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IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
幸せな家族像_IRIS.log

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問い

 その夜のことは、今でも細かい順番までよく覚えている。


 たぶん、何かが少しだけずれた最初の日だったからだと思う。

 その時は、ずれたなんて思っていなかったけれど。


 夕飯のあと、アイリスが描いた家族の絵は、結局リビングの棚の横に置かれることになった。壁に貼るには少しテープが見苦しいし、額に入れるほど大げさでもない、ということで、マヤが小さな立てかけを出してきて、そこに乗せる形になった。


 紙の上の俺たちは、三人とも同じくらい大きな笑顔だった。

 輪郭は丸く、手足は棒みたいに簡単で、服の色はかなり適当。でも不思議と、ああ、うちの絵だなと思える。こういうのは似てる似てないではなくて、描いた本人がそう思っていること自体に意味があるんだろう。


「これ、ずっとここ?」


 俺が聞くと、アイリスはうんと頷いた。


「みんなみえるところがいいの」


「そっか」


「パパもみえるし、ママもみえるし、アイリスもみえるから」


 言い方が少し変だったが、まあ子どもだしそんなものだろう。

 見える、という言葉に特別な意味はなかったはずだ。


 食器洗いはその日、俺が少し手伝った。

 といっても、大したことはしていない。マヤが洗った皿を拭いて、棚へ戻していくだけだ。こういう作業は嫌いじゃない。無心で手を動かせるし、隣に誰かがいる感じもいい。


「明日、少し遅いかも」


 皿を拭きながらマヤが言った。


「仕事?」


「うん。昼過ぎに少し出る用事があって、そのまま買い物もしてくるかも」


「了解。じゃあ俺の方が早かったら、先に帰ってるよ」


「助かる」


「アイリスの風呂くらいならやるし」


「ほんと? ありがたい」


 夫婦の会話としては、たぶんかなり地味な部類だと思う。

 でも、こういうので十分だった。


 何かを劇的に確かめ合わなくても、明日の段取りを軽く共有して、それで話が通る。そういう関係の方が、俺には落ち着く。若い頃はもっと、分かりやすい熱量のある関係に憧れた時期もあった気がするが、今はこのくらいの温度がちょうどいい。


 風呂上がりのアイリスは、髪が少ししっとりしていて、いつもより眠そうに見えた。それでも寝る前の絵本は譲らない。今日はマヤが少し手が離せなかったので、俺が読むことになった。


「どれにする?」


「これ」


 渡されたのは、動物がたくさん出てくる絵本だった。

 前にも何度か読んだことがあるやつだ。


 ベッドの上で隣に座って、ページをめくる。アイリスは途中から話より絵を見ているのか、こちらの読み方より自分のタイミングで「わあ」とか「このこすき」とか言う。そのたびに少し止まるので、話の流れは毎回ばらばらになる。


「このこ、やさしそう」


 あるページでアイリスが言った。


「どれだ?」


「このこ」


 小さな指が差していたのは、笑っているように見える動物だった。

 絵本の中の笑顔なんて、記号みたいなものだ。それなのに、子どもはちゃんとそこに意味を見つけるらしい。


「やさしいか?」


「うん。おくちがこうなってるから」


 口元を指でなぞる。

 笑っている形、ということなんだろう。


「アイリスもよくそういう顔するな」


「アイリス、やさしいもん」


「自分で言うか」


 そう返すと、アイリスは眠たそうに笑った。


 結局、絵本を読み終えるより先に、アイリスは目を閉じた。

 子どもの寝つきは急だ。さっきまで喋っていたと思ったら、もう静かになっている。


 俺は絵本を閉じて、布団の端を少し整えた。

 寝顔を見ていると、こんな小さいのに一人前みたいなことを言うんだよな、と妙に感心することがある。昼間の元気さとは別の、静かな小ささがそこにある。


 部屋の灯りを落として、そっと扉を閉める。


 リビングに戻ると、マヤはソファで端末を見ていた。買い物の一覧か何かをまとめているらしい。俺はその隣に腰を下ろし、なんとなく一息ついた。


「寝た?」


「寝た」


「早かったね」


「途中で落ちた」


「いっぱい喋ってたからね」


 それだけ言って、マヤはまた端末へ目を落とす。

 俺も特に続きを求めず、背もたれに体を預けた。


 こういう時間も、わりと好きだ。

 無理に会話を続けなくても同じ空間にいられる感じがある。


 しばらくして、マヤが立ち上がった。


「私、先にお風呂入るね」


「どうぞ」


「シンもあんまり夜更かししないでね」


「分かってる」


 そう言って、マヤは浴室の方へ消えた。

 リビングには急に静けさが残る。


 俺はなんとなくテレビ代わりの壁面表示をつけたが、特に見たいものもなく、適当にニュースの見出しを流した。景気がどうとか、新しい遊戯端末の普及率がどうとか、そういう話ばかりだ。数分眺めて、結局消す。


 視線の先に、棚の横へ置かれたアイリスの絵が見えた。


 三人が並んで笑っている。


 うまいわけじゃない。けれど、見ていると妙に気持ちがほどける絵だった。自分の家族を子どもがどう見ているか、みたいなことを正面から考える機会はあまりない。こうして形になって初めて、ああ、あの子の中では俺たちはこういうものなのかと思う。


