相談
恋をしていると、たまに都合のいい偶然が起きる。
そういう時、私は少しだけ世界に許されている気がした。
その日、昼休みに購買へ行った帰り、階段の踊り場でレンと鉢合わせた。
正確には、先にレンがいて、私は曲がった先で急にその姿を見つけて立ち止まりそうになった。
レンは片手に紙パックの飲み物を持っていた。
私に気づくと、少しだけ目を丸くして、それから笑った。
「この前、図書室帰りだったよね」
突然そう言われて、私は一瞬、自分に向けられた言葉だと分からなかった。
「え」
「階段で会ったじゃん」
「あ……うん」
覚えられていた。
それだけで心臓が嫌になるくらいうるさくなった。
「同じ学年だよね。たしか……エマさん?」
名前まで知っている。
それはもう、喜んでいいことなのかどうかも分からないくらい大きな出来事だった。
「う、うん。エマでいいよ」
「じゃあ、俺もレンでいい?」
そんなふうに自然に言えるのがずるい。
私は頷くことしかできなかった。
踊り場の窓から、白っぽい昼の光が差していた。
たった数秒の会話なのに、その場だけ妙に明るく見えたのを覚えている。
「エマって本読むんだ」
「読むよ」
「図書室よくいる?」
「たまに」
「へえ。なんか似合う」
似合う。
その何気ない一言が、あとで何度も思い返すことになるくらい嬉しかった。
「レンは?」
「俺? 本はあんまり。読んでもすぐ眠くなる」
「分かるかも」
「いや分かるんだ」
ふっと笑われて、私もつられて少し笑った。
本当に少しだけだったけれど、その時たしかに、私たちは会話をした。
一方的に見ているだけじゃない。ちゃんと、同じ時間の中に立った。
「じゃ、昼休み終わるし」
「うん」
「またね、エマ」
またね。
ただの挨拶なのに、私はその言葉を帰るまでずっと反芻していた。
それから少しだけ、レンと話す機会が増えた。
増えたと言っても、せいぜい廊下で会えば一言二言話すとか、朝にすれ違った時に挨拶するとか、その程度だ。
でも私にとっては十分すぎる変化だった。
レンは誰にでも自然に話しかける。
だからたぶん、私だけが特別というわけじゃない。
そんなことは分かっていたけれど、それでも名前を呼ばれるたびに嬉しかった。
放課後、昇降口で靴を履き替えていた時もそうだった。
「エマ、今から帰る?」
後ろから声をかけられて、振り向くとレンがいた。
部活に行く前なのか、ジャージの上着を肩に引っかけている。
「うん」
「駅まで?」
「うん」
「そっか。俺は部活」
当たり前のことしか話していないのに、私は少し浮き立ってしまう。
「サッカー、今日もあるんだ」
「ほぼ毎日あるよ。春の大会近いし」
「大変そう」
「まあね。でも好きだから」
そう言う時の顔が、私は好きだった。
得意げでもなく、照れたふうでもなく、ただ真っ直ぐで。好きなものを好きだと言える人の顔をしていた。
「エマは何か部活やってる?」
「やってない。帰宅部」
「強いな」
「何が」
「自由そうで」
その言い方が少しおかしくて、私は笑ってしまった。
レンも笑った。
ほんの短いやり取りだったのに、その日一日が妙にやわらかく終わった気がした。
恋って、始まってしまえば案外静かだ。
劇的なことが起きるわけじゃない。
小さな会話を何度も大切にして、勝手に意味を見つけて、少しずつ心の場所を広げていく。
私はその頃、かなり本気で期待していたと思う。
このままもう少し仲良くなれたら。
もう少し話せるようになったら。
もしかしたら、私にも何かあるかもしれない。
けれど、そういう期待は、たいてい自分の見たい形に世界を整えてしまう。
その日もそうだった。
放課後、珍しく雨が降った。
傘を持ってきていなかった私は、昇降口の屋根の下で少し困っていた。走るには微妙な強さで、でも待っていても止みそうにない。
どうしようかなと思っていたら、横から声がした。
「エマ、傘ないの?」
レンだった。
今日だけで何回心臓を鳴らせば気が済むんだろうと思った。
「うん。天気予報見てなくて」
「駅まで行くなら、一緒に入る?」
一瞬、息が止まった。
そんなの、断れるわけがない。
「……いいの?」
「いいよ。俺、でかいの持ってるし」
たしかにレンの傘は大きかった。
私はありがとうございます、を少し噛みそうになりながら言って、その隣に入った。
雨の音が近い。
傘に当たる水の音と、地面を打つ音。
それなのに、隣を歩くレンの気配だけは妙にはっきりしていた。
「エマって静かだよね」
「そうかな」
「うん。でも話しにくい感じじゃない」
「それ褒めてる?」
「褒めてる褒めてる」
また笑う。
その横顔を盗み見て、すぐに前を見る。そんなことを繰り返していた。
駅までの道は、普段よりずっと短く感じた。
ずっとこのままならいいのに、と少しだけ思った。
でも、改札の前で別れる時、レンはふいに少しだけ真面目な顔になった。
「エマってさ」
呼ばれて顔を上げる。
「恋愛相談とか、聞くの上手そう」
その瞬間、何かが引っかかった。
けれど私は、それが何なのかまだ分からなかった。
ただ反射で、「え?」と聞き返してしまった。
「いや、なんとなく。ちゃんと聞いてくれそうだなって」
「……そうかな」
「うん。今度ちょっと相談してもいい?」
断れるわけがなかった。
好きな人に頼られるなんて、普通なら嬉しいことのはずだった。
「いいよ」
「助かる。じゃあ、また明日」
レンはそう言って手を上げ、改札の向こうへ消えていった。
ひとりになったあと、私はしばらくその場に立っていた。
嬉しい。たしかに嬉しい。
でもそれと同じくらい、胸のどこかがひどく冷たかった。
恋愛相談。
その言葉の意味を、分からないほど私は鈍くなかった。
たぶん、好きな人がいるんだ。
そしてその相手は、きっと私じゃない。
まだ何も聞いていないのに、そう思ってしまった。
都合のいい偶然でできていた世界が、そこだけ少しひび割れた気がした。
それでも私は、明日を待ってしまう。
好きな人の秘密に触れられるかもしれないことが、怖いのに、少しだけ嬉しかった。
恋はとても勝手だ。
傷つく予感がしても、心は先に進もうとする。
私はその夜、布団の中で何度も考えた。
レンの好きな人はどんな子だろう。
同じ学年かな。先輩かな。
可愛い子かな。明るい子かな。
私の知らない誰かを想像して、勝手に少し傷ついて、それでも眠る前の最後に思ったのは、明日またレンと話せる、ということだった。
そういうところが、恋なんだと思う。




