卒業
卒業式の日は、思っていたよりずっとあっさりしていた。
もっと特別な日になると思っていた。
泣く子もいるだろうし、別れが惜しくて時間が止まったみたいになるのかと思っていた。
でも実際は、体育館の空気は少し寒くて、校長先生の話は長くて、証書を受け取る順番を待っている時間の方が印象に残った。
大事なことって、案外そういうものなのかもしれない。
あとから思い返して意味が大きくなるだけで、その瞬間はちゃんと普通の顔をしている。
制服の胸元に花をつけて、私は前の列の背中を眺めていた。
名前を呼ばれて立って、歩いて、受け取って、席に戻る。
決められた動作をしているだけなのに、それでもこれで終わるんだと分かった。
中学生の私が終わる。
レンを見ているだけで胸が苦しくなっていた私も、たぶん一度ここで終わる。
式が終わって教室に戻ると、途端にみんな少しだけ騒がしくなった。
写真を撮る声、寄せ書きの交換、泣いている子、先生に群がる子。
静かだった時間が一気にほどけて、教室の中だけ祭りのあとみたいに熱を持つ。
私は机の横に立って、配られたものを鞄に入れていた。
そうでもしないと、何をしていいのか分からなかったから。
「エマ」
名前を呼ばれて振り返ると、レンがいた。
制服のボタンをひとつ外して、卒業証書の筒を肩に引っかけて、いつも通り少しだけ気の抜けた顔をしている。
そのいつも通りが、今日だけは少し苦しかった。
「おつかれ」
「おつかれ」
「終わったね」
「終わったね」
同じ言葉を繰り返す。
そういう会話しか出てこないのが、逆に本当に終わるんだと思わせた。
「写真撮った?」
「まだ」
「じゃあ撮ろうよ」
レンがそう言って、近くにいた男子にスマホを渡した。
私は断る間もなく隣に立たされる。
「はい、卒業おめでとー」
「軽いな」
「軽くないと泣くだろ、お前ら」
男子が笑いながらシャッターを切った。
私はたぶん、ちゃんと笑えていたと思う。
少なくとも写真の中では、そう見えるはずだ。
でもその笑顔が、今の気持ちをそのまま表しているわけじゃない。
嬉しいとも寂しいとも言い切れない、変な感情が胸の中に丸まっていた。
撮り終わったあと、レンが画面を覗き込む。
「お、いいじゃん」
「私、変な顔してない?」
「してない。いつも通り可愛い」
「……そういうの軽い」
「本当なのに」
さらっとそんなことを言うから困る。
本気じゃないと分かっているのに、心臓だけちゃんと反応してしまう。
レンはずるい。
たぶん本人にそのつもりはない。
ないから余計にずるい。
「エマ、これ」
レンがポケットから小さな紙を出した。
折りたたまれたメモみたいなものだった。
「なに?」
「連絡先、改めて」
「改めて?」
「卒業したら変わるかもしれないし」
私はそれを受け取った。
番号とアドレスが書いてあるだけの、何の飾りもない紙だった。
今ならもう交換なんていくらでもできるのに、わざわざ手で書いたそれが少しだけ嬉しい。
「ありがとう」
「なくすなよ」
「なくさないよ」
「エマ、意外とうっかりしてそうだから」
「してないし」
言い返しながら、私はその紙を丁寧に手帳のポケットにしまった。
たぶん、ずっと捨てられないんだろうなと思った。
教室の外に出ると、廊下は人でいっぱいだった。
保護者の声、下級生の見送り、写真を撮るフラッシュ。
その中をレンと並んで歩く。
この距離も、たぶん今日までだ。
そう思うと、何か言わないといけない気がした。
でも何を言っても違う気がした。
好きです、は違う。
今さらそんなことを言っても、レンを困らせるだけだ。
じゃあ、今までありがとう、も少し綺麗すぎる。
綺麗に終われるほど、私の初恋は上手じゃない。
昇降口の手前で、レンがふと立ち止まった。
「春から、忙しくなるのかな」
「たぶんね」
「エマならちゃんとやれそう」
「またそれ言う」
「だって本当にそう思ってるし」
外ではもう、校庭に人が散っていた。
風が少し強くて、卒業式の看板がかすかに揺れている。
レンが外を見ながら、何でもない声で言う。
