不在
最初は、本当に些細なことだった。
何かが壊れたわけじゃない。
大きな喧嘩をしたわけでも、はっきり困る出来事があったわけでもない。
ただ、少しだけ噛み合わない日が増えた。
その朝も、起きた時にはもうマヤがいなかった。
別に珍しいことじゃない。
先に起きて朝食の準備をしていることもあるし、洗濯物を回していることもある。だから寝室にいないくらいで、普通なら何も気にしない。
俺は顔を洗ってリビングへ出た。
テーブルの上には朝食が用意されていた。トーストと、簡単なサラダと、スクランブルエッグ。湯気の立つマグカップも置いてある。アイリスはもう席についていて、片手にパンを持ったまま、のんびり食べていた。
「おはよう」
「おはよ、パパ」
「ママは?」
「んー?」
聞こえなかったのか、アイリスは少し首を傾げる。
「ママ、どこ行った?」
「しらない」
あっさりした返事だった。
子どもに訊いてもそんなものだろう。
その時、洗面所の方で物音がして、ああそっちかと思った。
それで済む話だった。
実際、朝は普通に過ぎた。
俺はいつも通り会社へ行き、いつも通り仕事をした。昼にはマヤから、買い物に寄るから少し遅くなるかも、とだけ連絡が来た。昨日言っていた用事の流れだろう。特に違和感はない。
ただ、その日の帰宅は少しだけ静かだった。
玄関を開けると、アイリスはいつも通り走ってきた。
それは変わらない。
「パパ、おかえり!」
「ただいま」
けれど、その奥にあるはずの気配が少し薄い気がした。
台所から聞こえる包丁の音とか、鍋の蓋の触れ合う音とか、そういう生活の細かい音が少ない。
「ママは?」
「まだー」
「まだ?」
「うん」
そう言って、アイリスはあっさり俺の手を引く。
たぶん本当に深く考えていないんだろう。
結局、その日は俺の方が早かったらしい。
別におかしなことではない。買い物が長引く日もあるし、外で用事を足していれば時間なんてすぐずれる。俺は自分にそう言い聞かせながら、スーツの上着を脱いだ。
「ご飯は?」
「あるよ」
「もうできてるのか」
「ママがやってた」
テーブルを見ると、たしかに途中まで準備がされている。
スープは温め直せばよさそうだし、メインもラップがかかっていた。あと一手間で食べられる状態だ。俺は冷蔵庫を開け、メモがないか探したが、とくに何も見当たらない。
まあいいか、と思った。
風呂にでも入っているのかもしれないし、ゴミ出しか何かで下へ降りただけかもしれない。
俺は結局、簡単に温め直してアイリスと先に食べることにした。
「ママ、あとでくるかな」
アイリスが言う。
「来るだろ」
「そうだよね」
子どもはこういう時、不安そうにするかと思えば案外けろっとしている。
それとも、本当に何も変だと思っていないのか。
二人で食べる夕飯は、三人の時と比べて少しだけ会話が少ない。アイリスは喋るが、俺はどうしても相槌が中心になる。間を埋めてくれていたのがマヤだったんだな、とこういう時に分かる。
それでもその日は、特に気にしなかった。
たまたまだと思ったからだ。
次の日も、似たようなことがあった。
帰宅した時、マヤは家にいた。
ただ、顔を合わせたのはほんの少しだけだった。
「おかえり。ごめん、ちょっと手が離せなくて」
台所で背中越しにそう言われた。
俺が「ただいま」と返すと、アイリスが足元にまとわりついてくる。
食卓にはちゃんと料理が並び、三人で席についた。
なのに、不思議とマヤの印象だけが薄い。
話していないわけじゃない。
いる。たしかにいるはずだ。
でも、視線が合う時間が妙に短い気がした。
「今日、会社どうだった?」
そう聞かれて、俺は普通に答えた。
