食卓
うちの食卓は、たぶん特別なものじゃない。
洒落た照明があるわけでもないし、雑誌に載るような整った部屋でもない。テーブルだって少し使い込まれていて、アイリスが小さい頃につけたらしい細い傷が端のほうに残っている。椅子の脚も一つだけ少し軋むし、壁際の棚にはマヤがなんとなく置いたままらしい小物が増えたり減ったりしている。
でも、俺はその感じが気に入っていた。
帰宅して、手を洗って、席について、三人で飯を食う。その流れが妙にしっくりくる。店の飯みたいに毎回出来が一定なわけじゃないし、日によって味の濃さだって微妙に違う。それでも、同じテーブルを囲んでいると、ここが自分の帰る場所なんだと実感できる。
翌日も、俺はいつも通り仕事をしていた。
午前中は取引先との打ち合わせが二件。昼を挟んで社内の確認が一件。午後は進行中の案件について制作と揉める。広告関係の営業なんて、派手そうに見えるわりに地味な調整の繰り返しだ。先方は無茶を言うし、社内はできることとできないことを並べるし、その間でちょうどいい落としどころを見つけるのがこちらの仕事になる。
今日も今日で、まあ疲れた。
夕方、制作の若いのが「この納期は現実的じゃないです」とやや険しい顔で言ってきた時は、こっちだってそう思ってるよと返したくなったが、そこを飲み込むのも役目のうちだ。俺は営業で、課長で、たぶん中間に立って何とかするために給料をもらっている。
だから仕事中の俺は、できるだけ穏やかに話す。
会社では「私」だとか「自分」だとか、そういう無難な一人称を使う。
言葉の端を丸くして、相手の顔色を見ながら、必要なら頭を下げる。
そういう自分が嫌いなわけではない。
ただ、ずっとそのままでいると疲れる。
だから、定時が近づくと少しだけ気が楽になる。今日は大きな差し込みもなく、昨日みたいに部長に捕まることもなかった。これなら少し早めに帰れるかもしれない、と思った瞬間、端末にマヤから短いメッセージが入る。
**今日はオムライスにしようと思ったけど、アイリスがハンバーグって言うので変更しました。**
その一文を見て、思わず口元が緩んだ。
なんでもない文章だ。
だが、そのなんでもなさがいい。
たぶんマヤは、別に俺を喜ばせようとして送ったわけじゃない。ただ今日の家の事情を軽く伝えてきただけだろう。でもその中に、ちゃんとアイリスがいて、夕飯があって、俺が帰る前提の会話がある。それだけで、会社の空気が少し遠くなる。
**了解。急いで帰る**
そう返して、俺は端末をしまった。
昔なら、仕事中に私的な連絡が来てもここまで嬉しくはならなかった気がする。今は違う。家からの連絡には、家に戻るための細い糸みたいな感じがある。大袈裟かもしれないが、仕事の時間と私生活の時間をちゃんと繋いでくれる感じだ。
その日の帰りは、昨日より少し早かった。
駅からの道を歩きながら、俺はなんとなくオムライスも惜しかったなと思う。だが、アイリスがハンバーグと言ったのなら仕方ない。あの子は時々、食べたいものへの意思が妙に強い。もっとも、その強さはたいてい数日単位で切り替わる。先週まではオムライスこそ世界の中心みたいな顔をしていたのに、今週はハンバーグらしい。
玄関を開けると、今日もちゃんと足音がした。
「パパ、おそくない!」
「遅くないな」
「きょうははやい!」
「そうだな」
アイリスは満足そうに頷いて、俺の鞄にまで手を伸ばしてくる。持てるわけもないのに、とりあえず持つ真似だけするのがいつもの流れだ。
「ただいま」
「おかえり」
マヤの声が、台所から返ってくる。
鍋の蓋が当たる音と一緒に聞こえるその声は、外で聞くより少し柔らかい。
