帰宅
部長に呼ばれたのは、定時の三十分前だった。
嫌な予感しかしない呼ばれ方というのはある。廊下の向こうから手だけで合図される感じとか、席に戻ろうとしたところを絶妙なタイミングで止められる感じとか。今回もそうだった。俺が資料をまとめて、今日の分はひとまず終わりだなと思った瞬間に、「シン君、ちょっと」と来た。
その時点で、だいたいろくでもない。
「お疲れ様です」
とりあえずそう言って部長席の前に立つと、部長は端末の画面から目を離さないまま、指先で何かを拡大していた。営業数字の一覧だろう。あの画面を見ている時の部長は、たいてい機嫌がよくない。
「この案件さ」
来た。
「先方、結局まだ決裁下りてないの?」
「はい。先ほども連絡しましたが、先方の役員承認が来週にずれ込むそうで」
「ずれ込むそうで、じゃ困るんだよね」
言うと思った。
俺は黙って次の言葉を待つ。ここで反射的に何か言い返しても、話が長くなるだけだ。営業を長くやっていると、そのへんの無駄な足掻きを省く癖がつく。
「今月の着地、厳しいの分かってるよね?」
「分かっています」
「だったら、もっと早く詰めてほしいんだよ。向こうの事情も分かるけど、こっちにも数字があるんだから」
「はい」
「あとこの前の企画書、少し弱かった。悪くはないんだけど、決め手がない。うちみたいな規模の会社は、無難にまとめても埋もれるだけなんだよ」
その話は昼にもした。
したが、部長の中ではまだ終わっていないらしい。
俺は相槌を打ちながら、頭の片隅で今日の帰宅時間を計算していた。ここから十分で解放されれば、いつもより少し遅いくらいで済む。二十分かかると、アイリスが風呂に入る前に間に合うかどうか怪しい。三十分を超えると、夕飯の温かいタイミングは逃す。
部長の説教中にそんなことを考えているのは、たぶん社会人としてあまり褒められた態度ではない。けれど仕方ない。俺は仕事を家に持ち帰らない主義だし、逆に言えば、会社にいる間はそれなりにちゃんとやっているつもりだ。そのうえで早く帰りたいと思うことまで否定されたら、もう会社員なんてやっていられない。
「……シン君、聞いてる?」
「聞いてます」
「ほんとに?」
「企画書の切り口をもう少し攻めて、先方の承認フローを前提にスケジュールの詰め方も見直します」
部長は少しだけ黙った。
たぶん、ちゃんと聞いていたことは伝わったんだろう。
「うん。まあ、それならいいけど」
よくはないだろう、と心の中でだけ思う。
結局、解放されたのは定時を二十分ほど過ぎた頃だった。席に戻ると、同じ課の連中がちらほら片付けを始めている。俺も急いで端末を閉じて、必要なデータだけクラウドへ上げる。昔はそのまま家で続きでも、と思うこともあったが、今はやらない。どれだけ締切が近くても、家に仕事の顔を持ち込まない。それだけは自分の中で決めている。
隣の席の若手が「お先です」と声をかけてきたので、「お疲れ」とだけ返す。昔の俺なら、ここから誰かと軽く飲みに行く日もあったかもしれない。今はそういう時間が惜しい。会社の外でまで会社の話をするくらいなら、真っ直ぐ帰って家で飯を食いたい。
ロッカーから上着を取って、通路を抜け、エレベーターで一階に降りる。自動ドアの向こうは、もう夕方というより夜の入り口だった。街灯がつき始めていて、歩道を行く人たちの影が少し長い。昔より看板の表示は立体寄りになったし、広告も個人端末と連動して勝手に切り替わるようになったが、仕事帰りの街の疲れた感じはあまり変わらない気がする。
駅までの道を歩きながら、俺は無意識に端末の時刻を確認した。間に合うな、と思う。これなら、アイリスがまだ起きている時間に帰れる。マヤも、たぶんちょうど盛り付けをしている頃だろう。
その想像だけで、肩のあたりが少し軽くなる。
昔の俺は、こんなふうに誰かの待つ場所へ向かう感覚を知らなかった。仕事が終われば、どこへ帰っても同じだった。コンビニで適当に飯を買って、一人で食って、風呂に入って、気が向けば仮想遊戯に潜る。あれはあれで気楽だったが、今思うと、あまりにも何も引っかかりがなかった。
家に誰かがいるっていうのは、不思議なものだ。
ただ帰るだけの行為に、ちゃんと意味ができる。急ぐ理由ができるし、急いでいい理由にもなる。誰かが待っていると分かっているだけで、夜道の感じまで少しやわらかくなるのだから、単純なものだと思う。
駅から家までは歩いて十分少々。住宅街に入ると、表通りのざわつきが少し遠くなる。建物の窓に灯りが見えて、どこかの家から味噌汁みたいな匂いがして、子どもの笑い声が短く聞こえて消える。そういうものの中を歩いていると、自分もちゃんとこの時間帯の中に属している気がした。
角を曲がって、見慣れた建物が見える。
ああ、帰ってきたなと思う瞬間だ。
エントランスを抜け、エレベーターに乗り、階数表示をぼんやり見上げる。家までの数十秒は、たいていその日初めて頭が空になる時間だった。数字のことも、部長の顔も、得意先の返答待ちも、この間だけは追ってこない。
玄関の前で、鍵を差し込む。
小さく音がして、扉が開く。
その途端、ふわっと温かい匂いがした。
肉の焼ける匂いに、たぶん玉ねぎの甘い匂いが混ざっている。ああ、今日はハンバーグかと思う。俺も好きだし、アイリスも好きだ。マヤはこういう、いかにも家のご飯という感じの料理を作るのがうまい。
