届かないもの
レンの相談は、少しずつ形を変えていった。
最初の頃は、ただ好きな人の話だった。
どんな人か、どんなふうに綺麗だったか、どうして忘れられないのか。
そういう、輪郭のない熱みたいなものを、レンはぽつぽつ言葉にしていた。
でも冬が近づくにつれて、その話には別の色が混ざり始めた。
会えない。
探せない。
連絡先もない。
本当にいたのか、自分でも時々分からなくなる。
そういう話だ。
「エマ、これさ」
昼休み、校舎裏の古いベンチで、レンが缶コーヒーをいじりながら言った。
私は紙パックの紅茶を持っていた。
吐く息が少し白くなり始めた頃だった。
「俺、やばいかな」
「何が」
「会えもしない相手のこと、ずっと考えてるの」
私はストローをくわえたまま、少しだけ考えるふりをした。
本当は、考えなくても返事は出ていた。
やばい。
たぶん普通じゃない。
でもそんなこと、言えるわけがない。
「別に、好きってそういうものでしょ」
「そうかな」
「知らないけど」
レンは笑わなかった。
缶の表面についた水滴を親指でこすって、それから低い声で言う。
「最近さ、顔が思い出せなくなる時がある」
「え」
「いや、髪の色とか、雰囲気とかは覚えてるんだけど。ちゃんとした顔が、曖昧になる」
私は思わずレンを見た。
レンは前を向いたままだった。
「でも、忘れたいわけじゃないんだ」
「……うん」
「むしろ逆で、忘れたくないから余計に考える。そしたらもっと分かんなくなる」
それはたぶん、苦しいことなんだと思う。
好きな人の顔が思い出せない。
それでも好きだと言えてしまう。
恋はもっと単純なものだと思っていた。
顔が好きで、声が好きで、一緒にいると楽しくて、それで十分なんだと。
でもレンの好きは、もう少し形が悪い。
手を伸ばしても届かない場所で、ひとりで育ちすぎてしまったものみたいだった。
「エマはさ」
また名前を呼ばれる。
「忘れられない人って、いる?」
私は少しだけ笑ってみせた。
「いたら教えない」
「なんで」
「弱みになるから」
「エマらしいな」
らしい、って何だろう。
そう思いながらも、私はそれ以上聞かなかった。
たぶん私はずっと、レンの前で賢いふりをしていた。
落ち着いていて、ちゃんとしていて、恋で取り乱したりしない女の子のふり。
本当はそんなことないのに。
本当は、目の前の人が別の誰かを好きだと言うたびに、胸の奥がゆっくり冷えていくのを感じていた。
「でもさ」
「うん?」
「忘れられないからって、ずっとそこで止まってるのも違う気がする」
言いながら、少しだけ自分の声が硬いと分かった。
レンはようやく私を見た。
「前に進めってこと?」
「そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、どういう意味?」
答えに詰まる。
本当は、私にも分からなかった。
諦めた方がいい、と言いたいわけじゃない。
でも、そのままでいてほしいとも言えない。
レンが誰かのことで苦しんでいるのを見るのは嫌だった。
だけど、レンがその人を忘れてしまうのも、たぶん嫌だった。
そのどっちも、私にとって都合が良すぎるから。
「レンが苦しいなら、少し離れた方がいいのかもって思っただけ」
「離れる、か」
レンはその言葉を口の中で転がすみたいに繰り返した。
それから少しだけ笑う。
「無理かも」
「即答だね」
「うん」
また即答だった。
この人は、本当にまっすぐだ。
だから厄介だ。
「だってさ、たいして会ってないかもしれないんだよ、俺」
「……うん」
「長く話した記憶も、そんなにない気がするし。もしかしたら、ほとんど何も知らないのかもしれない」
「うん」
「なのに今でも好きなんだよ。意味分かんないだろ」
意味が分からない。
でも、少しだけ分かる。
人を好きになるのに、ちゃんとした理屈なんていらない。
むしろ理屈がないから、どうにもならない。
私はレンのことをよく知っているつもりだった。
クラスでの顔も、部活の顔も、男友達といる時の顔も、それなりに見てきた。
それでも好きになった理由を綺麗に説明することはできない。
