灰の道
日が完全に沈む前に、私は集落の灯りを見つけた。
灯りと言っても、街のものじゃない。闇に刺さるような白い電灯でも、窓からこぼれる温かな橙でもない。くたびれた布の内側で揺れる火と、時々だけ頼りなく明るくなる裸電球。ああいうのは、遠くからでも分かる。生き延びることを最優先にした人間の灯りだ。
私は道の脇に転がる古い標識を避けながら速度を落とした。かつては何かの町へ続いていたのだろう道路は、途中から穴と亀裂ばかりで、ほとんど獣道みたいになっている。舗装を信じて走ると死ぬ。今の世界で信じていいのは、自分の勘と、たまに機嫌のいい機械だけだ。
集落は、低い土壁と鉄板の継ぎ接ぎで囲われていた。見張り台は二つ。どちらも高いとは言えないが、周囲の見通しは悪くない。門の前には古タイヤと鉄骨を積んだだけの障害物が並び、その隙間から銃口がひとつだけこちらへ向いている。
「止まれ」
くぐもった男の声が飛んできた。
私は素直に止まった。逃げも隠れもしない旅人ってのは、それだけで少し信用される。逆に、ここで妙な動きをするやつは腹に何か抱えてるって自白するようなものだ。
「一人だ。補給したいだけ」
エンジンは切らずに言う。完全に切ると、気温によっては次の始動が面倒になる。
しばらく間があった。門の影で二、三人がひそひそ話す気配がする。やがて、錆びた鉄板をずらす音と一緒に、痩せた男が姿を見せた。頬がこけて、髭が伸びて、でも銃の持ち方はまともだ。
「武器は」
「拳銃一丁、小銃一丁。売る気はない」
「怪我人じゃないな」
「見りゃ分かるでしょ」
男は私の顔をじろじろ見たあと、バイクにも視線を落とした。旅慣れた車体。括りつけた荷。余計な飾りのない服。女一人で走っているにしては、驚きより納得のほうが先に立つ見た目だと思う。
「一晩だけだぞ」
「上等」
私は軽く顎を上げて、門の中へ入った。
中は想像していたより人が多かった。女が鍋をかき回し、老人が壁際で弾を磨き、子どもが細い犬みたいな新動物を追いかけている。空気は煤と汗と煮込みの匂いでむっとしていたが、死臭は薄い。少なくとも、今夜のところはまだ暮らしが勝っている場所らしい。
私はまず物資の交換を済ませようと、中央の小屋へ向かった。そこが倉庫兼見張りの詰所らしい。乾いた豆、塩、粗悪な煙草、銃弾少々、油。欲しいものは大体その辺りだ。
「燃料は?」
帳面をつけていた女に尋ねる。
「あるけど高いよ」
「こっちも安くない」
私は袋から小さな部品入れを出して見せた。古い車両や発電機に流用できそうなねじや接続具を選別したものだ。集落によっては食料より喜ばれる。
女は眉を上げて中を覗き込み、少しだけ顔つきを和らげた。
「整備屋かい」
「旅のついで」
「便利なついでだね」
そう言っている最中、外から甲高い怒鳴り声が聞こえた。
「また止まったぞ!」
それに続いて、女の舌打ち。
「井戸の揚水機?」
「そう。朝から機嫌が悪くてね。叩いて騙し騙し回してたんだけど」
「見てもいい?」
口が勝手にそう言っていた。やめておけばいいのに、と自分でも思う。けれど、こういうのを放っておくと落ち着かないのだから仕方ない。
案内された先では、井戸の脇に据え付けられた古い揚水機の周りに、数人の女と男がしゃがみ込んでいた。錆びた外装、油の染みたボルト、裂けかけの管。なるほど、よく今まで保ったものだ。
「誰だ、あんた」
「通りすがり」
「頼んでない」
「じゃあ見てるだけにする?」
男はむっとした顔をしたが、水がないのは困るらしい。結局、場所を空けた。
私はしゃがみ込み、手を突っ込んで中を探った。軸の噛み合わせが悪い。詰まりもある。配管の継ぎ目から泥が入ったのかもしれない。私は工具袋から薄い金具を取り出して詰まりを掻き出し、軸を一度外して組み直した。ついでに緩んでいた接続も締める。
