愛
卒業してから、最初のうちはちゃんと連絡を取っていた。
ちゃんと、というほどでもないかもしれない。
月に何度か、思い出したみたいにメッセージが届く。
高校どう? とか、課題だるい、とか、部活疲れた、とか。
私もそれに返す。
新しいクラスのこととか、通学が大変だとか、文化祭の準備が面倒だとか。
どれも普通の会話だった。
好きとか会いたいとか、そういう言葉は一度も出なかった。
でも出ないまま続いていることが、少しだけ嬉しかった。
人は、続いているものに期待してしまう。
それが何の約束でもなくても、切れていないだけで、まだ大丈夫だと思ってしまう。
レンとの連絡も、最初はそんな感じだった。
たまに会うこともあった。
駅前で少しだけ話したり、放課後に時間が合ってファストフード店に寄ったり。
制服が変わって、お互いの周りの人間関係も変わって、それでも向かい合って座ると中学の頃に少しだけ戻れる気がした。
でも戻れるのは、たぶんその時間だけだった。
会話の隙間に知らない話題が増える。
私の知らない友達の名前。
レンの知らない先生の話。
前ならすぐに伝わった冗談が、一拍遅れてから笑いになることもある。
何かが壊れたわけじゃない。
ただ少しずつ、共有していた世界の面積が減っていった。
それでも私は、まだ好きだった。
ずっと同じ熱ではなかったと思う。
中学の頃みたいに、姿を見るだけで苦しくなるほどではない。
でも、特別なままだった。
他の誰よりも、少しだけ気にしてしまう相手。
連絡が来たら嬉しくて、来なければ少し寂しい相手。
たぶんそれが、恋が薄くなりながら続いている状態なんだと思う。
高校二年の冬だったと思う。
その日もレンから連絡が来た。
少し久しぶりで、私はそれだけで心が軽くなった。
――今、少し話せる?
その一文を見て、私は妙に緊張した。
こういう時、人は勝手に期待する。
もしかしたら、とか。
もしかして、ようやく、とか。
でも現実は大抵、想像したものとは別の形をしている。
電話に出ると、レンの声は少しだけ疲れていた。
「ごめん、急に」
「ううん。どうしたの?」
「ちょっとさ、聞いてほしくて」
その言い方で、すぐに分かった。
これは私が望んでいた種類の話じゃない。
「うん」
「俺さ、好きな人いるんだ」
胸の中がひどく静かになった。
ショック、というより、ああやっぱり、みたいな諦めに近い感覚だった。
いつかはこうなると思っていた。
レンがずっと誰のものにもならないはずがない。
分かっていた。
分かっていたけど、実際に言葉になると、やっぱり少し痛い。
私はなるべく普通の声を作った。
「そっか」
「うん」
「どんな人?」
自分でも驚くくらい、落ち着いていた。
泣きそうにもならないし、怒りもない。
恋って終わる瞬間より、終わったあとにじわじわ痛むものなのかもしれない。
レンは少し黙ってから言った。
「変なこと言うかもしれないけど」
「うん」
「多分、会ったのはそんなに多くないんだよな」
「え?」
「でも、忘れられなくて」
その時点で、私は相手を想像できなかった。
同じ学校の子でもなさそうだし、幼なじみみたいな感じでもない。
でもレンの声は本気だった。
冗談で言っているんじゃないことだけは分かった。
「どこで会ったの?」
「それが……うまく言えない」
少し笑うような、困るような声だった。
「銀髪で、すごく綺麗で」
「うん」
「なんか、静かで」
「うん」
「見てるだけで、全部分かったみたいな顔するんだよ」
私は黙って聞いていた。
レンが誰かをこんなふうに話すのを、初めて聞いた。
外見のことだけじゃない。
その人を見た時の、自分の気持ちまで混ざっている話し方だった。
好きな人の話をする声だった。
「名前は?」
「アイリス」
その名前を聞いた時、少しだけ引っかかった。
綺麗な名前だと思った。
でも同時に、どこか現実感が薄い響きにも聞こえた。
「高校の子?」
「いや、違うと思う」
「違うと思うってなに」
「いや、本当にそうなんだって。なんか、ちゃんと説明できなくて」
私は笑った。
笑ったけど、胸はちゃんと痛かった。
「レン、珍しいね。そんなふうになるの」
「自分でも思う」
「会えそうなの?」
「分かんない」
「連絡先は?」
「知らない」
「なにそれ」
「だから困ってる」
私は電話を耳に当てたまま、天井を見た。
叶わない恋の相談を、好きな相手から受けている。
よくある話みたいで、実際に自分がその役になると全然うまく笑えない。
「エマならさ」
「うん」
「こういうの、どうすればいいと思う?」
どうもしないでほしい、と思った。
忘れてしまえばいいのに、と思った。
その人のことなんて好きにならなければよかったのに、と思った。
でも私は、そういうことを言う人にはなれなかった。
「……会えるなら、もう一回会ってみたら?」
「会えたら苦労しないんだけどな」
「そっか」
「でも、そうだよな」
レンはそこで少し黙った。
通話越しの沈黙が妙に長く感じる。
