春のはじまり
高校に入ってすぐ、私は恋をした。
そんな言い方をすると、ずいぶん軽く聞こえるかもしれない。
でも、実際にはそれ以外の言いようがなかった。
入学してまだそんなに日も経っていない、校舎の匂いすら新しかった頃、私はほんの一瞬で、ひとりの男の子を好きになってしまったのだ。
その日のことは、変に細かく覚えている。
朝のホームルームが終わって、まだクラスの空気が落ち着かない時間だった。
誰と誰が同じ中学だったとか、部活はどうするとか、そういう話題が教室のあちこちで小さく弾んでいた。私は窓際の後ろから二番目の席で、配られたプリントをなんとなく見ていた。内容はほとんど頭に入っていなかったと思う。
廊下の方が少し騒がしくなって、何気なく顔を上げた。
その時、教室の前の扉のところに、見たことのない男子が立っていた。
たぶん、別のクラスの子だった。
先生に用事でもあったのか、少しだけ中を覗き込んで、誰かを探すみたいに首を傾げていた。
それだけだった。
本当に、それだけの光景だった。
なのに私は、その横顔から目が離せなかった。
春の光が廊下から差し込んでいて、その子の髪の輪郭だけ少し明るく見えた。
背が高くて、姿勢がよくて、どこかすっきりした顔立ちをしていた。整っている、という言葉がすぐに浮かんだ。けれど、ただ顔がいいというだけじゃなかった。表情が自然で、無理に格好つけていないのに、目に入る感じがした。
ちょうどその時、教室の中から誰かがその子の名前を呼んだ。
振り向いた拍子に笑って、そのまま軽く手を上げる。
その笑い方が、ずるいと思った。
明るいのに軽薄じゃなくて、爽やかなのに作り物っぽくなくて、見ている側だけが勝手にどきどきしてしまうような笑い方だった。私はとっさに目をそらした。見ていたことに気づかれた気がして、意味もなくプリントの文字に視線を落とした。
でも、文字なんてひとつも読めなかった。
胸の奥が、急に落ち着かなくなっていた。
いま思えば、あれが最初だった。
私がレンを初めて見た瞬間だった。
その日の昼休みには、もう名前くらいは知っていた。
同じ学年で、サッカー部に入るらしいことも、顔がいいと女子の何人かが早速話していることも、そのうち分かった。
「エマ、ああいうの好きそう」
お弁当を食べながら、向かいに座っていた友達にそう言われて、私はうまく笑えなかった。
「別に」
「嘘。今ちょっと反応した」
「してないって」
「分かりやすいんだよ、エマ」
私はたぶん、分かりやすい方なんだと思う。
隠そうとすると、かえって態度が変になる。顔に出していないつもりでも、たぶん少し赤くなっていた。友達は楽しそうに笑って、それ以上は何も言わなかったけれど、その時にはもう自覚してしまっていた。
好きなんだ、と思った。
まだ何も知らない相手なのに。
名前と、サッカーをやるらしいことと、笑った顔がきれいだということくらいしか知らないのに。
それでも好きだと思ってしまった。
恋はもっと、少しずつ育つものだと思っていた。
仲良くなって、話すようになって、その先でやっと特別になるものだと。
でも、そうじゃないこともあるのだと、私はその時初めて知った。
放課後、昇降口へ向かう途中で、運動部の勧誘の声が外から聞こえてきた。
春のまだ少し冷たい風に混じって、笛の音やボールの跳ねる音も遠くから響いていた。
私は靴を履き替えながら、なんとなくグラウンドの方を見た。
見えるはずもない距離なのに、そこにレンがいる気がしてしまった。
自分でも馬鹿みたいだと思った。
話したこともない。目が合ったことすら、たぶんない。
それなのに、たったそれだけで一日じゅう気持ちが浮ついている。
家に帰ってからも、しばらく変だった。
制服を脱いで、母の作った夕飯を食べて、お風呂に入って、宿題を広げる。
普段と同じことをしているのに、頭のどこかがずっと昼間のままで、ふいに教室の扉のところに立っていたレンの姿を思い出してしまう。
横顔。
笑った時の口元。
少しだけ細められた目。
思い出すたびに、胸が落ち着かなくなった。
こんなの、絶対に恋だと思った。
布団に入ってからも、なかなか眠れなかった。
明日、また見られるかなとか、もし廊下ですれ違ったらどうしようとか、向こうは私のことなんて知らないのに、勝手なことばかり考えた。
好きな人がいる、というだけで世界が少し明るくなるなんて、その時まで知らなかった。
学校へ行く理由が、少し変わった気がした。
朝起きることも、髪を整えることも、鏡の前で制服の襟を直すことも、全部ほんの少しだけ意味を持ちはじめた。
たぶん私は、浮かれていたのだと思う。
でも、それでよかった。
一目惚れなんて、続かないこともある。
顔が好きなだけかもしれないし、すぐに冷めることだってある。
そんなふうに言う人もいるけれど、私はあの時、自分の気持ちを疑わなかった。
だって、あんなふうに世界が変わる瞬間なんて、そう何度もあるものじゃない。
次の日から私は、少しだけレンを探すようになった。
廊下。
階段。
昼休みの購買前。
窓から見えるグラウンド。
見かけるたびに、胸が小さく跳ねた。
友達といる時の笑い方も、先生に呼ばれて返事をする声も、ボールを追って走る姿も、どれも勝手に特別に見えた。
たぶん、私はもう完全に始まってしまっていた。
恋ははじまりがいちばん綺麗だ。
まだ何も失っていなくて、何も知らなくて、ただ相手を好きなだけでいられるから。
あの頃の私は、恋と愛の違いなんて考えたこともなかった。
好きだと思うこと、それだけで充分だと信じていた。
レンが誰を見ているのかも。
その先に、どんな名前があるのかも。
まだ、何も知らなかった。




