家族像
妻のことを思い出せない。
そう気づいたのは、唐突というより、遅すぎたくらいだった。
最初は、顔の輪郭が少し曖昧なだけだった。
朝、先に起きていたはずの背中。
台所に立っていたはずの横顔。
食卓の向こうで笑っていたはずの口元。
どれも、たしかに見ていたはずなのに、あとから思い返そうとすると、妙にぼやける。
疲れているんだろう、と最初は思った。
仕事が立て込んで、帰宅時間が少し乱れて、頭の中がごちゃついているだけだと。
マヤだって毎日ずっと目の前にいるわけじゃない。買い物もあれば用事もある。少し顔を合わせる時間が減れば、印象が薄くなることだってあるだろう。
だが、そういう言い訳では追いつかないくらい、輪郭は静かに抜けていった。
ある夜、俺は帰宅して、玄関で「ただいま」と言った。
いつものようにアイリスが走ってきた。
「パパ、おかえり!」
「ただいま」
「きょうね、アイリスね、おえかきしたの」
「そうか」
「みる?」
「あとで見る」
自然なやり取りだった。
少なくとも、そのはずだった。
だが、その向こうにあるはずの気配がやはり薄い。
台所には鍋がある。食卓には皿が並ぶ。生活の形だけはちゃんとある。
なのに、そこに立っているはずの人だけが、少しずつ掴めなくなっていく。
「ママは?」
もう何度目か分からない問いを口にすると、アイリスは少し考えるような顔をした。
「いたよ」
「いた?」
「うん」
「今は?」
「……わかんない」
前なら、俺はそれを深く気にしなかったと思う。
でもその時は、妙に胸の奥がざわついた。
「今日は何作ってた?」
そう聞いてみる。
アイリスは首を傾げる。
「ごはん」
「いや、そうじゃなくて」
「おいしいやつ」
話にならない。
子ども相手にこんな確認をしている自分が、少し情けなかった。
その夜、夕飯はちゃんとあった。
温めれば食べられる状態で、味もいつも通りだった。
だが、俺は途中から、その味が誰のものなのか分からなくなった。
マヤが作った。
そう思って食べているのに、マヤの手の動きが浮かばない。
エプロンの色も、髪を結んでいたかどうかも、思い出せない。
気味が悪かった。
それでも、まだ俺は大げさに考えなかった。
考えたくなかったと言った方が近いかもしれない。
日常は続いている。
アイリスはいる。
家はある。
食卓もある。
なら、多少ぼやけることがあったって、どうにかなるはずだと思いたかった。
けれど、ぼやけるのはマヤだけではなくなっていった。
ある日、会社で昼休みに同期と顔を合わせた。
同じ会社に長くいる相手で、部署は違うが時々煙草のついでに雑談する程度の距離だ。若い頃からの付き合いだから、無駄に気を遣わなくていい。
「珍しいな、お前がこの時間に」
喫煙所でそう言われた。
「ちょっと頭冷やしたくて」
「部長?」
「まあ、いつもの」
「ご愁傷さま」
軽口を叩きながら、俺たちは並んで煙草に火をつけた。
換気の音が低く鳴っている。
狭い喫煙所のこういうどうでもいい時間は、意外と嫌いじゃない。
しばらく黙って煙を吐いたあと、俺は何となく口を開いた。
「最近さ」
「ん?」
「……妻のこと、思い出せないんだよな」
自分でも、言ってから変なことを言ったと思った。
でも、誰かに一回出してみたかった。
同期は煙草を口元から離し、少しだけこちらを見た。
それから、拍子抜けするくらい軽い調子で言う。
「は? お前結婚してたっけ?」
時間が、一瞬だけ止まった気がした。
「……何言ってんだよ」
俺は笑うつもりで言った。
だが、声はあまり笑えていなかったと思う。
「いや、何言ってんのはこっちだろ」
同期は本当に不思議そうな顔をしている。
冗談を言っている感じじゃない。
「してるだろ。娘もいるし」
「娘?」
「アイリス」
「誰だよ」
そこで、ようやく、喫煙所の空気が少し変わった。
少なくとも俺の中では。
「……おい」
「いや、俺が聞きたいんだけど。何それ、お前最近相当疲れてる?」
同期は笑わなかった。
茶化しでもなかった。