十分ほどで済む仕事だった。
「回して」
横にいた女が半信半疑でハンドルを回す。最初は重かったが、二度、三度と回すうちに内部が滑らかに動き始め、やがてごぼごぼと水の音が返ってきた。
女たちがざわめく。
勢いよく吐き出された濁り水が、やがて少しずつ澄んでいく。誰かが笑い、誰かが「助かった」と声を上げた。
「旅のついでにしちゃ腕が良すぎるね」
さっきの帳面の女が言った。
「壊れてるものが目につくと気になるだけ」
「厄介な性分だ」
「ほんとにね」
自分で言って、少し笑った。
その時だった。後ろから視線を感じて振り向くと、小さな男の子が私のバイクをじっと見ていた。六つか七つくらい。痩せてはいるが、目だけは妙に大きい。
「乗りたい顔してる」
私が言うと、少年はこくりと頷いた。
「乗せないけど」
すると、あからさまに肩を落とす。素直すぎて可笑しい。
「どこから来たの」
「遠いとこ」
「どこまで行くの」
「行けるとこまで」
「ひとり?」
「見れば分かるでしょ」
少年は少し考えてから、バイクの赤い塗装に触れかけて、途中で手を止めた。壊したら怒られると思ったのかもしれない。
「これ、速い?」
「そこそこ」
「怪物より?」
「相手による」
「すごいな……」
その呟きは本気で羨ましそうで、私は曖昧に肩をすくめるしかなかった。
自由でいいな、とでもそのうち言われるのかと思ったが、子どもはそこまで分かった顔をしない。ただ、見たままに、速そうだとか強そうだとか、そういう夢みたいな輪郭だけを掴んでいる。
羨ましがるには十分だ。実際の中身なんて知らなくていい。
夜には、簡単な食事の輪に混ぜられた。豆の煮込みと、硬いパンのようなもの。それでも温かいだけで十分な御馳走だ。私は自分の分を静かに食べ、誰かの身の上話にも深入りせず、当たり障りのない返事をしていた。
こういう距離は嫌いじゃない。名前も過去も知らないまま、同じ鍋を囲むだけの一晩。それなら軽い。明日の朝には別々の道へ戻れる関係は、たいてい心地いい。
「あんた、何日くらいいるんだい」
向かいに座っていた年配の女が、何気ない調子でそう聞いた。
私はパンをちぎる手を一瞬だけ止めた。
「朝には出る」
「外、今日は妙に騒がしいよ」
「騒がしくない日の方が珍しい」
「それでもさ。二、三日休んでけばいいのに。寝床くらい貸せるよ」
善意でしかない声だった。だからこそ、返しに困る。
「長居は性に合わない」
そう言って笑うと、女も「もったいないね」と笑った。会話はそれで終わる。誰も気に留めない。けれど、私の喉の奥には小骨みたいな違和感が残った。
夜更け、皆が寝静まったあと、私はひとりで外へ出た。門の近く、壁にもたれて煙草に火をつける。空は低く、雲が速い。風向きが昼間と変わっていた。
嫌な風だ。
私は煙を吐きながら、暗闇の向こうを見た。見えるわけじゃない。ただ、分かる。どこかがざわついている。草の擦れる音、遠い足音、呼吸の揺れ。怪物か、人間か、それともその両方か。
今夜のうちに出るべきだったかもしれない。
そう思って立ち上がった時、見張り台の上から低い声が降ってきた。
「動くな」
「なに」
「外、いる」
私は壁際へ寄って、暗闇を睨んだ。
確かにいた。
遠く、月の薄明かりの下を、黒い影がいくつもゆっくり動いている。ひとつ、ふたつじゃない。数を数える前に、私は舌打ちした。
今から門を開けて走り抜けるのは無理だ。あれだけまとまって寄っているところへ突っ込めば、さすがに面倒では済まない。
「……朝まで足止めか」
誰に聞かせるでもなく呟くと、見張り台の男が「中へ入れ」と言った。
私は吸いかけの煙草を踏み消して、小さく息を吐いた。
たった一晩。たったそれだけ。
そう自分に言い聞かせながら、私は寝床へ戻った。




