不在
同窓会の会場は、思っていたよりずっと騒がしかった。
大人になったはずの人たちが、中学生の頃と同じような声で笑っている。
仕事の話、結婚の話、子どもの話。
誰がどこに住んでいて、誰が転職して、誰がまだ独身で、誰が昔のまま変わっていないか。
そんなことが、テーブルの上を軽く跳ねていく。
私はグラスを持ったまま、もう一度店の中を見回した。
やっぱり、レンはいなかった。
遅れて来るのかもしれない。
そう思って、最初のうちはあまり気にしないふりをしていた。
でも一時間ほど経っても来なくて、二時間近くなっても来なくて、私はやっと、それを不自然だと思い始めた。
一番近くにいた女子に、何気ないふうを装って聞いた。
「そういえば、レン来てないんだね」
その子は少し首を傾げた。
「来てないね。誘われてなかったっけ?」
「さあ、どうなんだろ」
「最近どうしてるんだろうね」
その返しに、私は少しだけ引っかかった。
最近どうしてるんだろうね。
昔の同級生に向けるには自然な言葉だ。
でも、レンみたいな人に向けると少しだけ変に聞こえた。
だってレンは、目立つ人だった。
サッカー部で、モテて、明るくて、誰とでも話せた。
卒業してから何年も経っても、ひとりくらいは連絡を取っていそうなものなのに。
私は別の男子にも聞いてみた。
「レンって今なにしてるか知ってる?」
「レン?」
「うん」
「あー……いや、知らないな」
「誰か知ってる人いない?」
「さあ。いたっけ?」
最後の一言は、酔っていただけかもしれない。
名前を聞き返したわけじゃない。
でも、まるで記憶の輪郭が少し曖昧になっているみたいな言い方だった。
私は笑ってごまかした。
「いたでしょ。サッカー部の」
「あー、いたいた。いや、もちろん覚えてるよ」
本当に覚えている人の言い方ではなかった。
そのあとも何人かに聞いた。
でも返ってくる答えは、どれも似たようなものだった。
「最近は知らない」
「連絡先残ってない」
「進学してから会ってない」
「そういえば、どうしてるんだろう」
不自然なほど、誰も知らなかった。
大人になると、人は案外あっさり繋がりを失う。
卒業して、進学して、就職して、引っ越して、結婚して。
そのうち連絡しなくなって、気づけば何年も会っていない。
そういうことは珍しくない。
頭では分かっている。
だからこれは、ただそれだけなのかもしれない。
それでも私は、なぜか胸が冷えるのを止められなかった。
レンのことを最後にちゃんと見たのは、いつだっただろう。
高校に入ってから何度か会って、電話をして、連絡が減って。
それから完全に切れたわけじゃないまま、気づけば何年も経っていた。
別れの挨拶もしていない。
喧嘩もしていない。
嫌いになったわけでもない。
ただ遠くなって、ある日からそのままだ。
思い出の中のレンは、ずっと中途半端な場所に立っている。
振り返れば見えるのに、もう手は届かないところ。
その人が今どこで何をしているのか、誰も知らない。
それは、少し怖いことだった。
トイレに立ったふりをして、私は店の外に出た。
夜風が少し冷たかった。
酔いの回った頭が、外気に触れてゆっくり冷えていく。
スマホを取り出して、連絡先の一覧を眺める。
もう使われていない番号だと知っている。
昔一度だけ、機種変更のあとに送ったメッセージが返ってこなくて、そのままになっている。
それでも私は、その名前をしばらく見ていた。
レン。
たった三文字なのに、昔の季節が少し戻ってくる。
放課後の廊下とか、夏のグラウンドの音とか、制服の袖口の匂いとか。
そういう細かいものまで、一緒に浮かぶ。
私は結局、何も送らなかった。
送る言葉が思いつかなかったからじゃない。
たぶん、送っても届かない気がしたからだ。
店に戻ると、みんなはまだ賑やかだった。
誰かが昔の先生の真似をして笑いを取っていて、別の誰かが写真を撮ろうと声を上げている。
