好きな人
次の日、私は朝からずっと落ち着かなかった。
授業なんてほとんど頭に入っていなかったと思う。
ノートは取っていたし、先生が何を言っていたかも一応聞いていたはずなのに、気がつくと頭の中では別のことばかり考えていた。
レンはいつ、どこで、どんなふうに相談してくるんだろう。
私が勝手に期待して、勝手に傷つきそうになっているだけだ。
そう分かっていても、考えないわけにはいかなかった。
昼休みの終わり際、教室の後ろで友達と話していた時だった。
扉のところで誰かが私の名前を呼んだ。
「エマ」
振り向くと、レンが立っていた。
教室の空気が少しだけ変わる。
こういうのを自意識過剰だと分かっていても、やっぱり分かる。
女子たちが一瞬だけこちらを見る。
私も、変に自然な顔をしようとして逆にぎこちなくなった気がした。
「ちょっといい?」
私は頷いて、教室の外に出た。
廊下は昼のざわめきがまだ少し残っていた。
窓の外はよく晴れていて、昨日の雨が嘘みたいだった。
「今じゃなくてもいいんだけどさ」
「ううん、大丈夫」
「じゃあ、放課後ちょっとだけ時間ある?」
あるに決まっている。
私は部活もしていないし、たとえ予定があったとしてもその場で消していたと思う。
「あるよ」
「よかった。屋上の手前の階段、分かる?」
「うん」
「じゃあ、そこで」
それだけ言ってレンは軽く手を上げ、教室の方へ戻っていった。
私はしばらく、その背中を見送ることしかできなかった。
たったそれだけの約束なのに、放課後が来るまでが妙に長かった。
授業が終わる。
掃除が終わる。
クラスメイトたちが部活だ、寄り道だと動き始める。
私は鞄を持って、できるだけ普通の顔で教室を出た。
屋上へ続く階段は、普段あまり人が来ない。
上まで行っても扉は閉まっていて、外には出られない。
中途半端に静かで、少しだけ秘密の話に向いている場所だった。
レンはもう来ていた。
踊り場の窓にもたれて、ぼんやり外を見ていた。
「ごめん、待った?」
「いや、俺も今来たとこ」
たぶん少し前からいたと思う。
でも、そういうふうに言うのがレンらしかった。
私は数段下に立ったまま、どうしていいか分からずにいた。
するとレンが少し体を起こして笑った。
「そんな構えなくていいよ」
「構えてない」
「いや、ちょっと構えてる」
図星だった。
「……それで、相談って」
「うん」
レンはすぐには話さなかった。
窓の外へ一度目をやって、それから静かに息を吐く。
その間が、やけに長く感じた。
「俺さ、好きな人がいるんだ」
まっすぐ言われて、胸の奥がきゅっと縮んだ。
やっぱり。
分かっていたはずなのに、実際に言葉にされると、思っていたよりちゃんと痛かった。
それでも私は、たぶん上手に笑えたと思う。
「……うん」
「なんかさ、誰かに言いたくて。でも、あんまり広めたくはなくて」
「それで私?」
「うん。エマなら、変に騒がなそうだし」
信用されている。
そう思うべきなのかもしれない。
でもその時の私は、自分が相談相手に選ばれたことより、相談の中身のほうがずっと怖かった。
「どんな人なの?」
なるべく平らな声で聞いた。
少しでも震えていたら嫌だなと思った。
レンは少し困ったように笑った。
「それがさ、説明しづらいんだよな」
その言い方が、少しだけ意外だった。
もっと普通に、同じクラスの誰かとか、部活のマネージャーとか、そういう話が出てくるのだと思っていたから。
「学校の人?」
「いや……違う」
「じゃあ、塾とか?」
「それも違う」
私は黙った。
レンも少し黙った。
階段の窓から風が入る。
紙の擦れるような、乾いた音がどこかでしていた。
「会った回数も、そんな多くないと思う」
「思う?」
「うん。なんか、そこもあんまり自信なくて」
意味がよく分からなかった。
会った回数なんて、普通は分かるものじゃないのかなと思う。
でもレンは、冗談を言っている感じではなかった。
「すごく綺麗な人なんだ」
その一言だけは、驚くほど迷いなく出てきた。
私は小さく頷いた。
頷くしかなかった。
「髪が、すごく綺麗で」
「うん」
「銀色っていうのかな。白っぽいっていうか。光の当たり方で変わるみたいな感じで」
「……へえ」
銀色の髪。
そんな人、現実にいるんだろうかと思った。
染めているのかもしれない。
でもレンの話し方は、そういう現実的な説明を寄せつけない感じがあった。
「あと、目もすごく静かで」
「静か?」
「うん。優しいっていうのとも、ちょっと違うんだけど。見られてると、なんか……全部分かってるみたいな顔するんだよ」
「それ、怖くない?」
「ちょっと怖い。けど、目が離せない」
私はそこで初めて、はっきり負けた気がした。
まだ相手の名前も聞いていない。
どこで会ったのかも知らない。
それなのに、レンがその人を好きなんだという事実だけが、嫌になるほど伝わってきた。
人を好きな時の声をしていた。
それはたぶん、私がレンに向けているのと同じ種類のものだった。
「その人、何してる人なの?」
そう聞くと、レンは少しだけ眉を寄せた。
考え込むような、思い出そうとするような顔だった。