「まあ普通。月末近いからちょっとばたついてる」
「そっか」
「そっちは?」
「んー、ちょっと買うもの多くて」
会話としては何もおかしくない。
なのに、なんとなくうまく掴めない感じがあった。
たぶん疲れているんだろう、と俺は思った。
仕事が立て込むと、家での会話まで少し上滑りして聞こえることがある。相手のせいではなく、自分の受け取り方の問題だ。
そういう日が、何日か続いた。
マヤは別に消えたりしない。
ちゃんといる。
ただ、前よりすれ違うことが増えた。
気づけば先に別の部屋へ行っている。
気づけば買い物に出ている。
気づけば風呂へ入っている。
同じ家の中にいるはずなのに、少しだけ会う時間が減った。
それでもアイリスはいつも通りだった。
玄関まで走ってきて、「パパ」と呼ぶ。
食卓ではその日にあったことを喋る。
人形遊びを見せてきたり、絵を描いたり、時々妙に真面目な顔で質問したりする。
だからこそ、俺は余計に、まあ大したことじゃないだろうと思えたのかもしれない。
ある晩、俺は少し遅く帰った。
遅いといっても、終電みたいな話ではない。いつもより一時間ほど遅いくらいだ。部長につかまったわけじゃないが、月末の数字確認で課の中がばたついて、片付くのに時間がかかった。
家へ向かう途中、端末にはマヤからの連絡もなかった。
玄関を開ける。
足音がする。
「パパ、おかえり」
「ただいま」
アイリスは今日もちゃんといた。
でも、台所は静かだった。
「ママは?」
「んー、いない」
「どこ行ったか聞いてる?」
「しらない」
それだけ言って、アイリスは俺の袖を引いた。
「ごはん、あるよ」
テーブルには、やはり夕飯が用意されていた。
ラップのかかった皿。
温めれば食べられる状態。
「先に食べたのか?」
「アイリス、ちょっとたべた」
「そっか」
「パパとたべる」
それを聞いて、少しだけ胸が柔らかくなる。
こういう時、子どもは妙にまっすぐだ。
俺は着替えて、簡単に料理を温め直し、二人で食べた。今日のメニューは肉じゃがだった。これも家の味という感じがする。店でわざわざ食うようなものじゃないが、家で食うと妙にうまい。
「ママ、おそいね」
アイリスが言う。
「そうだな」
「おしごとかな」
「かもしれない」
本当にそうなのか、自分でも分からなかった。
でも子どもの前で、必要もなく不安そうにするのも違う気がした。
食後、アイリスは少し眠そうだったので、先に歯を磨かせて寝かせることにした。マヤはまだ戻らない。俺は一応端末を確認したが、連絡はない。
少しだけ引っかかったが、怒るほどのことでもない。
そもそも、マヤが毎回細かく報告しなきゃいけない理由もないのだ。
そう考えるのに、少し力が要った。
アイリスを寝かせたあと、俺はリビングで一人になった。
時計の音がやけに小さく聞こえる。
いつもなら、どこかで食器の触れる音がしたり、浴室から水の音がしたり、そういう生活の気配があるのに、それが少ない。
たぶん、静かすぎるんだ。
俺は水を飲んで、ソファへ腰を下ろした。
何となく落ち着かず、端末でニュースを流す。
でも頭に入らない。
少しして、背後で声がした。
「シン」
体が、先に反応した。
あの時と同じだと思う。
前にアイリスの部屋で聞いた、あの呼び方。
振り返ると、リビングの入口にアイリスが立っていた。
寝たはずなのに、いつの間にか起きてきている。
「どうした。眠れないのか?」
そう訊きながら、俺は違和感を確かめるようにその顔を見る。
暗いわけではない。リビングの灯りはついている。
だからちゃんと見えるはずなのに、表情の感じが妙に掴みにくい。
「シンは今幸せ?」
二度目だった。
今度は聞き間違いじゃない。
