連行
ルークが捕まったらしい、と聞かされた時、俺はそれも嘘だと思った。
その日の朝、防衛線の空気は妙に澄んでいた。噂が広がりきった後の静けさというのは、嵐の前とも少し違う。皆が勝手に何かを察して、しかし確かなことはまだ誰も口にしない。そういう薄気味悪い落ち着き方をしていた。
俺は外縁の見回りから戻る途中で、班長に呼び止められた。
「ノア、少しいいか」
珍しく低い声だった。
人目を避けるように、補修資材の積まれた通路脇へ連れていかれる。
「何ですか」
「お前、ルークとよくつるんでたな」
その聞き方だけで、胸の奥がざらついた。
「飯の時間が重なってただけです」
「そうか」
班長は一拍置いてから続ける。
「確認はまだ流動的だが、上が動いた。間者の件だ」
俺は黙って続きを待った。
「対象はルークでほぼ固まった。昨夜から所在確認が入ってる」
言葉の意味は分かる。
だが、頭のどこかが受け取りを拒んでいた。
「誤認でしょう」
自分でも驚くほど即座に言っていた。
班長は俺を見る。否定も肯定もしない顔だ。
「そうだといいがな」
「証拠は」
「俺に全部は降りてこない。ただ、内通経路と配置漏れの時系列が噛み合いすぎてるらしい。異種混合の特性も含めて」
「特性だけで決めつけてるなら雑すぎる」
「俺に言うな」
その通りだった。
班長に噛みついても意味はない。
だが、腹の底が冷えていく。
嫌な冷え方だ。
「今どこに」
「今朝の時点では確保未了。だが、もう時間の問題だろう」
俺はその場で班長を置いて歩き出しそうになった。
止めたのは、辛うじて残っていた理性だった。
「……捜索命令は出てるんですか」
「局地的にな。お前は持ち場を離れるな」
そう言われて、余計に苛立つ。
持ち場を離れるな。
つまり、俺には何もするなと言っているのと同じだ。
その日の任務はほとんど頭に入らなかった。
サポートの通知音、通路の足音、遠くの銃声。全部が薄い膜を隔てているように聞こえる。体だけは慣れた通りに動くのに、思考だけがどこか噛み合わない。
ルークが間者。
捜索が入っている。
もう時間の問題。
ありえない。
ありえないはずだ。
だが“ありえない”だけでは何の反証にもならない。
それが一番腹立たしかった。
昼の休憩時間、いつもの席へ行った。
ルークはいなかった。
別任務か、捜索を避けて動いているか、あるいは――
そこまで考えて、苛立ったまま器を卓に置く。
隣の席が空いているだけで、こんなに目障りだとは思わなかった。
「ノア」
後ろから声がした。
振り返ると、見慣れた兵が立っている。砲台補助に入ることの多いやつだ。名前までは知らない。
「ルークのこと、聞いたか」
俺は答えない。
それでも相手は続けた。
「今朝方、別区画で捕まったって話だ」
その一言で、頭の中が妙に静かになった。
「どこで」
「西寄りの整備通路。抵抗はほとんどなかったらしい」
「嘘だな」
自分でも驚くほど平坦な声だった。
兵は眉をひそめる。
「いや、王国本部への連行が決まったって――」
「見たのか」
「……聞いた」
「なら嘘だ」
相手は少し口をつぐんだ。
俺の声色に引いたのかもしれない。
「お前、あいつと仲良かったもんな」
「仲良くない」
「でも――」
「見てないなら喋るな」
それで会話は終わった。
終わったが、俺の中では何も終わっていない。
捕まった?
連行?
王国本部へ?
そんなに話が進むわけがない。
昨夜から所在確認が入った程度のはずだ。
その半日で確保して、もう連行まで決まる?
雑すぎる。早すぎる。噂に尾ひれがついただけだ。
そう思わなければならなかった。
午後、班長から正式な異動命令が出た。
「ノア、お前は一時的に後送便の護衛へ回れ」
「は?」
「王国本部寄りへの物資移送だ。今夜出る」
俺は一瞬だけ言葉を失った。
「なんで俺が」
「人手不足だ。前線の一部が再編される。お前は射撃が安定してる」
それは表向きの理由だろう。
だが、今の俺には都合が良すぎた。
王国本部寄り。
ルークが本当に連行されたなら、行き先はそっちだ。
「了解しました」
班長は少しだけ俺の顔を見た。
「私情を挟むなよ」
「挟みません」
嘘だったかもしれない。
少なくとも、その時点で俺はもう、任務だけを考えてはいなかった。
移送便は夜に出た。
装甲車両と補給コンテナの列。
警戒灯を落としたまま、王国本部方面の幹線通路を進む。車内は狭く、暗く、油と金属の匂いがこもっている。誰もあまり喋らない。揺れに合わせて装備が小さく鳴る音だけが耳につく。
俺は端末を握ったまま、黙って前を見ていた。
隣の兵が小声で言う。
「聞いたか。例の間者、もう本部に運ばれてるかもしれんって」
またそれだ。
俺は視線も向けずに返す。
「噂だろ」
「いや、今度はかなり確からしい」
「お前は何を見た」
「見てはないけど……」
「なら黙ってろ」
兵はそれ以上何も言わなかった。
自分でも分かる。
今日の俺は明らかに刺々しい。
だが、止められなかった。
見てもいないのに“確からしい”を積み上げていく連中が、ひどく鬱陶しかった。
ルークが捕まるところなんて見ていない。
連行されたところも見ていない。
だったらまだ嘘だ。
敵の情報操作かもしれない。
内部の誤認かもしれない。
別のルークかもしれない。
どれも苦しい理屈だと分かっている。
それでも、見ていない以上は確定じゃない。
そう思っているうちに、車列は王国本部圏へ入った。
昔の都市機能を継ぎ接ぎで使っている区域だ。外壁は厚く、照明は白く、前線よりずっと整って見える。守られている場所特有の冷たさがある。だが、その冷たさが今夜は妙だった。
人が多い。
警戒音が多い。
何より、空気が焦げ臭い。
車両が速度を落とし、通路の先が赤く染まっているのが見えた。
「……なんだ?」
誰かが呟く。
俺も前を見る。
赤だった。
壁の向こう、さらに奥。
王国本部の中枢があるはずの方向が、明らかに赤い。
火だ。
車列が止まりきる前に、警報が一斉に鳴り出した。
『王国中央区画にて大規模火災。延焼中。該当区域への進入経路を再計算します』
サポートの声が、普段より少しだけ早口に聞こえた。
車両の扉が開く。
熱気が流れ込んでくる。
俺はほとんど反射で飛び降りた。
地面に足がついた瞬間、焦げた空気が肺に入る。
王国が燃えていた。
正確には、本部中枢の一帯が燃え上がっている。
高い塔の輪郭が炎の向こうで揺れている。
避難誘導の怒鳴り声、崩落音、何かが爆ぜる音。
あまりに大きすぎて、最初は現実感がなかった。
ルークのことを考える余裕すら、一瞬消えた。
ただ、王国が燃えているという事実だけが、何もかも押し流してきた。