「たまには連絡してよ」
「レンがすればいいじゃん」
「じゃあする」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「だって未来の俺、信用できないし」
「自分で言うんだ」
私は笑った。
レンも笑った。
その笑い方が、前より少しだけ静かに見えた。
高校が別になるとか、進学先が違うとか、そういう現実がようやく輪郭を持ったのかもしれない。
それとも、卒業っていう区切りのせいで、私たちまで少し大人ぶっただけかもしれない。
「レン」
「ん?」
今なら言える気がした。
たぶん一番安全で、一番本当の言葉。
「元気でね」
「なにそれ、もう会えないみたいじゃん」
「そういう意味じゃないけど」
「うん」
レンは少しだけ黙って、それから私を見る。
「エマもね」
それだけだった。
それだけなのに、胸の奥がじんわり痛くなる。
告白されたわけでも、振られたわけでもない。
何かが始まったわけでも、はっきり終わったわけでもない。
でもたぶん、この瞬間に私の初恋は形を変えた。
手に入れたい気持ちから、失いたくない気持ちへ。
それからさらに、失っても消えない記憶へ。
校門の近くで、保護者と合流する子たちがいた。
私は母が来ていることを思い出して、バッグの肩紐を持ち直す。
「じゃあ、私そろそろ行く」
「うん」
「レンも、ちゃんと帰りなよ」
「子ども扱い?」
「ちょっとだけ」
「ひど」
「ふふ」
最後に、レンが片手を上げた。
私も同じように手を上げる。
それだけで終わった。
ドラマみたいに振り返ったりしない。
走って戻ったりもしない。
好きな人との別れなんて、もっと劇的なものだと思っていたけど、実際は驚くくらい普通だった。
普通であることが、こんなに残酷だなんて知らなかった。
帰り道、母の話を半分も聞かないまま歩いた。
卒業おめでとうとか、これから大変ねとか、そういう言葉が遠くで流れていく。
私は返事をしながら、さっき手帳にしまった紙の感触ばかり思い出していた。
連絡先をもらった。
だから完全に終わったわけじゃない。
そのはずなのに、もうこの先は薄くなっていくんだろうと分かってしまう。
毎日会うことがなくなれば、話題は減る。
新しい友達ができて、新しい生活に慣れて、今みたいに相手を思い出す時間は減っていく。
それはきっと悪いことじゃない。
成長って、たぶんそういうものだ。
でも恋にとっては、少しずつ忘れていくこととほとんど同じだ。
夜、部屋に戻ってから私は卒業アルバムの仮の写真を見返した。
レンと並んで撮った写真は、思ったより自然だった。
私が見ていた苦しさも、諦めも、ちょっとした希望も、そこには全部映っていない。
ただ、男女二人が普通に笑っているだけだ。
写真ってずるい。
見えるものだけを残して、見えなかった気持ちは簡単に置いていく。
私は机の引き出しを開けて、レンからもらった紙をもう一度見た。
数字と文字の並び。
それだけで少し安心してしまう自分がいる。
連絡しようと思えばできる。
会おうと思えば会えるかもしれない。
その可能性があるだけで、人は終わりを先延ばしにできる。
でも、本当は分かっていた。
これは未来に繋がる糸じゃない。
たぶん、今日という日の証拠だ。
確かに同じ場所にいて、同じ時間を過ごして、少しだけ互いを特別に思った、その証拠。
私はその紙を手帳に戻して、引き出しを閉めた。
恋が終わる時って、もっとはっきりしていると思っていた。
だけど実際は、こうして生活の中に薄まっていくのかもしれない。
痛みがなくなる代わりに、名前もなくなっていくみたいに。
ベッドに横になって目を閉じる。
レンの顔が浮かんだ。
その横に、まだ見たこともないアイリスの輪郭が曖昧に重なる。
私は一度だけ深く息を吐いて、そのまま毛布を引き上げた。
言えなかった言葉はたくさんある。
でも、言わなかったから守れたものも、たぶん少しだけあった。
私の初恋は、卒業証書みたいにきれいには収まらない。
それでも今日で一区切りなのだと、自分に言い聞かせながら眠った。




