停まれない女
朝、私は最悪の目覚め方をした。
夢を見ていたわけじゃない。ただ、起きた瞬間に分かる。身体の奥に、鈍くて重い熱が溜まっている。骨の内側をじわじわ煮られているみたいな、嫌な熱だ。汗はかいていないのに、喉だけが渇いていた。
薄い毛布を蹴りのけて身を起こす。周囲にはまだ寝息が残っている。寝床代わりの小屋は狭く、藁と布の匂いが混じっていた。私は舌打ちを飲み込んで、そっと外へ出る。
空は白み始めていたが、門のところが妙に騒がしい。見張りの交代だけじゃない。何人も集まって、壁の外を気にしている。
「おはよう、旅のお姉さん」
昨日の少年が、眠そうな目をこすりながら立っていた。よく起きてきたなと思う時間だ。
「早いね、あんた」
「おれ、見張り手伝うから」
「その背丈で?」
「矢なら渡せる」
誇らしげに言うから、少し笑ってしまった。
私は門のほうへ歩きながら、「で、今日は何があったの」と見張りに声をかける。
「夜のうちに増えた。東の道にも二、三匹いたらしい」
「群れで?」
「ばらけてる。でも嫌な数だ」
門の隙間から覗くと、たしかに地面に新しい足跡がいくつも刻まれていた。獣とも人ともつかない、歪んだ形。大きさも揃っていない。小型が群れているのか、それとも別種が同じ方角へ動いているのか。どちらにせよ、私にとって都合がいい話ではない。
私は壁にもたれて、こめかみを軽く押した。
「今出るのはやめとけよ」
見張りの男が言う。
「言われなくても分かる」
「そうかい。物分かりのいい旅人で助かる」
皮肉でも何でもなく、本気でほっとした顔をしている。門番というのは厄介事が嫌いだ。外へ出て食われる馬鹿も困るし、それを助けに行く羽目になるのはもっと困る。
私は頷いて、井戸のほうへ向かった。顔を洗うついでに、水面を覗く。顔色は悪いが、まだ誤魔化せる程度だ。唇の色もそこまで酷くない。問題は見た目じゃない。内側だ。
掌を水に浸したまま、私はそっと息を吐いた。
たった一晩。そう思っていたのに、身体はもう反応を始めている。早すぎる。いや、最近はずっとこんなものかもしれない。間隔が狭くなっている。
気分を変えるように顔を上げると、帳面をつけていた女が桶を抱えて歩いてきた。
「顔色が悪いね」
「朝はだいたいこんなもん」
「酒飲みかい」
「そんな贅沢できるように見える?」
「見えないね」
女はあっさり言って、私の横で桶に水を汲んだ。井戸の滑車がぎしぎし鳴る。
「昼まで様子見て、少し静かになったら道を開けるつもりだよ。でもねえ、東の道は避けた方がいいかも」
「西は?」
「橋が落ちてる」
「北は?」
「この前、略奪の連中が出た」
「南は?」
「何もない」
「何もないがいちばん困るのよ」
私が言うと、女は声を立てて笑った。
こういう会話をしていると、ほんの少しだけ普通の朝みたいだと思う。どこにでもある、退屈で、どうでもよくて、それでいて嫌いじゃない朝。
だが昼になる頃には、身体の熱ははっきり増していた。
私はなるべく人の目につかないところを選んで、壁際でバイクの整備をしているふりをしていた。工具を触っていれば、黙っていても不自然じゃない。だが指先に力が入りづらい。視界の端が、たまに白く霞む。
気分が悪い。
部品箱を閉じようとして、私は手を止めた。甲の血管が、いつもより濃く浮いている。青というより黒に近い。皮膚の下で、細い虫みたいに脈打っている気がして、ぞっとした。
「……くそ」
小さく吐き捨てる。薬なんかない。休んで治るようなものでもない。分かっている。分かっているから、余計に腹が立つ。
「サニー」
名前を呼ばれて顔を上げると、昨日の少年が立っていた。両手に、割れた木椀を抱えている。
「これ、あげる」
「何」
「スープ」
「毒見は?」
「してない」
「じゃあ危ないな」
冗談で言うと、少年は真顔で椀を引っ込めかけた。
「うそ。ありがと」
慌てて受け取ると、少年はほっとした顔をした。湯気の向こうで笑う顔が、妙にまっすぐだ。
「おれ、コウ」
「そう」
「サニーは?」
「見たまんま、サニー」
「へんな名前」
「だろうね」
コウは私の隣にしゃがみ込み、バイクをじっと見た。
「ほんとに今日いくの」
「そのつもり」
「昨日、母ちゃんが二、三日いてけばいいって言ってた」