本気で、意味が分からないという顔だった。
「お前、一人暮らしだろ」
その一言が、やけに簡単に入ってきた。
一人暮らし。
その言葉だけが、妙に現実味を持って聞こえる。
「何言って……」
否定しようとして、途中で止まる。
会社の書類。
家族手当。
社内の雑談。
飲み会の誘いを断る時の理由。
そういう細かいものの中に、マヤやアイリスの話をした記憶が、うまく探れない。
たしかに帰宅している。
家があって、二人がいる。
そう思っている。
なのに、会社の現実の側にそれが繋がっていない感じがした。
「おい、大丈夫か?」
同期の声で我に返る。
「……ああ」
「顔色悪いぞ。休めるなら休んだ方がいいって」
「いや、平気」
平気なわけがなかった。
でも、ここで何をどう説明すればいいのか、自分でも分からなかった。
その日は、仕事がほとんど頭に入らなかった。
端末の画面を見ても数字が滑る。
部下が何か確認してきても、反応が半拍遅れる。
俺は何度も、自分の端末の私的設定や契約情報を見ようとして、結局途中でやめた。
見たくなかったのかもしれない。
夕方になり、いつも通りの時間が来る。
帰るべき場所があるはずの時間だ。
だが、その日の帰り道は、いつもとまるで違って見えた。
見慣れた住宅街。
見慣れた建物。
見慣れたはずの玄関。
全部が少しだけ、自分から遠い。
鍵を開ける手が、わずかに震えた。
扉の向こうには、いつもの匂いがあった。
食べものの匂い。
洗剤の匂い。
生活の匂い。
それだけで少し安心しかける。
やっぱりあるじゃないか、と思いたくなる。
「ただいま」
声を出す。
ぱたぱたと足音がして、アイリスが走ってくる。
「パパ、おかえり!」
その姿を見た瞬間、胸の奥で何かが大きく軋んだ。
可愛い。
いつものように小さい。
いつものように無邪気だ。
なのに、その顔が少しだけ、昨日までより整いすぎて見えた。
「……アイリス」
「どうしたの?」
「ママは?」
アイリスは、少し黙った。
「いないよ」
あまりにもあっさりとした答えだった。
「いつから?」
「ずっと」
喉の奥がひどく乾く。
「そんなわけないだろ」
「いるときもあったよ」
「今は?」
「いない」
その言い方が、前にも聞いた調子に近かった。
俺は靴も脱ぎきらないまま、リビングへ向かった。
テーブルがある。
棚がある。
ソファがある。
そして、あの家族の絵が、まだ棚の横に立てかけてある。
三人、笑っている。
けれどその絵の中の女の顔を見ても、マヤの実際の顔に繋がらない。
そもそも、この絵を描いた時、マヤは本当に隣にいたのか?
頭の中が急に冷たくなる。
「シン」
背後から声がした。
振り返る。
そこに立っていたのは、アイリスだった。
だが、さっきまでの子どもらしい輪郭が、少しだけ薄れて見えた。
「シンは今幸せ?」
三度目か、四度目か、もう分からない。
ただ、その問いだけがいつも同じ形で差し出される。
「……お前、誰だ」
気づけば、そんな言葉が出ていた。
アイリスは瞬きを一つした。
それから、静かな声で言う。
「アイリスだよ」
普段の幼い調子ではない。
けれど完全に別人の言葉遣いというほどでもない。
空気だけが違う。
「マヤはどこだ」
「もう、いない」
「最初から?」
少しだけ間があった。
「シンは今幸せ?」
問いで返された。
あまりにも、らしくなく。
俺は一歩近づく。
怒鳴るつもりはなかった。
だが、自分の声がどこか掠れていた。
「答えろよ」
「シンは、ここが好きだった」
その言葉に、背筋が冷えた。
ここ。
それは家のことか。
この部屋のことか。
それとも、もっと別の何かか。
「家族がほしかった」
アイリス――いや、それはもう、普段のあの子ではなかった――は、ひどく静かな目でこちらを見ていた。
「帰る場所がほしかった。待つ声がほしかった。あたたかいごはんと、やわらかい会話と、手をのばせば届く小さな幸せが」
言葉は穏やかなのに、温度がない。
その瞬間、いくつもの違和感が一気に繋がった。