私はその輪に入って、一緒に笑った。
笑いながら、たまに空いた席の方を見た。
最初から誰も座っていなかった席なのに、そこだけ少し静かに見えた。
帰り際、幹事の子に聞いてみた。
「そういえば、レンにも案内送ったの?」
「送ったはずだけどなあ」
「返事は?」
「なかったと思う」
「そっか」
「住所録、昔のままのとこも多いしね。今どこにいるのか分かんない人、結構いるし」
そう言って幹事は忙しそうに笑った。
本当に、それだけの話なのかもしれない。
私は「またね」と言って店を出た。
駅までの道を歩きながら、昔のことを少しだけ思い出した。
レンが、好きな人がいるんだ、と言った夜。
その相手の名前が、アイリスだったこと。
銀髪で、綺麗で、静かな人だと話していたこと。
会った回数も、どこで会ったのかも、うまく説明できないと言っていたこと。
今になって思う。
あの話は、最初からどこか変だった。
でも、中学生や高校生の恋なんて、たいてい少し変だ。
現実味のない相手に本気になったり、ほんの数回目が合っただけで運命だと思ったり。
だから私は、あの時ちゃんと不思議がれなかった。
ただ、自分じゃなかったことが痛かっただけだ。
駅のホームで電車を待ちながら、私は夫に連絡した。
――今から帰るね。
すぐに返事が来る。
――おつかれ。気をつけて。
――何か食べる?
その短い文を見て、少しだけ肩の力が抜けた。
家に帰れば、夫がいる。
温かい部屋があって、たぶん冷蔵庫には昨日の残り物がある。
私は今日のことを少し話して、夫は「へえ」とか「そんなもんか」とか言いながら聞いてくれるだろう。
それは穏やかで、ちゃんとした生活だった。
私が選んで、今も大事にしたいと思っている毎日だ。
なのに、胸のどこかに小さな棘みたいなものが残っている。
レンは今、どこにいるんだろう。
幸せになっていてほしい、と思う。
本当にそう思う。
昔好きだった人が、どこかでちゃんと生きていてくれたらいい。
そう願うことは、もう裏切りじゃないはずだ。
でも同時に、誰もその後を知らないという事実が、やけに重かった。
まるで、途中から少しずつ世界の外にこぼれ落ちてしまったみたいに。
電車が来て、扉が開く。
私は乗り込んで、窓に映った自分の顔を見た。
大人の顔だった。
もう中学生のエマではない。
レンに一目惚れして、視線ひとつで心臓を痛くしていた頃の私は、もういない。
でも、いなくなったはずのものが、時々まだ胸の奥に残っている。
恋は終わる。
愛は続いていく。
たぶんそれは本当だ。
だけど、終わった恋が完全に消えるわけでもない。
消えないまま、生活の底に薄く沈んでいく。
普段は見えなくても、ふとした拍子に揺れて光る。
レンのことも、きっとそうなるのだと思った。
帰宅すると、夫が玄関まで来た。
「おかえり」
「ただいま」
「楽しかった?」
「うん。まあまあ」
コートを脱ぎながら、私は少し迷った。
それから靴をそろえて、小さく息をつく。
「ねえ」
「ん?」
「昔の同級生でさ、すごく久しぶりに名前を聞いた人がいて」
「うん」
「でも、誰もその後を知らなかったんだよね」
夫はそれを茶化さなかった。
ただ「そういうの、あるよな」と静かに言った。
私は頷いた。
そういうの、ある。
たぶん本当に、ただそれだけのことだ。
ただそれだけのことなのに、どうしてこんなに静かに引っかかるんだろう。
食卓には、簡単な夜食が用意されていた。
湯気の立つスープと、切っただけのサラダと、あたため直したパン。
私は席に座って、夫と向かい合った。
この人を私は愛している。
それは確かなことだ。
今日も、明日も、多分この先も。
それでも、レンという名前は消えない。
消えないまま、たぶんもう二度と確かめられない。
私はスープをひと口飲んだ。
少し熱くて、ちょうどよかった。
あの人がその後どうなったのか、結局、誰も知らなかった。