手を洗って席につくと、テーブルにはサラダの皿が置かれていた。まだメインは来ていない。アイリスは自分の椅子でそわそわしている。たぶん待ちきれないんだろう。
「ねえパパ」
「ん?」
「きょうね、アイリスね、おにんぎょうさんのおせわしたの」
「へえ。ちゃんとできたか?」
「できたよ。ごはんもつくったの」
「何を?」
「ハンバーグ」
「お前もか」
俺が言うと、マヤが向こうでふっと笑った。
「今日一日ずっとハンバーグだったよ」
「そこまで?」
「朝から言ってた。今日はハンバーグの日だって」
ハンバーグの日。
ずいぶん強い宣言だなと思う。
「だってすきだもん」
アイリスは真面目な顔で言う。
こういう時、本当に一切の迷いがない。
マヤが皿を運んでくる。湯気の立つハンバーグにソースがかかっていて、その匂いだけでだいぶ空腹になる。横には温野菜。スープはコンソメっぽい。派手さはないが、ちゃんとした夕飯だと思う。
「いただきます」
三人で手を合わせる。
アイリスはまず形を眺め、それから慎重に一口切って食べた。少し大袈裟なくらい目を丸くする。
「おいしい……」
「昨日も同じこと言ってたぞ」
「でもきょうもおいしいの!」
「そりゃよかった」
俺も食べる。
うん、うまい。
マヤの作るハンバーグは、変に店っぽくないところがいい。肉汁がどうとか、ふわふわがどうとか、そういう分かりやすい特別感よりも、何度食べても落ち着く感じがある。仕事で疲れた日に食うと、余計にそう思う。
「今日、会社はどうだった?」
マヤが聞く。
「平和だった」
「それはよかった」
「制作と少し揉めたくらいだな」
「ああ、平和じゃないね、それ」
「でも部長に捕まらなかったから十分平和」
「基準が低い」
そう言われて、少し笑う。
たぶんその通りだ。
俺は必要以上に仕事の話をしないし、マヤも必要以上には聞かない。ただまったく触れないわけでもない。そのさじ加減がちょうどよかった。何もかも共有しなくても、同じ食卓にいられる感じがする。
「ママね、きょうね、おかいものいったの」
アイリスが急に会話へ割り込んでくる。
「そうか」
「それでね、アイリスね、おかしがまんしたの」
「えらいな」
「えらいよね」
「えらいえらい」
俺がそう言うと、アイリスは嬉しそうに鼻を鳴らした。
単純で助かる。
「でもそのあと、帰ってからクッキー食べたよ」とマヤが言う。
「それは……まあ、別にいいだろ」
「いいの!」
「お前が言うのか」
夕飯の途中、アイリスの話題は何度も飛んだ。人形の服の話になったかと思えば、おままごとの配役の話になり、急に「パパはくまさん役ね」と決められる。俺はくまさん役の仕事内容がよく分からなかったが、とりあえず頷いておいた。
こんなふうに話の中身はだいぶ雑多なのに、不思議と退屈しない。たぶん俺が、内容そのものより、この時間がそこにあることを気に入っているんだと思う。
会社の会議は、みんな口を開いているわりに何も残らないことが多い。食卓の会話は逆だ。話していること自体はとても些細なのに、あとに残るのは内容じゃなくて、同じ時間を過ごしたという感触になる。
それが、家族なんだろう。
ふと、昔のことを思い出す。
仮想遊戯に夢中だった頃、いかにも幸せそうな生活を疑似体験できるモードもあった気がする。綺麗な部屋、都合のいい会話、理想的な相手。少し選べば、好きな雰囲気の暮らしはいくらでも組めた。あの頃は、そういうものを面白いと思っていたし、ある意味では憧れてもいたのかもしれない。
でも今は、そういう整いすぎたものにあまり魅力を感じない。