「エマって優しいよな」
「そんなことないよ」
「いや、ある」
違う。
私は優しいんじゃない。
ただ、レンに嫌われたくないだけだ。
そう言いたかったけど、もちろん言えなかった。
そのあとも少し話した。
学校のこと、進路のこと、最近見た映画のこと。
でも会話の真ん中にはずっと、見たこともないアイリスが座っていた。
電話を切ったあと、私はしばらくスマホを置けなかった。
泣きたいわけじゃない。
怒っているわけでもない。
ただ、自分の恋が完全に片側だけのものだったと、はっきり形になってしまった気がした。
私はレンが好きだった。
レンは誰かを好きだった。
その誰かは私ではなかった。
それだけのことだ。
それだけのことなのに、体の内側が空っぽになるみたいだった。
その日を境に、レンとの連絡は少しずつ減った。
自然に、という言葉が一番近い。
喧嘩したわけでもない。
気まずくなったわけでもない。
ただ、前みたいにやり取りが続かなくなった。
たまに連絡が来ても、前ほど長くは続かない。
私も無理に繋ごうとはしなかった。
繋いだところで、もう前みたいではいられないことを知ってしまったから。
高校を卒業して、大学に行って、アルバイトをして、就職活動をして。
生活は思っていたより忙しくて、恋を一個ずつ丁寧に抱えていられるほど器用ではなかった。
レンを忘れたくない時期もあった。
でも、忘れないまま生活を続けることの方が難しかった。
社会人になって、配属先で今の夫と出会った。
最初の印象は、正直に言えば地味だった。
優しそうな人だな、くらい。
少しぽっちゃりしていて、顔立ちは驚くほど普通で、スーツの着こなしも特別かっこよくはなかった。
でも話すと穏やかで、よく人を見ていて、無理に踏み込んでこない人だった。
一緒に仕事をすると安心した。
困っている時にはさりげなく助けてくれるし、私が無理をしているとちゃんと気づく。
飲み会の帰りに送ってくれた時も、変に雰囲気を作ろうとしなかった。
そういうところが、少しずつ好きになった。
好きになった、というより、愛せると思ったのかもしれない。
レンを好きだった時の私は、相手の一挙手一投足で胸が上下していた。
でも夫といる時の私は、もっと静かだった。
静かで、落ち着いていて、明日もまた会いたいと思えた。
恋は火に近い。
愛は灯りに近い。
そんな言い方を、どこかで聞いたことがある。
昔はそんなの綺麗事だと思っていた。
でも今なら少し分かる。
燃えるような気持ちだけでは、一緒に暮らしてはいけない。
逆に、穏やかさだけでも最初の一歩は踏み出せない。
たぶん恋と愛は、似ているようで本当に違うものなのだ。
結婚した日、私はちゃんと幸せだった。
ウェディングドレスを着て、夫が少し照れくさそうに笑って、写真を撮られて、家族に祝われて。
その全部が、夢みたいに浮ついてはいなかった。
ちゃんと現実の重さがあって、そのうえで幸せだった。
レンのことを思い出さなかったわけじゃない。
でも、その思い出はもう痛みではなかった。
昔好きだった人、という名前のついた、少し綺麗な記憶になっていた。
それでいいんだと思った。
恋が消えたから愛が来たんじゃない。
消えなかったものも含めて、私は別の人生を選んだ。
夜、夫がソファで寝落ちしているのを見て、私はブランケットをかける。
少しだけ丸い背中。
寝顔はびっくりするほど無防備で、格好良さなんて全然ない。
でも私は、その顔を見ると安心する。
たぶんこれが愛なんだと思う。
誰かに選ばれたいとか、特別に見られたいとか、そういう鋭い願いじゃなくて。
この人が明日もちゃんと生きていてくれたらいいな、と思う気持ち。
少し疲れて帰ってきた時に、温かいご飯を一緒に食べたいと思う気持ち。
それを失いたくないと思う気持ち。
恋は、手が届かないから美しいことがある。
愛は、手が届く距離で育っていく。
私はようやく、そういう当たり前のことを自分の生活で知った。
もちろん、人生はそこで綺麗にまとまらない。
何年かして、中学の同窓会の案内が来た。
私はしばらく迷った。
行く理由なんてない気もしたし、逆に一度行ってしまえば、昔のことをちゃんと昔にできる気もした。
夫は「行ってきたら?」と軽く言った。
その言い方に変な詮索がなくて、私は少し笑った。
「昔好きだった人とか、いたんじゃないの」
「いたかも」
「いたんだ」
「いたよ」
「へえ」
夫はそれ以上聞かなかった。
そういうところも好きだった。
同窓会当日、店の前で少しだけ深呼吸した。
扉を開けると、懐かしい声が一気に押し寄せる。
顔を見れば分かる子もいれば、名前を聞いてやっと分かる子もいる。
みんな少しずつ大人になっていて、でも笑い方とか、ふとした癖とか、変わらない部分もあった。
私は席に座りながら、自然に会場を見回していた。
たぶん探していたんだと思う。
もう恋じゃないと言いながら、それでも一番先に。
でも、レンの姿はなかった。