はっきりと、名前で呼ばれた。
そして、同じ問い。
「……またそれか」
思ったより、声が低く出た。
アイリスは答えない。
ただ静かにこちらを見ている。
子どもの姿をしているのに、子どもらしい落ち着きのなさがない。
そのことに、少しだけ背中が冷たくなる。
「ママのこと、見なかったか?」
なぜそんなことを聞いたのか、自分でも分からない。
問いに答えるより先に、別のことを確認したくなった。
「見たよ」
「どこで?」
「ここにいた」
「今は?」
少し間があった。
「いない」
あまりにも平板な言い方だった。
俺は立ち上がる。
苛立ちなのか、戸惑いなのか、自分でもよく分からない感情が少しだけ胸の奥をざわつかせた。
「何なんだよ、それ」
問い詰めたわけじゃない。
でも、そう聞かずにいられなかった。
するとアイリスは、ほんの少しだけ首を傾けた。
まるでこちらの反応を確かめているみたいに。
「シンは今幸せ?」
三度目。
俺は息を吐いた。
怒るのも違う。怖がるほどでもない。
ただ、妙だった。
「幸せ、だと思うよ」
前より少し曖昧な言い方になった。
その瞬間、自分でも気づいた。
前はもっとすぐ答えられたはずなのに、今は少しだけ言葉を選んだ。
仕事がある。
家がある。
アイリスがいる。
マヤも、たぶんいる。
なのに、なぜか答える時に一拍空いた。
「ほんと?」
その問い返しが、一番嫌だった。
子どもの無邪気な確認にも聞こえる。
でも、それだけじゃない何かが混ざっている気がする。
「ほんとだよ」
俺は言った。
言い切るしかなかった。
しばらくして、アイリスはふっと視線を落とした。
それから何事もなかったみたいに、踵を返す。
「寝ろよ」
俺が言うと、小さく「うん」とだけ返ってきた。
廊下へ消えていく背中を見送りながら、俺はしばらく立ち尽くしていた。
何だ、今の。
そう思う。
でも答えは出ない。
しばらくして、玄関の外で小さな物音がした。
鍵の回る音。
マヤだった。
「ごめん、遅くなった」
コートを脱ぎながら、少し疲れた声で言う。
「どこ行ってた?」
「買い物のあと、ちょっと寄るところがあって」
「連絡くらいくれよ」
言ってから、少しだけきつかったかなと思う。
でもマヤは怒るでもなく、ただ「ごめん」と繰り返した。
「端末、鞄の中に入れたままで気づかなかった」
「そうか」
「アイリス、もう寝た?」
「ああ。さっきまで起きてたけど」
「珍しいね」
その言い方まで前と同じだったので、俺は一瞬だけ変な気分になった。
だが、それ以上は何も言わなかった。
マヤはキッチンへ行き、テーブルの上を見て「ちゃんと食べられた?」と聞く。
俺は「食べた」と答える。
それだけで会話は終わる。
喧嘩になるほどではない。
ただ、うまく噛み合っている感じもしない。
その夜、寝室で横になってからも、俺はなかなか寝つけなかった。
マヤは先に眠ったようで、呼吸がゆっくりしている。
俺は暗い天井を見ながら、何が引っかかっているのかを考えようとした。
すれ違いが増えたことか。
マヤの不在が少し多いことか。
アイリスの変な問いかけか。
どれもそれだけなら、大したことじゃない。
家族で暮らしていれば、そういう時期はあるんだろうと思える程度のものだ。
なのに全部が重なると、わずかに居心地が悪い。
俺は目を閉じる。
こういうのは、たぶん疲れだ。
月末で仕事が立て込んでいるし、少し神経質になっているだけだ。
そう自分に言い聞かせながら、眠気が来るのを待った。
翌朝になれば、たぶんまたいつもの生活に戻る。
そう思っていた。
少なくともその時の俺は、まだ、これはただのすれ違いだと信じていられた。