「優しいね」
「サニー、道知ってそうだから」
「それが本音か」
「うん」
即答だった。可愛げがあるのかないのか分からない。
でも、その正直さは嫌いじゃなかった。必要だから引き留める。好ましいから引き留める。そういうのはこの世界では、むしろ誠実な方だ。
「長くはいられないんだよ」
「なんで」
私は椀の中を見た。薄い豆のスープに、刻んだ根菜が少し。湯気が目に沁みる。
「性分」
「せいぶんって何」
「生まれつきってこと」
コウはよく分からない顔をしていたが、それ以上は聞いてこなかった。子どもは案外、答えたくないことを見分ける。
その日の午後、私は少しでも身体を動かして熱を散らそうと、集落の外壁沿いを歩いていた。風は乾いているのに、肌にまとわりつく感じがする。嫌な日だ。嫌な日は、大抵もっと嫌な話が来る。
「旅人さん」
見張りの男に呼び止められた。帳面の女と、昨日の揚水機の前にいた男も一緒だ。三人とも妙に真面目な顔をしている。
「何」
「頼みがある」
「その顔で言う頼みはろくでもない」
「否定はしない」
男は頭を掻いて、壁の向こうを顎でしゃくった。
「ここから西に半日ちょっとのとこに、避難拠点がある。小さなとこだが、子どもと病人が多い。今日中に薬と部品を届けるはずだった」
「はずだった?」
「運び手が戻らない」
「食われたか」
「多分な」
帳面の女が、布に包んだ荷を持ち上げた。振った感じで、中身が軽くはないのが分かる。
「向こうに熱を出してる子がいる。部品も揚水機に使うやつだ。これがないと水も困る」
「それを私に持ってけと」
「道が読めて、怪物避けながら走れて、機械も分かる。今ここにいる中じゃ、あんたがいちばん向いてる」
「つまり他にいない」
「そういうこと」
私は黙った。
断る理由なら幾つもある。面倒だ。危険だ。私の事情だけで言えば、一刻も早くここを離れて走り続けたほうがいい。誰かのために荷を運ぶ余裕なんてない。
なのに、帳面の女が抱える荷の重さや、コウが飲み残した椀のぬくもりなんかが、変に頭に残っている。
「一人じゃない」
見張りの男が言った。
「こっちからジンをつける。向こうの子に会いたがってる娘も一人行くって聞かない」
「足手まといが二つに増えるだけじゃない」
「そう言うと思った」
帳面の女はため息をついて、けれど視線は逸らさない。
「断っても恨みはしないよ。でも、行ってくれたら助かる」
恨みはしない。そういう言い方をする人間は、大抵本当に恨まない。だから困る。泣き落としでも脅しでもない頼み事は、跳ねる時に妙な後味が残る。
私は額を押さえて、しばらく黙っていた。身体の奥で熱が揺れている。ここに留まるのもまずい。なら、出る理由としては都合がいいとも言える。
「……半日で着く?」
「順調なら」
「順調じゃないのが普通だけど」
「それでも今日中には」
私は荷を見た。女の手から受け取ると、見た目よりずっしりしている。薬瓶の感触と、金属部品の冷たい重み。
「燃料を少し多めに」
「出せる」
「弾も」
「少しなら」
「寝床代も込みで」
女がやっと笑った。
「交渉上手だね」
「慈善事業じゃないから」
本当は、それだけじゃない。ここを出る口実が欲しかっただけだ。誰かのためという顔をして、結局は自分の都合を通している。そう思うと少しだけ気が楽になる。
だがその夜、荷の準備を終えて寝床へ戻ったあと、私はほとんど眠れなかった。
喉が焼ける。胸が重い。身体の奥で、何かが脈を打つたびに痛みが走る。
私は誰にも気づかれないように小屋を抜け出し、井戸の裏で膝をついた。胃の中身なんてろくにないのに、吐き気だけが込み上げる。乾いた咳のあと、口の端をぬぐうと、指先に黒ずんだものがついた。
血だ。
赤黒い、いや、もっと濁った色をしている。
私はしばらくその色を睨んでから、井戸水で手を洗った。何度擦っても、見た目以上にこびりついている気がする。
「明日には出る」
声にして、自分に言い聞かせる。
たった一晩、たった一日。そうやって誤魔化してきた。これからもそうするしかない。止まるな。止まればろくなことにならない。分かっている。身体はずっと前から、それを証明し続けている。
井戸の水面に映る自分は、暗くてよく見えなかった。
そのほうが都合がよかった。




