視線
好きな人ができると、世界の中にひとつだけ強く光る場所ができる。
私にとって、それは学校だった。
正確に言えば、学校の中にいるレンのいる場所だ。
朝、教室に入る前に廊下の向こうを見る。
昼休みにはつい窓の外のグラウンドを探す。
放課後、部活の気配がする方へ足を向けそうになる。
自分でも呆れるくらい単純だった。
でも、その単純さが嫌じゃなかった。好きな人がいるというだけで、毎日は少しだけ特別になった。
レンは、思っていた通り目立つ人だった。
別に騒がしいわけじゃない。
いつも中心にいるタイプとも少し違う。
でも、どこにいても自然と人が集まってくる感じがあった。
昼休み、他のクラスの男子と笑いながら話しているところを見かけたことがある。
購買でパンを買って、そのまま立ったまま食べていた。周りにいた友達が何かを言って、レンが声を立てて笑った。私は少し離れたところで、友達と一緒に歩きながらその横を通り過ぎた。
ほんの一瞬だったけれど、近くで見たレンはやっぱり格好よかった。
顔立ちが整っているのもそうだけど、表情が柔らかい。誰に対しても無理に偉そうにしないし、どこか空気が軽い。
「また見てる」
隣を歩いていた友達が、小さな声で言った。
「見てない」
「見てたって」
「たまたま」
「へえ」
その“へえ”には、たぶん何もかも含まれていた。
私はわざと前を向いたまま歩いたけれど、耳だけ熱くなっていた。
レンとは、まだ話したことがなかった。
同じクラスですらないのだから、当たり前といえば当たり前だ。
それでも、知っていることは少しずつ増えていった。
サッカー部に入ったこと。
一年の中でも特に上手いらしいこと。
先輩受けもいいこと。
女子から人気があること。
人気がある、というのは別に噂だけじゃなくて見ていて分かった。
廊下ですれ違った時に声をかけられていたり、体育祭の話し合いの時に別のクラスの女子が妙に楽しそうに話していたり、そういう小さな場面がいくつもあった。
そのたびに、ちくりとした。
私は何もしていない。
していないどころか、ただ遠くから見ているだけだ。
だから嫉妬する資格なんてないはずなのに、それでも少し胸がざわついた。
ある日、放課後に図書室へ行った帰りだった。
階段を降りていたら、下から数人分の足音が上がってきた。避けるように端へ寄ったら、その中にレンがいた。
一段下から見上げる形で、目が合った。
たぶん、一秒もなかったと思う。
それでも私には長かった。
レンはすぐに軽く目元をやわらげて、通りやすいように少し体をずらしてくれた。
私は小さく会釈して、そのまま通り過ぎた。声なんて出なかった。
すれ違ったあと、背中がじんわり熱くなった。
今の、変じゃなかったかな。
顔、赤くなってなかったかな。
目、そらすの早すぎたかな。
階段を降りきってからもしばらく落ち着かなくて、結局その日は図書室で借りた本をほとんど読めなかった。
でも、その一度きりの目線だけで、何日か機嫌がよかった。
恋をしている女の子は、たぶんすごく単純だ。
少なくとも私はそうだった。
少し目が合っただけで嬉しいし、ちょっと近くを通っただけで一日が明るくなる。
そんなある日、体育の授業で校庭へ出た時だった。
隣のグラウンドでは男子がサッカーをしていた。
私たちは準備運動をしながら、半分くらいそっちに気を取られていた。女子の何人かも、露骨には見ないようにしながらちらちら視線を向けていたと思う。
レンは走っていた。
速い、と思った。
それはサッカーの技術を知らない私でも分かるくらいにはっきりしていた。ボールを持った時の動きがきれいで、迷いがなくて、何より目立った。派手すぎないのに、つい見てしまう。
それでいて、ゴールを決めた時にも過剰に騒がなかった。
周りと軽く手を上げて、すぐに次へ戻る。
その自然さまで格好よく見えてしまうのだから、恋は本当に厄介だ。
「エマ、分かりやす」
また友達に言われた。
「うるさい」
「好きなんでしょ」
「……そうかも」
「え、認めた」
「もう隠しても意味ないし」
そう言った瞬間、自分の中で何かが少しだけ定まった気がした。
好き。
ちゃんと好き。
ただ格好いいと思っているだけじゃない。
見かけると嬉しくて、話してみたいと思って、でも怖くて、他の誰かが近くにいると少し嫌で、そんな自分を面倒だなとも思う。
それでもやっぱり、好きだった。
友達は面白そうに笑っていたけれど、それ以上茶化しはしなかった。
たぶん、私の言い方が思っていたより真面目だったからだと思う。
その日の帰り道、私はひとりで駅まで歩いた。
夕方の光が柔らかくて、制服の袖口に春の風が入ってくる。前を歩いている高校生たちの笑い声が、なんとなく遠く聞こえた。
恋をしている時って、どうしてこんなに世界がきれいに見えるんだろう。
別に何も手に入れていない。
両想いでもないし、話したことだってほとんどない。
なのに、世界が少しだけ輝いて見える。
私はその時、好きでいるだけで幸せになれる恋があるのだと思っていた。
このまま少しずつ距離が縮まるのかもしれない。
名前を呼べるようになって、普通に話せるようになって、運がよければ特別になれるかもしれない。
そんなふうに、勝手に未来をやわらかく想像していた。
けれど、好きな人に見られているのは、私だけじゃない。
そのことを、私はまだ知らなかった。
レンの視線が、私じゃないどこかへ向いていたことも。
その先にある名前を、私はまだ知らなかった。




