卒業の手前
卒業が近づくと、学校は急に終わりの匂いをし始める。
三年生を送る会の準備だとか、進路調査の最終確認だとか、そんなものが増えただけなのに、教室の空気が少しずつ薄くなる。
毎日同じ顔を見ているはずなのに、もうすぐ見なくなるんだと思うと、それだけで全部が少し遠く感じた。
レンは相変わらずだった。
教室の後ろで男子と笑って、昼休みにはサッカーボールを蹴って、廊下ですれ違えば気軽に手を上げる。
特別変わったところはない。
それなのに、私は前よりもずっと、その横顔を意識してしまっていた。
終わりが近づくと、人は急に大事なものを見つけるのかもしれない。
正確には、ずっと大事だったものを、もうすぐなくなるからようやく認めるのかもしれない。
放課後、進路指導室の前でレンと鉢合わせた。
「あ、エマ」
「おつかれ」
「今から面談?」
「うん。レンは?」
「終わったとこ」
レンは紙をひらひらさせて見せた。
進学先の資料らしかった。
私はその紙より、レンの顔の方を見てしまう。
「決まったの?」
「だいたいは」
「そっか」
それ以上、言葉が続かなかった。
前ならもっと普通に話せたのに、最近はちょっとした沈黙がすぐ意識に引っかかる。
レンの方も何か言いかけて、少しだけ黙った。
それから、いつもの軽い調子で言う。
「エマってさ、ちゃんと未来ありそうでいいよな」
「何それ」
「いや、なんかしっかりしてるじゃん」
「してないけど」
「してるよ。俺より全然」
私は思わず笑ってしまった。
その言い方が妙に真面目だったから。
「レンだってちゃんとあるでしょ、未来」
「あるのかな」
「あるでしょ。なかったら困るじゃん」
「まあね」
レンは笑ったけど、少しだけ目が伏せられていた。
私はその時、またアイリスのことを思った。
最近、レンは前ほど頻繁にはその名前を口にしなくなっていた。
話さなくなったから忘れたのかと言えば、たぶん違う。
むしろ逆だ。
言葉にしなくてもそこにあるものになってしまったから、あえて話さなくなったんだと思う。
好きって、時々そうなる。
最初は誰かに聞いてほしくてたまらないのに、だんだん人に触られたくなくなる。
「レン」
私の方から名前を呼ぶのは、少し久しぶりだった。
レンが顔を上げる。
「なに?」
「最近、アイリスの話しないね」
自分で言ってから、少しだけ後悔した。
別に聞きたかったわけじゃない。
ただ、その名前がレンの中でどうなっているのか知りたかっただけだ。
レンは驚いたように目を丸くして、それから小さく笑った。
「エマの方から聞くんだ」
「なんとなく」
「そっか」
そこでまた少し間が空く。
廊下の向こうで、誰かが笑う声がした。
進路指導室のドアが開いて、先生がひとり生徒を送り出す。
そんな普通の音が、やけに遠く聞こえた。
「話さないようにしてるだけ」
「どうして?」
「言葉にすると、変になるから」
レンは壁にもたれながら、ゆっくり続けた。
「たぶんさ、俺の中ではもう、好きとかそういう言い方じゃなくなってるんだよ」
「……どういうこと?」
「分かんない。会いたいのかも分かんないし、会えなくてもいいのかも分かんない。でも、消えないんだよな」
私は何も言えなかった。
消えない。
その一言だけで十分だった。
それは恋より少し重くて、でも愛と呼ぶには曖昧で、名前のつかないものみたいに聞こえた。
「変だよな」
「ううん」
「変じゃない?」
「変でも、別にいいんじゃない」
自分でも驚くくらい、穏やかな声が出た。
たぶん私は、ようやく分かり始めていたんだと思う。
私がレンに抱いている気持ちは、ちゃんと恋だ。
見てほしいし、選んでほしいし、隣にいたい。
触れられなくても、せめて一番近いところにいたい。
でもレンがアイリスに向けているものは、たぶん少し違う。
