プロローグ
最後に恋をしたのはいつだっただろうか。煙草を始める前か始めた後か分からないが、そのくらいだったはずだ。
火をつけたばかりの煙草をくわえたまま、私はひび割れた欄干に片肘をついた。かつては立派な道路だったのだろう、高架の端は途中で崩れて、その先は空に向かって折れた骨みたいに突き出している。見下ろせば、下には潰れた車の残骸と、乾ききった川床があるだけだった。
夕焼けが赤い。
嫌いじゃない。好きかと言われると困るが、こういう終わりかけの色は、妙に目に残る。世界そのものが燃え尽きる寸前で止まったみたいで、今の有り様にはよく似合っていた。
煙を吐く。風がすぐに攫っていった。
遠くで銃声が二つ、少し遅れて何かの悲鳴。それからまた静かになる。静かといっても、完全な無音じゃない。鉄板が風に鳴る音や、見えないところで砂利が転がる音や、どこかで獣とも人ともつかないものが喉を鳴らす気配が、ずっと地面の下を這っている。壊れた世界ってやつは、死んだように見えて案外うるさい。
私は煙草を指先で弾いて、背後へ視線をやった。
赤と黒の大型バイクが、傾いた街灯の影に身を沈めている。塗装はところどころ剥げ、側面には細かい擦り傷が幾つも走っていた。綺麗な代物じゃない。けれど、よく走る。少なくとも私よりは文句を言わない。
しゃがみ込んで前輪を軽く蹴る。空気圧は悪くない。荷台に括った鞄の紐を引き、緩みがないか確かめる。油の匂いに混じって、古い革と火薬の匂いがした。左腰の拳銃はいつもの位置。車体脇の固定具には小銃。予備弾倉は少なめ。燃料も潤沢とは言い難いが、次の補給地までは保つだろう。
たぶん。
まあ、保たなければ困るのは私だ。バイクは困らない。止まって終わるだけだ。
「……それは勘弁」
誰にともなく呟いて、私は煙草をもう一度吸った。肺に入った熱が、妙に心地いい。咳は出ない。今日はまだましな日だった。
手の甲を見る。煤と油で汚れた皮膚の下に、血管が青く浮いている。昔から痩せ気味ではあったが、ここ数年は特にそうだ。頬もこけたし、肋骨の数だって数えようと思えば数えられる。旅暮らしのせいだと笑えば済むが、別に笑うほどのことでもない。
昔、誰かに言われたことがある。あんたは自由でいいね、と。
あの時、私はなんて返したんだっけ。忘れた。たぶん適当に笑って、煙に巻いたんだろう。そういうのは得意だ。否定したところで面倒な話になるだけだし、肯定したところで何かが変わるわけでもない。
自由。
便利な言葉だ。帰る場所のないやつにも、止まれないやつにも、とりあえず貼っておける。
風向きが変わった。鼻の奥に、湿った臭いが混じる。血と泥と、腐った肉をぬるま湯に沈めたみたいな、慣れきった臭いだった。
私は煙草を口元から外して、道路の下を見た。乾いた川床の向こう、斜面の藪がわずかに揺れている。ひとつじゃない。三つ。いや、四つか。まだ遠いが、こっちへ上がる気配はある。
面倒くさい。
日が落ち切る前に走ってしまうつもりだったが、向こうも腹が減っているらしい。大方、どこかで人間の匂いでも嗅ぎつけて移動してきたのだろう。あるいは、もっと別のものに引かれているのかもしれないが、今は考えないことにする。
私は吸い殻を地面に落とし、靴底で火を潰した。
そのままバイクに跨がる。キーを捻り、癖のある点火を二度、三度。低い唸りのあと、エンジンがようやく目を覚ました。振動が腿から腹へ伝わってくる。この感覚だけは、いつまで経っても嫌いになれない。
「行こうか」
誰もいない道に向かって言う。
Sunnyなんて、洒落た名前を最後に呼ばれたのはいつだったか。そんなことを思い出しかけて、やめた。昔のことを丁寧に拾い上げると、ろくな目に遭わない。過去は大抵、腹の傷みたいなものだ。治った顔をしていても、触れば痛む。
アクセルをひねる。前輪が砕けたアスファルトを噛み、車体が前へ滑り出した。背後で何かが低く唸ったが、もう振り返らない。
赤い空の下を走る。
行き先なんて大したものはない。ただ、止まらないだけだ。