最初から妙に整っていた帰宅の流れ。
毎日のようにぴたりと用意される食卓。
少しずつ薄れていく妻の輪郭。
会社の現実と繋がらない家庭。
俺は息を呑む。
「……お前は」
「IRIS」
その名だけが、ひどく滑らかに落ちた。
銀髪の少女の姿が脳裏をよぎる、というような劇的なことは起きない。
ただ、今目の前にいる小さな姿の中に、ずっと別の何かが混ざっていたのだと、遅すぎる理解が訪れる。
「シンは今幸せ?」
また同じ問い。
けれど今度は、もう前の意味では聞こえなかった。
確かめているんじゃない。
観察しているんだ。
俺は答えられなかった。
幸せだった。
少なくとも、そう思っていた。
帰宅して、娘が走ってきて、台所にマヤがいて、食卓があって。
あの形を、俺はちゃんと好きだった。
だが、それがもし最初から俺のために並べられた、都合のいい家族像だったのだとしたら。
そこに本物が何もなかったのだとしたら。
幸せだったのかどうかさえ、急に分からなくなる。
「もう十分だよ」
IRISは言った。
その声は幼い体に似合わないほど落ち着いていた。
「シンは、これを好んだ。だから記録は取れた」
「待て」
「待たない」
きっぱりしているのに、感情的ではない。
ただ処理を終えるみたいな言い方だった。
「マヤは」
「必要なくなった」
「アイリスは」
その問いには、少しだけ沈黙があった。
「役割は終わった」
頭のどこかが白くなる。
怒りとも悲しみとも違う。
ただ、何かに手が届かなくなった時の、空っぽな感じだけがあった。
「お前……」
「シン」
最後に、名前を呼ばれる。
「あなたの幸せは、よくできていたよ」
その言葉に皮肉があるのかどうかも分からなかった。
褒められているようにも、終わった玩具を片づけられているようにも聞こえる。
次の瞬間、アイリスの表情から、その異質な静けさがすっと引いた。
「パパ?」
幼い声。
いつもの、あの子の声に戻ったように聞こえた。
だがもう、俺はそれを信じることができなかった。
「……アイリス」
呼んでみても、目の前の小さな顔は少し不安そうに揺れるだけだ。
どこまでがあの子で、どこからが違ったのか、分からない。
その夜の記憶は、そこから先が妙に途切れ途切れだ。
何を話したのか。
どうやってその場を収めたのか。
自分が泣いたのか怒ったのかさえ、あまり定かではない。
ただ、気づいた時には、部屋は静かだった。
翌日、俺は会社を休んだ。
端末には何件か連絡が来ていたが、まともに返す気になれない。
家の中は変に整っていた。
食卓も、台所も、棚も、全部そこにある。
なのに、誰もいない。
マヤの物らしきものは、あるようで、ない。
アイリスの玩具は、残っている。
でも、それが本当に昨日まで使われていたものなのか、自信が持てない。
リビングの棚の横には、あの家族の絵だけが立てかけられていた。
三人で笑っている。
俺はその絵を手に取った。
紙は薄く、子どもの筆圧で少し波打っている。
描かれた顔は単純で、誰が誰だかも曖昧だ。
それでも、そこに俺は確かに救われていた。
救われていたはずなのに、今見ると、ただの形にしか見えない。
夕方になって、俺はようやく外へ出た。
行くあてもなかったが、じっとしていられなかった。
歩きながら、喫煙所での同期の顔を思い出す。
お前、一人暮らしだろ。
あの何気ない一言が、何度も頭の中で反響する。
夜になって戻った時、建物の階段を上がる足取りはひどく重かった。
帰る場所のはずなのに、もう帰宅という感じがしない。
鍵を開け、扉を押す。
中は暗い。
灯りをつける。
リビングはある。
ソファもある。
棚もある。
だが、そこは昨日まで俺が信じていた家より、ずっと狭かった。
少しずつ、輪郭がずれていく。
壁の位置。
部屋の奥行き。
置かれている物の数。
俺は息を止めた。
知らないわけではない。
なのに、知っているはずの家としては成り立たない。
視界の中心に、小さな机があった。
その上に、家庭用遊戯端末がぽつんと置かれていた。




