表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
幸せな家族像_IRIS.log

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

58/258

不在

 最初は、本当に些細なことだった。


 何かが壊れたわけじゃない。

 大きな喧嘩をしたわけでも、はっきり困る出来事があったわけでもない。

 ただ、少しだけ噛み合わない日が増えた。


 その朝も、起きた時にはもうマヤがいなかった。


 別に珍しいことじゃない。

 先に起きて朝食の準備をしていることもあるし、洗濯物を回していることもある。だから寝室にいないくらいで、普通なら何も気にしない。


 俺は顔を洗ってリビングへ出た。


 テーブルの上には朝食が用意されていた。トーストと、簡単なサラダと、スクランブルエッグ。湯気の立つマグカップも置いてある。アイリスはもう席についていて、片手にパンを持ったまま、のんびり食べていた。


「おはよう」


「おはよ、パパ」


「ママは?」


「んー?」


 聞こえなかったのか、アイリスは少し首を傾げる。


「ママ、どこ行った?」


「しらない」


 あっさりした返事だった。

 子どもに訊いてもそんなものだろう。


 その時、洗面所の方で物音がして、ああそっちかと思った。

 それで済む話だった。


 実際、朝は普通に過ぎた。

 俺はいつも通り会社へ行き、いつも通り仕事をした。昼にはマヤから、買い物に寄るから少し遅くなるかも、とだけ連絡が来た。昨日言っていた用事の流れだろう。特に違和感はない。


 ただ、その日の帰宅は少しだけ静かだった。


 玄関を開けると、アイリスはいつも通り走ってきた。

 それは変わらない。


「パパ、おかえり!」


「ただいま」


 けれど、その奥にあるはずの気配が少し薄い気がした。

 台所から聞こえる包丁の音とか、鍋の蓋の触れ合う音とか、そういう生活の細かい音が少ない。


「ママは?」


「まだー」


「まだ?」


「うん」


 そう言って、アイリスはあっさり俺の手を引く。

 たぶん本当に深く考えていないんだろう。


 結局、その日は俺の方が早かったらしい。

 別におかしなことではない。買い物が長引く日もあるし、外で用事を足していれば時間なんてすぐずれる。俺は自分にそう言い聞かせながら、スーツの上着を脱いだ。


「ご飯は?」


「あるよ」


「もうできてるのか」


「ママがやってた」


 テーブルを見ると、たしかに途中まで準備がされている。

 スープは温め直せばよさそうだし、メインもラップがかかっていた。あと一手間で食べられる状態だ。俺は冷蔵庫を開け、メモがないか探したが、とくに何も見当たらない。


 まあいいか、と思った。

 風呂にでも入っているのかもしれないし、ゴミ出しか何かで下へ降りただけかもしれない。


 俺は結局、簡単に温め直してアイリスと先に食べることにした。


「ママ、あとでくるかな」


 アイリスが言う。


「来るだろ」


「そうだよね」


 子どもはこういう時、不安そうにするかと思えば案外けろっとしている。

 それとも、本当に何も変だと思っていないのか。


 二人で食べる夕飯は、三人の時と比べて少しだけ会話が少ない。アイリスは喋るが、俺はどうしても相槌が中心になる。間を埋めてくれていたのがマヤだったんだな、とこういう時に分かる。