「分かんない」
「分かんない?」
「いや、ほんとに。変だよな」
「年上?」
「たぶん。たぶんっていうのも変だけど」
話している内容は曖昧なのに、レンの気持ちだけがやたらとはっきりしている。
そこが余計に不思議だった。
「名前は?」
そう聞いた時、レンは少しだけ黙った。
その沈黙が、妙に重く感じた。
「……アイリス、っていう」
その名前を、私はその場で初めて聞いた。
綺麗な名前だと思った。
それと同時に、どこか作り物みたいな響きにも思えた。
現実の中にあるのに、少しだけ現実から浮いているような名前だった。
「珍しい名前だね」
「うん」
「外国の人?」
「いや、分かんない。そういうのも、あんまり」
やっぱり変な話だった。
でもレンは真剣だった。
私は笑って流すことも、変だねと言い切ることもできなかった。
ただ、胸の奥が冷えていくのを感じていた。
「エマさ」
レンが、少し声を落として言った。
「俺、変かな」
その聞き方はずるい。
そんなふうに言われたら、否定するしかない。
「変じゃないよ」
「そう?」
「好きになる時って、ちゃんと説明できないこともあるし」
口にしながら、自分で少しだけ苦しくなった。
まるで私は、レンの恋を応援する側みたいだった。
でもレンは、少しほっとしたように笑った。
「そっか」
「うん」
「なんか、エマに話してよかった」
私は、その言葉で少しだけ救われてしまった。
都合が悪いくらい単純だと思う。
本当なら傷つく場面のはずなのに、好きな人に頼られて、好きな人に安心した顔をされると、それだけで嬉しくなってしまう。
「その、アイリスさんには」
「うん」
「もう気持ち伝えたの?」
そう聞くと、レンの笑みが少しだけ曖昧になった。
「いや。伝えたっていうか……どうなんだろ」
「どういうこと?」
「なんか、ちゃんと伝わってた気もするし、最初から何もかも分かってた気もする」
「……何それ」
「だよな。自分でも変だと思う」
レンはそこで、少しだけ目を伏せた。
「でも、たぶんもう会えないんだよな」
その声だけが、それまでより少し低かった。
私は思わずレンの顔を見た。
冗談っぽさが、そこだけ綺麗に消えていた。
「会えないの?」
「うん。たぶん」
「喧嘩したとか?」
「そういう感じじゃない」
「じゃあ……」
「向こうがいなくなった、っていうのが一番近いかも」
いなくなった。
その言い方が妙に引っかかった。
別れた、とか、連絡がつかない、とか、そういう現実的な言葉ではなかった。
「でも、忘れられなくて」
そう言って笑ったレンの顔は、困っているのに、少しだけ嬉しそうでもあった。
厄介な恋をしている人の顔だった。
私はその時、どうしようもなく思った。
ああ、この人は本当に好きなんだ、と。
私じゃない誰かを。
銀色の髪をした、静かな目の、アイリスという人を。
その事実が、静かに胸へ沈んでいく。
泣くほどじゃない。
でも簡単に無視できるほど軽くもない。
「エマなら、どうする?」
急にそう聞かれて、私は息を止めた。
「どうするって?」
「もう会えないかもしれない相手のこと、好きだったら」
難しい質問だった。
というより、残酷な質問だった。
でもレンにそのつもりはない。
ただ本気で悩んでいるだけだ。
「……会えないなら、余計に忘れられないかも」
「やっぱり?」
「うん。終わった感じがしないから」
「そっか」
レンは小さく頷いた。
そして、少しだけ笑って言った。
「エマって、ちゃんと痛い方のことも言うよな」
「何それ」
「慰めるためだけに適当言わないってこと」
褒められているのか分からなかった。
でも、その言い方は少しだけ嬉しかった。
階段の外は、夕方の光に変わり始めていた。
もうすぐ下校時間も遅い方になる。
長く話していたわけじゃないのに、ひどく疲れた気がした。
「ごめん、変な話して」
「ううん」
「でも助かった」
「……ならよかった」
本当によかったのかどうか、私には分からなかった。
レンはいつもの調子に戻ったみたいに、軽く伸びをした。
「また相談乗ってよ」
「まだあるの?」
「ある。たぶん」
「たぶんなんだ」
「自分でも整理ついてないし」
そう言って笑うレンを見て、私はまた頷いてしまった。
好きな人の恋の続きを聞くなんて、普通なら断った方がいい。
そんなの、自分が苦しくなるだけだ。
でも私は断れなかった。
たぶんこの時の私は、まだ少し期待していたんだと思う。
レンの好きな人がどれだけ綺麗でも、どれだけ特別でも、現実の中でレンの隣に立てるのは自分かもしれないと、どこかで思っていた。
恋はたぶん、そういう見苦しい希望も捨てさせてくれない。
帰り道、私は駅までひとりで歩いた。
昨日レンと並んで歩いた道なのに、今日はやけに広く感じた。
アイリス。
頭の中でその名前を何度か転がしてみる。
綺麗で、冷たくて、どこにも引っかからない名前だった。
会ったこともないのに、少しだけ嫌いになりそうだった。
でも同時に、会ってみたいとも思ってしまった。
レンがあんな顔で語る相手を、私は知らない。
知らないままなのに、その人はもう、私の恋の中に入り込んでいた。