だからきっと、レンの恋だけが特別おかしいわけじゃない。
ただ、相手が遠すぎるだけだ。
「エマ」
「なに」
「俺さ、たぶん誰かに止めてほしいわけじゃないんだと思う」
「うん」
「でも、誰かに聞いてほしいんだよな」
私はそれを聞いて、少しだけ息が止まりそうになった。
聞いてほしい。
ただそれだけ。
つまり私は、レンの恋を終わらせる人でも始める人でもなくて、その途中を受け持つ人なんだと思った。
それは信頼なのかもしれない。
でも、恋ではなかった。
「聞いてるよ」
「うん。知ってる」
「じゃあいいじゃん」
「いいのかな」
「知らない」
レンがやっと笑った。
私はその笑顔を見て、少しだけ安心して、同時に少しだけつらくなった。
好きな人を笑わせられるのに、その笑顔の理由にはなれない。
そんなことってあるんだなと思う。
その日から、私は意識的にレンとの距離を測るようになった。
避けるわけじゃない。
でも近づきすぎないようにした。
放課後に二人きりになる時間を減らした。
帰り道も、用事があるふりをして少しずらした。
自分から話しかけることも少なくした。
卑怯だと思う。
相談には乗る。
でも、自分がそれ以上傷つかないように、先回りして線を引く。
たぶん私は、ちゃんとしてるんじゃなくて、ずるいだけだった。
それでもレンは、ときどき何事もない顔で私の隣に来た。
「エマ、今日部活休み?」
「うん」
「じゃあ駅まで一緒に帰ろ」
「なんでそんな自然なの」
「だめ?」
「だめじゃないけど」
だめじゃない。
だめじゃないから困る。
帰り道、レンは前みたいにアイリスの話をしたり、しなかったりした。
全然関係ない授業の愚痴を言う日もあれば、サッカー部の先輩の話で笑う日もある。
その何でもなさが、たまらなく苦しかった。
もしずっと相談だけされていたなら、私はもっと早く諦められたかもしれない。
でもレンは、ときどき普通に私と一緒にいる時間を楽しそうにしてしまう。
それが残酷だった。
ある日、駅前の横断歩道で信号待ちをしていた時、レンが不意に言った。
「エマってさ」
「またそれ?」
「いや、ちゃんと聞きたい」
「何を」
「好きなやついるの?」
前にも聞かれた。
私は同じようにごまかすつもりだった。
でもその日は、なぜだか少し疲れていて、上手く笑えなかった。
「いたとしても、もうどうにもならない感じかな」
「へえ」
「何その反応」
「いや、エマでもそういうことあるんだなって」
失礼すぎる。
そう言い返そうとして、やめた。
信号が青に変わる。
人の流れが一斉に動き出す。
私たちもその中に混ざって歩き始めた。
「レンは?」
「ん?」
「どうにもならない感じ?」
「どうにもならない」
少しだけ間を置いてからの返事だった。
でも迷いはなかった。
「そっか」
「うん」
その短いやり取りで、十分だった。
私はきっと、この恋では勝てないんじゃない。
最初から競ってすらいないんだ。
レンの中ではもう、誰にも触れられない場所にアイリスがいる。
そこへ私は入れないし、入るべきでもない。
だったらせめて、綺麗に引き下がれたらよかった。
でも実際の私は、そんなに綺麗じゃない。
話しかけられたら嬉しい。
隣を歩けたら嬉しい。
名前を呼ばれるだけで、まだ少し浮かれてしまう。
諦めるには、ちゃんと好きになりすぎていた。
冬が深くなるにつれて、学校の空気も少しずつ変わっていった。
進路の話が増えて、卒業の気配が近づいてくる。
みんな、同じ場所にいる時間が終わることを、なんとなく感じ始めていた。
私はそれが少しだけ怖かった。
卒業すれば、レンと会う理由は減る。
それはたぶん、私にとってはいいことのはずだ。
でも本当にそうなのか、自分でも分からなかった。
終われば楽になる恋もある。
終わってからの方が、どうしようもなく残る恋もある。
私のは、どっちなんだろう。
帰り道、駅前のガラスに映った自分の顔を見た。
普通の顔だった。
泣きそうでもないし、幸せそうでもない。
ただ、届かないものを抱えたまま、ちゃんと歩いている顔だった。