 それでもその日は、特に気にしなかった。

 たまたまだと思ったからだ。


 次の日も、似たようなことがあった。


 帰宅した時、マヤは家にいた。

 ただ、顔を合わせたのはほんの少しだけだった。


「おかえり。ごめん、ちょっと手が離せなくて」


 台所で背中越しにそう言われた。

 俺が「ただいま」と返すと、アイリスが足元にまとわりついてくる。


 食卓にはちゃんと料理が並び、三人で席についた。

 なのに、不思議とマヤの印象だけが薄い。


 話していないわけじゃない。

 いる。たしかにいるはずだ。

 でも、視線が合う時間が妙に短い気がした。


「今日、会社どうだった?」


 そう聞かれて、俺は普通に答えた。


「まあ普通。月末近いからちょっとばたついてる」


「そっか」


「そっちは?」


「んー、ちょっと買うもの多くて」


 会話としては何もおかしくない。

 なのに、なんとなくうまく掴めない感じがあった。


 たぶん疲れているんだろう、と俺は思った。

 仕事が立て込むと、家での会話まで少し上滑りして聞こえることがある。相手のせいではなく、自分の受け取り方の問題だ。


 そういう日が、何日か続いた。


 マヤは別に消えたりしない。

 ちゃんといる。

 ただ、前よりすれ違うことが増えた。


 気づけば先に別の部屋へ行っている。

 気づけば買い物に出ている。

 気づけば風呂へ入っている。

 同じ家の中にいるはずなのに、少しだけ会う時間が減った。


 それでもアイリスはいつも通りだった。

 玄関まで走ってきて、「パパ」と呼ぶ。

 食卓ではその日にあったことを喋る。

 人形遊びを見せてきたり、絵を描いたり、時々妙に真面目な顔で質問したりする。


 だからこそ、俺は余計に、まあ大したことじゃないだろうと思えたのかもしれない。


 ある晩、俺は少し遅く帰った。


 遅いといっても、終電みたいな話ではない。いつもより一時間ほど遅いくらいだ。部長につかまったわけじゃないが、月末の数字確認で課の中がばたついて、片付くのに時間がかかった。

 家へ向かう途中、端末にはマヤからの連絡もなかった。


 玄関を開ける。


 足音がする。


「パパ、おかえり」


「ただいま」


 アイリスは今日もちゃんといた。

 でも、台所は静かだった。


「ママは?」


「んー、いない」


「どこ行ったか聞いてる?」


「しらない」


 それだけ言って、アイリスは俺の袖を引いた。


「ごはん、あるよ」


 テーブルには、やはり夕飯が用意されていた。

 ラップのかかった皿。

 温めれば食べられる状態。


「先に食べたのか?」


「アイリス、ちょっとたべた」


「そっか」


「パパとたべる」


 それを聞いて、少しだけ胸が柔らかくなる。

 こういう時、子どもは妙にまっすぐだ。


 俺は着替えて、簡単に料理を温め直し、二人で食べた。今日のメニューは肉じゃがだった。これも家の味という感じがする。店でわざわざ食うようなものじゃないが、家で食うと妙にうまい。


