続けたほうがいい。誰かのために荷を運ぶ余裕なんてない。


 なのに、帳面の女が抱える荷の重さや、コウが飲み残した椀のぬくもりなんかが、変に頭に残っている。


「一人じゃない」


 見張りの男が言った。


「こっちからジンをつける。向こうの子に会いたがってる娘も一人行くって聞かない」


「足手まといが二つに増えるだけじゃない」


「そう言うと思った」


 帳面の女はため息をついて、けれど視線は逸らさない。


「断っても恨みはしないよ。でも、行ってくれたら助かる」


 恨みはしない。そういう言い方をする人間は、大抵本当に恨まない。だから困る。泣き落としでも脅しでもない頼み事は、跳ねる時に妙な後味が残る。


 私は額を押さえて、しばらく黙っていた。身体の奥で熱が揺れている。ここに留まるのもまずい。なら、出る理由としては都合がいいとも言える。


「……半日で着く?」


「順調なら」


「順調じゃないのが普通だけど」


「それでも今日中には」


 私は荷を見た。女の手から受け取ると、見た目よりずっしりしている。薬瓶の感触と、金属部品の冷たい重み。


「燃料を少し多めに」


「出せる」


「弾も」


「少しなら」


「寝床代も込みで」


 女がやっと笑った。


「交渉上手だね」


「慈善事業じゃないから」


 本当は、それだけじゃない。ここを出る口実が欲しかっただけだ。誰かのためという顔をして、結局は自分の都合を通している。そう思うと少しだけ気が楽になる。


 だがその夜、荷の準備を終えて寝床へ戻ったあと、私はほとんど眠れなかった。


 喉が焼ける。胸が重い。身体の奥で、何かが脈を打つたびに痛みが走る。


 私は誰にも気づかれないように小屋を抜け出し、井戸の裏で膝をついた。胃の中身なんてろくにないのに、吐き気だけが込み上げる。乾いた咳のあと、口の端をぬぐうと、指先に黒ずんだものがついた。


 血だ。


 赤黒い、いや、もっと濁った色をしている。


 私はしばらくその色を睨んでから、井戸水で手を洗った。何度擦っても、見た目以上にこびりついている気がする。


「明日には出る」


 声にして、自分に言い聞かせる。


 たった一晩、たった一日。そうやって誤魔化してきた。これからもそうするしかない。止まるな。止まればろくなことにならない。分かっている。身体はずっと前から、それを証明し続けている。


 井戸の水面に映る自分は、暗くてよく見えなかった。


 そのほうが都合がよかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