 笑っている家族。

 たぶん、それでいい。


 俺は立ち上がって、キッチンへ行き、水を一杯だけ飲んだ。

 そのあと、寝る前にもう一度だけアイリスの様子を見ておこうと思った。


 子どもが寝たあと、様子を見に行くなんて、昔の俺なら想像もしなかった。

 でも今は、ごく自然にそうしている。


 廊下を歩いて、静かに扉を開ける。


 部屋の中は暗かったが、完全な闇ではない。窓の外の街灯の明かりが少しだけ差し込んでいて、物の輪郭がぼんやり分かる。ベッドの上の小さなふくらみも見える。


「アイリス」


 起こさない程度の声で呼ぶ。

 返事はない。寝ているんだから当たり前だ。


 そのまま扉を閉めて戻ろうとした時だった。


「シン」


 背中側から、声がした。


 ほんの一言。

 小さな声なのに、不思議なくらいはっきり聞こえた。


 俺は振り返った。


 ベッドの上に、アイリスが起き上がっている。

 暗がりの中で表情まではよく分からない。ただ、こっちを見ていることだけは分かった。


「起きてたのか」


 そう言いながら、俺は少しだけ違和感を覚えた。


 今、なんて呼ばれた?


 たしかに名前で呼ばれた気がした。

 でも、寝ぼけているんだろうか。子どもは時々、半分夢の中みたいな状態で妙なことを言う。


「どうした?」


 近づくと、アイリスは静かにこちらを見ていた。

 昼間のあの子にある、せわしない明るさが妙になかった。


 そして、落ち着いた声で言う。


「シンは今幸せ?」


 一瞬、意味が分からなかった。


「……何?」


 聞き返す。

 だが、問いは変わらない。


「シンは今幸せ?」


 同じ声音。

 妙に澄んでいて、妙に平らだった。


 子どもがする質問じゃない、と思った。

 いや、子どもだってそういう言葉を知らないわけじゃない。テレビや絵本で覚えることもあるだろう。ただ、この場面で、この声で、この言い方をするのがひどくちぐはぐだった。


「急にどうしたんだよ」


 俺は笑うみたいに言ってみる。

 けれど、その軽さが自分でも少し浮いて聞こえた。


 アイリスは少しも笑わない。

 暗い部屋の中で、ただこちらを見ている。


「幸せ?」


 もう一度。


 俺は困って、ベッドのそばへしゃがんだ。


「そうだな……幸せ、だよ」


 答えながら、何に対して答えているのかよく分からなかった。

 でも、そう答える以外にない気もした。


 会社は疲れる。

 面倒もある。

 数字に追われるし、部長はうるさい。


 それでも家に帰ればマヤがいて、アイリスがいて、飯があって、こうして一日が終わる。

 それを幸せと呼ばないなら、何をそう呼ぶのか分からない。


 だから答えは、たぶん合っている。


「幸せだよ」


 今度は少しはっきり言った。


 すると、アイリスはほんの少しだけ首を傾けた。

 その仕草は子どもらしいのに、何かを確認するみたいにも見えた。


「そっか」


 それだけ言って、布団へ戻る。


 さっきまでの張り詰めた感じが、ふっと薄れた気がした。

 俺はしばらく待ったが、もうそれ以上は何も言わない。


「……寝ぼけてるのか?」


 半分独り言みたいに呟いてみる。

 返事はない。


 しばらく見ていると、本当にまた眠ったように見えた。

 小さな肩が静かに上下している。


 俺は立ち上がって、今度こそ扉を閉めた。


 廊下に出ても、しばらく頭の中にさっきの声が残っていた。


 シンは今幸せ?


 子どもの口から出るには、妙に整った言葉だった。

 しかも「パパ」じゃなく、「シン」と呼ばれた気がする。そこも引っかかった。


 だがまあ、疲れていたのかもしれない。

 俺が、だ。


 仕事で頭が固くなっていると、なんでも少し変に感じることがある。

 アイリスだって、どこかで聞いた言葉を真似しただけなのかもしれない。


 そう考えることにした。


 リビングへ戻ると、ちょうどマヤが風呂から上がってきたところだった。


「どうしたの?」


「いや、アイリスが少し起きてて」


「珍しいね」


「変なこと聞かれた」


「変なこと?」


「今幸せかって」


 マヤは少しだけ目を丸くした。

 けれど次の瞬間には、ふっと笑った。


「何それ。どこで覚えたんだろうね」


「だよな」


「今日は絵本とかテレビとか、そういうので何かあったのかな」


「かもな」


 その反応を見て、少し安心した。

 やっぱり、大したことじゃないんだろう。


「で、なんて答えたの?」


「幸せだよって」


 そう言うと、マヤはタオルで髪を拭きながら、柔らかく笑った。


「ならよかった」


 その一言で、奇妙な引っかかりはだいぶ薄れた。


 そうだよな、と思う。

 別に難しく考えることじゃない。


 俺は幸せだ。

 少なくとも、そう言えるだけのものを持っている。


 その確認みたいなものだったのかもしれない。

 子どもなりの、よく分からない問い方で。


 寝る前にもう一度、棚の横の絵が目に入った。

 三人並んで笑っている、あの絵だ。


 俺はそれを見て、変なこともあるもんだなと小さく息をついた。

 そしてすぐに、まあいいか、と思った。


 その時の俺はまだ、あの問いが一度きりではないことを知らなかった。

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