恋から始まったのかもしれない。
けれど今はもう、手に入れるとか付き合うとか、そういう話じゃない場所にある。
だから私は、勝てないんじゃない。
最初から比べる種類のものじゃなかった。
「エマって優しいね」
不意にそう言われて、私は顔をしかめた。
「急に何」
「いや、なんか」
「そんなことない」
「あるよ」
「ないって」
優しいんじゃない。
ただ、もう意地を張るのに疲れていただけだ。
レンに対して傷つくたび、自分の恋が少しずつ削れていくのを感じていた。
それでも嫌いになれないまま、ここまで来てしまった。
だったらせめて、最後くらいは見苦しくない方がいい。
「卒業したらさ」
レンが何気ない声で言った。
「エマとは、あんまり会わなくなるのかな」
「たぶんね」
「そっか」
「みんなそうでしょ」
私はなるべく軽く返した。
でもその言葉は、思ったより胸に刺さった。
みんなそう。
卒業すれば、だんだん会わなくなる。
それは当たり前のことだ。
永遠に続く学生生活なんてないし、ずっと同じ距離のままいられる人の方が少ない。
それでも、当たり前で片づけるには惜しい相手っている。
「ちょっと寂しいな」
「え」
レンがそう言って、私の方を見た。
ほんの少しだけ困ったように笑っていた。
「なんか、エマって話しやすかったし」
「相談相手ってこと?」
「それもある」
「それも、なんだ」
「あと、一緒にいるの楽だった」
その一言で、心臓が変な跳ね方をした。
楽だった。
一緒にいるのが。
それは特別な告白じゃない。
そんなこと、ちゃんと分かっている。
でも、どうしたって嬉しかった。
人は残酷だ。
たったそれだけで、まだ期待してしまう。
「私も、レンは楽だったよ」
「お、相思相愛じゃん」
「違うけど」
「否定早いな」
レンが笑う。
私も笑った。
たぶん、これでよかったんだと思う。
好きな人と両想いになれなくても、過ごした時間まで嘘になるわけじゃない。
そのことを認めるのは少し悔しいけど、でも本当だった。
面談を呼ぶ先生の声がして、私は進路指導室の方を向いた。
「じゃ、行ってくる」
「うん。がんばれ」
「何を」
「面談」
「それくらい頑張らなくてもできる」
「さすがエマ」
ドアの前で一度だけ振り返る。
レンはまだそこに立って、軽く手を振った。
私は小さく振り返してから、部屋に入った。
面談の内容なんて、ほとんど覚えていない。
志望先の確認とか、勉強のペースとか、そんな普通のことを話したはずなのに、頭の中にはさっきの会話ばかりが残っていた。
ちょっと寂しい。
一緒にいるのが楽だった。
その程度の言葉で、恋は簡単に息を吹き返す。
だから厄介だ。
帰り道、校門の前で空を見上げた。
冬の夕方は暗くなるのが早い。
青と灰色の間みたいな空が、ゆっくり冷えていく。
卒業まで、もうそんなにない。
このまま何も言わずに終わるのかもしれない。
それでいい気もするし、少しくらい何か残したい気もする。
でも私が残したいものは、レンが欲しいものとは違う。
それが分かっているから、踏み出せない。
恋は前に進むためのものだと思っていた。
好きになって、近づいて、伝えて、何かが変わる。
そういうふうに。
けれど本当は、進めないまま抱え続ける恋もある。
届かないと知りながら、ちゃんと終わらせることもできないまま、時間だけが過ぎていく恋も。
たぶん私の初恋は、そういう種類だった。
綺麗じゃない。
でも嘘でもない。
私はマフラーを少しだけ引き上げて、駅までの道をひとりで歩いた。
レンのいない帰り道にも、だいぶ慣れてきていた。
慣れることは、忘れることとは少し違う。
忘れられないまま、痛くなくなっていくこともある。
卒業までに、それができるようになるだろうかと考えながら、私は信号が変わるのを待った。