アイリスの話は飛びまくるし、マヤは時々こっちの話を聞きながら別の段取りも考えている。皿の置き方だって完全じゃないし、テーブルの端には俺が昨日置きっぱなしにした郵便物がまだある。それでも、この少し雑然とした感じの方がよほど落ち着く。
綺麗に整っていないから、本物っぽい。
いや、ぽいというか、本物なんだが。
「ねえ、パパ」
アイリスがスプーンを持ったままこちらを見た。
「ん?」
「パパは、おしごとすき?」
思わぬ質問だった。
俺は少しだけ考える。
「好きか嫌いかで言うと、難しいな」
「むずかしい?」
「好きな日もあるし、嫌な日もある」
「きょうは?」
「今日は……まあ、普通」
「ふつうかあ」
アイリスは何かを納得したように頷いた。
たぶん、何も納得していない。
「アイリスは、パパがおうちにいるのがすき」
「ありがとう」
「だから、おしごと、あんまりいっぱいしないでね」
その言い方があまりにも真っ直ぐで、一瞬、返す言葉に困った。
子どもは平気でこういうことを言う。
悪意も遠慮もなく、欲しいものをそのまま言葉にする。
「いっぱいしないように頑張るよ」
そう答えると、アイリスは満足そうに笑った。
マヤは何も言わず、ただ少しだけ目を細めた。
その表情を見ると、ああ、帰ってきてよかったなとまた思う。
食後、マヤが食器を片付けている間、俺はアイリスとテーブルに残った。アイリスは紙と色ペンを持ってきて、急に「かぞくのえをかく」と言い出した。
こういう流れもよくある。
「パパ、そこにいて」
「ここでいいのか」
「いいよ。うごかないで」
「難しい注文だな」
俺は椅子に座ったまま、アイリスが紙に向かうのを見ていた。
描かれていくのは、丸い顔が三つ。真ん中に少し大きいのが一つあって、両脇に少し小さいのが並ぶ。色づかいは自由だ。髪の色も服の色も現実と合っているとは限らないが、それでも誰が誰かはなんとなく分かる。
「これ、パパ」
「おう」
「これ、ママ」
「うん」
「これ、アイリス」
「うまいじゃないか」
「でしょ」
得意げだ。
紙の上の家族は、妙ににこにこしていた。
みんな同じくらい丸い顔で、同じくらい大きな口を開けている。
「そんな笑ってるか?」
俺が聞くと、アイリスはきょとんとした。
「だって、かぞくだもん」
その返しがあまりにも当然で、少しだけ言葉に詰まる。
そうか、と思う。
子どもの中では、家族は笑っているものなんだろう。少なくとも、アイリスにとっては。
それが妙に嬉しかった。
絵を描く小さな手を見ながら、俺は自分が思っていた以上に、この家に救われているんだと気づく。仕事がどうとか、役職がどうとか、営業成績がどうとか、そういうこととは別の場所で、自分はちゃんと満たされているらしい。
食卓があって、帰宅する場所があって、娘がいて、マヤがいる。
それだけで、明日も会社に行ける気がする。
アイリスは描き終えた絵を持ち上げて、俺に見せた。
「ねえ、いいでしょ?」
「ああ、いいな」
「これ、おうちにかざる」
「それはいい考えだ」
「ママにもみせる!」
そう言って、アイリスは椅子から飛び降りる。
そして台所へ向かって、小さな声を弾ませた。
「ママー! みてー!」
その声を聞きながら、俺はふと、この家の時間はいつも同じようでいて、同じではないのかもしれないと思った。今日の会話は今日しかないし、今日の匂いも、今日の絵も、今日のハンバーグも、明日には少し違うんだろう。
だから、帰る意味がある。
そういう少しずつ違う当たり前を、ちゃんと受け取りに帰ってきているのだと思う。
台所の方から、マヤの柔らかな声がした。
続いて、アイリスのはしゃいだ声。
その二つが重なるだけで、家の中がちゃんと家の音になる。
俺は椅子にもたれたまま、しばらくその音を聞いていた。