「ママ、おそいね」


 アイリスが言う。


「そうだな」


「おしごとかな」


「かもしれない」


 本当にそうなのか、自分でも分からなかった。

 でも子どもの前で、必要もなく不安そうにするのも違う気がした。


 食後、アイリスは少し眠そうだったので、先に歯を磨かせて寝かせることにした。マヤはまだ戻らない。俺は一応端末を確認したが、連絡はない。

 少しだけ引っかかったが、怒るほどのことでもない。

 そもそも、マヤが毎回細かく報告しなきゃいけない理由もないのだ。


 そう考えるのに、少し力が要った。


 アイリスを寝かせたあと、俺はリビングで一人になった。

 時計の音がやけに小さく聞こえる。

 いつもなら、どこかで食器の触れる音がしたり、浴室から水の音がしたり、そういう生活の気配があるのに、それが少ない。


 たぶん、静かすぎるんだ。


 俺は水を飲んで、ソファへ腰を下ろした。

 何となく落ち着かず、端末でニュースを流す。

 でも頭に入らない。


 少しして、背後で声がした。


「シン」


 体が、先に反応した。


 あの時と同じだと思う。

 前にアイリスの部屋で聞いた、あの呼び方。


 振り返ると、リビングの入口にアイリスが立っていた。

 寝たはずなのに、いつの間にか起きてきている。


「どうした。眠れないのか?」


 そう訊きながら、俺は違和感を確かめるようにその顔を見る。


 暗いわけではない。リビングの灯りはついている。

 だからちゃんと見えるはずなのに、表情の感じが妙に掴みにくい。


「シンは今幸せ?」


 二度目だった。


 今度は聞き間違いじゃない。

 はっきりと、名前で呼ばれた。

 そして、同じ問い。


「……またそれか」


 思ったより、声が低く出た。


 アイリスは答えない。

 ただ静かにこちらを見ている。


 子どもの姿をしているのに、子どもらしい落ち着きのなさがない。

 そのことに、少しだけ背中が冷たくなる。


「ママのこと、見なかったか?」


 なぜそんなことを聞いたのか、自分でも分からない。

 問いに答えるより先に、別のことを確認したくなった。


「見たよ」


「どこで?」


「ここにいた」


「今は?」


 少し間があった。


「いない」


 あまりにも平板な言い方だった。


 俺は立ち上がる。

 苛立ちなのか、戸惑いなのか、自分でもよく分からない感情が少しだけ胸の奥をざわつかせた。


「何なんだよ、それ」


 問い詰めたわけじゃない。

 でも、そう聞かずにいられなかった。


 するとアイリスは、ほんの少しだけ首を傾けた。

 まるでこちらの反応を確かめているみたいに。


「シンは今幸せ?」


 三度目。


 俺は息を吐いた。

 怒るのも違う。怖がるほどでもない。

 ただ、妙だった。


「幸せ、だと思うよ」


 前より少し曖昧な言い方になった。


 その瞬間、自分でも気づいた。

 前はもっとすぐ答えられたはずなのに、今は少しだけ言葉を選んだ。


 仕事がある。

 家がある。

 アイリスがいる。

 マヤも、たぶんいる。

 なのに、なぜか答える時に一拍空いた。


「ほんと?」


 その問い返しが、一番嫌だった。


 子どもの無邪気な確認にも聞こえる。

 でも、それだけじゃない何かが混ざっている気がする。


「ほんとだよ」


 俺は言った。

 言い切るしかなかった。


 しばらくして、アイリスはふっと視線を落とした。

 それから何事もなかったみたいに、踵を返す。


「寝ろよ」


 俺が言うと、小さく「うん」とだけ返ってきた。


 廊下へ消えていく背中を見送りながら、俺はしばらく立ち尽くしていた。

 何だ、今の。

 そう思う。


 でも答えは出ない。


 しばらくして、玄関の外で小さな物音がした。

 鍵の回る音。


 マヤだった。


「ごめん、遅くなった」


 コートを脱ぎながら、少し疲れた声で言う。


「どこ行ってた?」


「買い物のあと、ちょっと寄るところがあって」


「連絡くらいくれよ」


 言ってから、少しだけきつかったかなと思う。

 でもマヤは怒るでもなく、ただ「ごめん」と繰り返した。


「端末、鞄の中に入れたままで気づかなかった」


「そうか」


「アイリス、もう寝た?」


「ああ。さっきまで起きてたけど」


「珍しいね」


 その言い方まで前と同じだったので、俺は一瞬だけ変な気分になった。

 だが、それ以上は何も言わなかった。


 マヤはキッチンへ行き、テーブルの上を見て「ちゃんと食べられた?」と聞く。

 俺は「食べた」と答える。


 それだけで会話は終わる。

 喧嘩になるほどではない。

 ただ、うまく噛み合っている感じもしない。


 その夜、寝室で横になってからも、俺はなかなか寝つけなかった。


 マヤは先に眠ったようで、呼吸がゆっくりしている。

 俺は暗い天井を見ながら、何が引っかかっているのかを考えようとした。


 すれ違いが増えたことか。

 マヤの不在が少し多いことか。

 アイリスの変な問いかけか。


 どれもそれだけなら、大したことじゃない。

 家族で暮らしていれば、そういう時期はあるんだろうと思える程度のものだ。


 なのに全部が重なると、わずかに居心地が悪い。


 俺は目を閉じる。

 こういうのは、たぶん疲れだ。

 月末で仕事が立て込んでいるし、少し神経質になっているだけだ。


 そう自分に言い聞かせながら、眠気が来るのを待った。


 翌朝になれば、たぶんまたいつもの生活に戻る。

 そう思っていた。


 少なくともその時の俺は、まだ、これはただのすれ違いだと信じていられた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