炎上
王国が燃えていた。
その光景を前にすると、今まで頭の中を占めていたはずのことが、いったん全部どこかへ吹き飛ぶ。間者の噂も、ルークの名前も、連行の話も、何もかもが炎の熱量に押し潰されるみたいだった。
ただ、燃えている。
それだけで十分すぎた。
中枢区画へ続く幹線通路の向こうで、白いはずの壁面が赤く染まり、上階の窓列から火が噴き出している。塔の一部はすでに崩れ、焼けた金属が骨みたいに剥き出しになっていた。王国本部は堅牢で、前線の仮設壁なんかとは比べものにならないはずだった。それが、こんなふうに燃える。
ありえない、と思う。
でも目の前で燃えている。
「消火班を回せ!」
「第三区画、通路が落ちるぞ!」
「避難誘導急げ!」
怒鳴り声が飛び交う。
担架が走る。
兵が駆ける。
火の色だけが、やけに綺麗だった。
俺はその場に立ち尽くしかけて、無理やり足を動かした。車列の護衛に付いていた兵たちはすでに散っている。命令待ちをしている時間じゃない。目の前に火災があるなら、やることは支援か救助だ。
そう頭では分かっているのに、思考のどこかにまだ引っかかっている。
ルーク。
連行の話。
本部。
火災。
嫌な繋がり方だった。
俺は一番近い誘導兵を捕まえた。
「何が起きた」
「分からん! 中央拘束棟のあたりからだ!」
拘束棟。
その言葉で、頭の奥が一気に冷えた。
「……拘束棟?」
「聞いてないのか、間者だの反逆だの、今日はそっちもごたついてたんだよ! いいから動け!」
言われるまでもなく、体はすでに動いていた。
中央拘束棟の方角へ向かう。
だが近づくほど熱が強い。
通路の途中で崩落が起き、進路が遮られている。白煙が視界を曇らせ、目が痛む。補修班と消火班が必死に迂回路を作っているが、追いついていない。
「そこは通れない!」
誰かが叫ぶ。
「拘束棟は!?」
「もう駄目だ、上階ごと火が回った!」
俺はその兵の肩を掴みそうになって、寸前で止めた。
「中にいたやつは」
「知らん! 避難が先だ!」
その返答は当然だった。
当然なのに、何の意味もなかった。
知らん。
避難が先。
通れない。
もう駄目だ。
言葉だけが来る。
肝心なものは何も掴めない。
炎の向こうで、何か大きなものが崩れる音がした。
火花が散る。
熱風が頬を打つ。
あの中にルークがいたのか。
そもそも本当に連行されていたのか。
捕まったのか。
何か言ったのか。
間者だったのか。
何ひとつ分からない。
分からないまま、燃えていく。
俺は少し離れた医療中継区画まで負傷者の搬送を手伝った。腕を貸し、担架を持ち、崩れかけた通路を走る。目の前で人が倒れる。叫ぶ。咳き込む。火の粉が降る。そういう現実が次々と押し寄せてきて、考える余地を奪っていく。
ルークのことを考えるな、とは思っていない。
ただ、考える前にやることが来る。
前線でもそうだった。
死や喪失を整理する前に次の任務が来る。
でも、今回は規模が違った。
王国そのものが燃えている。
俺がいた場所。
守る側だと思っていたもの。
帰ればそこにあると思っていたもの。
それが赤く崩れていく。
ようやく一段落して、俺は外縁寄りの高架通路へ出た。
そこからは中枢区画の炎がよく見えた。
夜の中に、王国だけが赤い。
前線で見た血の色とも、警報灯の赤とも違う。
もっと大きくて、もっとどうしようもない赤だった。
隣に誰かが立つ。知らない兵だ。顔は煤で汚れ、片腕に包帯を巻いている。
「……拘束棟、全滅らしい」
そいつは独り言みたいに言った。
俺は何も返さない。
「今日、連れてこられたやつもいたって」
それ以上聞きたくなかった。
でも耳は勝手に拾う。
「間者だか何だか知らんが、運が悪かったな」
運が悪い。
その言い方に、妙な笑いが込み上げそうになった。
運が悪い?
それだけか。
裏切ったのかもしれない。
本当は違ったのかもしれない。
家族がいたのかもしれない。
何か言いたかったのかもしれない。
何もかも分からないまま焼けて、それで“運が悪かったな”で終わるのか。
だが、俺は何も言わなかった。
言ったところで何も変わらない。
炎は燃え続けている。
崩れた塔は戻らない。
焼けた人間は戻らない。
確認しに行く道ももうない。
もしあの中にルークがいたとしても、もう話せない。
問い詰めることも、殴ることも、笑うこともできない。
間者だったのか。
違ったのか。
俺に向けた言葉にどこまで本音があったのか。
全部、火の向こうだ。
俺は高架通路の手すりに手を置いた。
熱で乾いた金属が掌に張りつく。
考えようとしても、頭の中に浮かぶのはルークの顔じゃなかった。
隣で飯を食っていた時の笑い声も、
背中を庇った時の息づかいも、
耳覆いに触れる癖も、
そういう細かいものは全部、もっと大きな赤に呑まれていく。
目の前で王国が燃えている。
その事実の方が、あまりにも重かった。
悲しいとか、悔しいとか、怒りとか、そういう綺麗な順番では来ない。
ただ呆然とする。
こんなにも簡単に、守る側だと思っていたものが燃えるのか、と。
俺はずっと、人に期待しない方が楽だと思っていた。
裏切られても傷つかないように。
死なれても困らないように。
なのに結局、焼ける時は一緒だった。
国も、
信頼も、
答えも。
全部、同じ赤で塗り潰される。
しばらくそうしていた。
どれくらいの時間だったかは分からない。
前線にいた時みたいに、時間の感覚が薄い。
遠くでまた何かが崩れた。
火の粉が舞う。
誰かの叫びが風に削られて聞こえなくなる。
その時ふと、冒頭の記憶がよみがえった。
初めて人を撃った時、目に入った綺麗な赤。
あの時からずっと、赤は嫌いだった。
だが今、目の前にある赤は、それよりずっと大きくて、ずっと醜い。
それでもやっぱり、どこか綺麗に見えてしまうのが最悪だった。
俺は赤が嫌いだ。