「ただいま」
そう言った直後、ぱたぱたと軽い足音がした。
「パパ、おかえり!」
いつもの勢いで、小さな体が正面からぶつかってくる。俺は慌てて鞄を持ち替えて、しゃがみ気味にそれを受け止めた。
「おう、ただいま」
「きょうね、アイリスね、いっぱいできたの!」
「何がだ?」
「いっぱい!」
説明になっていない。
でも、それが妙に可笑しくて笑ってしまう。
アイリスは六歳にしては言葉が達者な方だと思うが、興奮するとだいたいこうなる。先に気持ちが溢れて、肝心の中身があとから付いてくるのだ。頬が少しあたたかくて、髪がふわふわしていて、こうして抱きとめるたびに、俺は本当に父親なんだなと変な実感が湧く。
「手、洗ってきてね」と台所の方から声がした。
顔を上げると、マヤがこちらを見て少し笑っていた。エプロン姿で、片手に皿を持っている。火の向こう側にいると、あの人はいつも少し柔らかく見える。
「今日はちょっと遅かったね」
「部長に捕まった」
「あらら」
「まあ、帰れたからいいよ」
マヤはそれ以上、仕事のことを細かくは聞かない。聞かれれば話すが、自分から家に持ち込みたくない俺の癖を知っているから、必要以上には踏み込まない。その距離感がありがたかった。
「ハンバーグ?」
「当たり」
「やった」
「アイリスもおてつだいしたの!」
「そうか。偉いな」
そう言うと、アイリスは胸を張った。こういう時の得意げな顔がまた、妙に真剣で面白い。
洗面所で手を洗いながら、鏡に映る自分の顔を見た。疲れていないわけじゃない。昼からずっと端末を睨んでいたせいで目も重いし、部長にあれこれ言われた後味も、完全に消えてはいない。それでも、会社にいた時の顔よりはずっとましだった。
手を拭いて食卓へ行くと、すでに皿が並び始めていた。ハンバーグに、サラダに、スープ。どう考えても派手な料理じゃない。店で食えるような凝ったものでもない。でも、こういうのでいい、じゃなくて、こういうのがいいと思う。
席につくと、アイリスが待ちきれない様子で口を開いた。
「パパ、きょうね、ブロックでおうちつくったの」
「へえ」
「おへやがいっぱいあるの。アイリスのおへやと、パパのおへやと、ママのおへや」
「みんな別なんだな」
「あとね、おきゃくさんのおへや!」
「来客前提か」
俺が言うと、マヤが少しだけ笑う。
「アイリスの中では、たくさん部屋がある方がいいんだって」
「いいだろ、それは」
「でも、ちゃんとみんなでごはんたべるおへやもあるの!」
「それは大事だな」
「うん!」
アイリスは本気で頷いた。
その頷き方があまりにも真っ直ぐで、また少し笑ってしまう。
こういう時間が、俺は好きだ。
誰かといても疲れない時間というのは、案外多くない。会社では相手の顔色や数字や言い方を気にしてばかりだし、外では外なりに気を使う。でも家では、それをしなくていい。いや、まったく何も考えないわけじゃないが、少なくとも自分を仕事用に整えなくていい。
そのことが、想像以上に人を楽にする。
「いただきます」
三人で手を合わせる。
アイリスは待ちきれない様子で一口食べて、すぐに顔を上げた。
「おいしい!」
「それはよかった」
「ママすごい」
「アイリスも手伝ってくれたからね」
「アイリス、まるくしたの!」
たぶんタネを丸めるあたりを少しやらせてもらったんだろう。形が少しいびつなのも、そのせいかもしれない。でも、それがむしろちょうどよかった。いかにも誰かがちゃんと作った家のご飯という感じがする。
俺も一口食べる。
うまい。
別に大袈裟な感動はない。けれど、ああこれだ、と思う味だった。仕事帰りに食いたいのは、こういう味だ。帰ってきた感じがする味、と言ってもいい。
「どう?」
マヤが聞く。
「うまい」
「ほんと?」
「ほんと」
「よかった」
その短いやり取りだけで十分だった。
食事の最中、俺は今日の仕事のことをほとんど話さなかった。マヤも深くは聞かない。アイリスの話題だけで案外時間は過ぎるし、その方が家の空気には合っている。仕事の愚痴なんて、話したところで何かが軽くなるわけでもない。それより、ブロックの家に客間が必要かどうかを真面目に議論していた方が、よほど建設的だった。
食後、アイリスが「パパ、みて」とブロックを持ってきたので、俺はソファの横にしゃがみこんでしばらく付き合った。玄関からここまで、まだ一時間も経っていない。でももう、会社にいた時の自分が別人みたいに遠かった。
昔、仮想遊戯に熱中していた頃は、綺麗に整えられた理想的な生活みたいなものを、画面の向こうでいくらでも見てきた。都合のいい部屋、都合のいい相手、都合のいい会話。あれはあれで楽しかったが、今こうして目の前でアイリスが少し歪んだブロックの家を誇らしげに見せてくるのと比べたら、やっぱり別物だったと思う。
現実の方が、ずっと手触りがある。
不便なことも多いし、面倒もある。仕事はしんどいし、疲れるし、腹の立つことだっていくらでもある。それでも、こうして家に帰って、娘が走ってきて、台所にマヤがいて、食卓に湯気が立っている。それだけで、一日の重さの意味が少し変わる。
悪くない。
いや、かなりいい。
俺はブロックの家を覗き込みながら、「ここは何の部屋なんだ」と訊いた。
アイリスは嬉しそうに、一つひとつ説明を始める。
その声を聞きながら、俺は今日もちゃんと帰ってこられてよかったと思った。




