名前
ルークの名を聞いた時、最初に思ったのは笑い話にもならない、だった。
その日、俺は補給通路の中継区画で弾薬箱の受け渡しをしていた。前線の押し引きが小刻みに続いていて、補給の回し方もだいぶ雑になっている。こういう時は誰もが苛立っているし、声も荒くなる。だから、最初はただの怒鳴り合いの延長だと思った。
「ありえねえだろ」
「でも上からの話だ」
「確認もなしに動くのかよ」
区画の奥で、二人の兵が低い声で揉めていた。
通り過ぎるつもりだったが、次の一言で足が止まる。
「間者の正体、ルークって聞いた」
聞き間違いだと思った。
そうじゃなければ、誰か別の同名の話だ。
前線に同じ名の兵がいないとは限らない。
俺は弾薬箱を置き、そいつらの方を見た。向こうも俺に気づいて一瞬黙る。気まずそうな顔をしたのは若い兵の方だった。
「今の話」
俺が言うと、年上の兵が眉をひそめる。
「聞いてたのか」
「聞こえた。誰のことだ」
二人は顔を見合わせた。
答えたのは若い方だった。
「……ルークって兵。補助線と前線を行ったり来たりしてるやつ」
知っている特徴だった。
だが、意味が分からない。
「誤報だろ」
俺は即座に言った。
「まだ確定じゃない」
「ならなおさらだ。名前だけ出して騒ぐな」
言葉が自分でも思ったより強く出た。
二人とも少しだけ顔を硬くする。
「俺たちだって好きで言ってるわけじゃない」
年上の兵が言う。
「上から内々に降りてきてる。獣人国側に情報が流れてた件、発信源の当たりがついたって話だ」
「当たりだろ。確定じゃない」
「そうだな」
「ならそれで終わりだ」
俺はそう言って弾薬箱を持ち直し、その場を離れた。
心臓が妙に速い。
苛立っているのか、怒っているのか、自分でもよく分からなかった。
ルークが間者?
馬鹿らしい。
あいつは確かに少し変わっている。耳がいいし、軽いし、どこでも自然に入り込む。だがそれとこれとは別の話だ。噂好きの連中が、“それっぽい特徴”に適当に名前を貼り付けただけだろう。
そういう決めつけは前線で何度も見てきた。
誰かが目立つ。
少しだけ周囲と違う。
それだけで、何かが起きた時に犯人役へ押し込まれる。
くだらない。
本当にくだらない。
休憩時間になって、俺はいつもの壁際へ向かった。
頭の中ではさっきの会話がまだ引っかかっている。
ルークはすでにいた。
「お、遅い。今日は忙しかった?」
いつもの調子だった。
それを見た瞬間、逆に少しだけ腹が立った。
何に対してかは分からない。
たぶん、さっき聞いた名前と、目の前のこいつが結びつかないことに。
「どうした、ノア。顔怖いよ」
「元からだ」
「それはそう」
ルークは笑った。
その笑い方も、変わらない。
俺は隣に座り、配給の器を受け取った。
少し迷ってから、結局そのまま聞く。
「お前、今日どこ回ってた」
「ん? 午前は補修区画、午後は中継通路の警戒。なんで?」
「別に」
「珍しいね、勤務確認なんて」
「気まぐれだ」
ルークは少しだけ首をかしげたが、それ以上は追及しなかった。
その気安さに、逆に救われる。
やましいことがあるやつの顔には見えない。
見えないからといって違う証拠にはならない、なんて理屈は分かっている。だが少なくとも俺には、目の前のルークが“間者”という単語に綺麗に収まるようには思えなかった。
「ノア、なんかあった?」
不意にそう聞かれる。
俺はスプーンを止めた。
「別に」
「嘘。今日ちょっと変」
「お前に言われたくない」
「心外だなぁ。俺、観察力ある方なんだけど」
それは知ってる。
だからこそ、少しだけ言いにくい。
「くだらない噂を聞いただけだ」
「噂?」
「ああ」
「どんな」
そこで少しだけ迷う。
言う必要はない。
ないが、言わないのも妙な気がした。
「間者の話だ」
ルークの手が、ほんの少し止まった。
まただ、と思う。
ほんの一瞬だけ、間ができる。
でもそれだけだ。
疲れていれば誰だってそうなる。
「へえ」
ルークはすぐにいつもの顔へ戻る。
「まだやってるんだ、それ」
「お前も聞いてたのか」
「聞くよ、そりゃ。最近みんなその話ばっかだし」
「そうか」
「で、ノアは気にしてる?」
「してない」
「ほんとに?」
「証拠がない」
「……そっか」
その返事は小さかった。
だがそれ以上、ルークは何も聞かなかった。
俺も何も言わない。
区画の周囲では、今日も誰かが何かに苛立っていて、誰かが疲れ切って黙っていた。前線はいつもそうだ。その中でルークと飯を食う時間だけが、妙にいつも通りに見えた。
だから、なおさら馬鹿らしくなった。
こいつが間者?
ありえない。
戦場で背中を預けた相手だ。
命を庇われた。
それを理由に盲目になるつもりはないが、それでも雑な噂ひとつで塗り替えられるほど軽いものでもない。
午後の任務は短い巡回だった。
ルークとは別行動。
その間も、噂は嫌でも耳に入る。
「王国側の配置変更、読まれすぎてる」
「耳のいい異種混合が怪しいって話だ」
「もう捕まるのも時間の問題らしい」
どいつもこいつも、断片だけで喋る。
言い切るくせに根拠は薄い。
俺は黙って任務をこなし、必要以上の会話を避けた。
こんな話に混ざっても何の意味もない。
夜に近い頃、通路の曲がり角で見知った顔とすれ違う。
ルークだった。
「お、ノア。生きてる?」
「見れば分かる」
「よかった」
軽口はいつも通り。
けれど、その目の下に少し疲れがあるように見えた。
「お前こそ」
「ん?」
「顔色悪いぞ」
「うわ、心配された」
「違う」
「でもありがと」
その“ありがと”が妙に素直で、少しだけ調子が狂う。
ルークは耳覆いを軽く押さえ、それから言った。
「ノアはさ」
「なんだ」
「噂って、ほんとに信じないよね」
「信じる理由がない」
「……そうだよね」
「お前、何が言いたい」
「別に。ただ、ノアらしいなって思っただけ」
それで話は終わった。
ルークはそのまま軽く手を振って通路の向こうへ消える。
背中を見送りながら、ほんの少しだけ妙な感じが残った。
会話自体は何でもない。
ただ、こいつが俺の返事を確かめるみたいに言葉を選ぶ時があるのが気になった。
でも、それ以上は考えなかった。
考えたくなかったのかもしれない。
夜、休憩区画でまた同じ話を耳にした。
「名前まで割れてるらしい」
「ならもう終わりだろ」
「捕まる前に逃げられたら厄介だな」
俺は器を置いた。
煮込みは半分ほど残っていたが、もう味がしなかった。
終わりだの逃げるだの、勝手なことを言うな。
まだ何も確定していない。
そもそも、そいつがルークだと決まったわけでもない。
もし本当に上が動いているなら、近いうちに何らかの通達が出るはずだ。
それまでは誤報だ。
俺はそう結論づけて、席を立った。
休憩区画の出口で、一度だけ振り返る。
さっきまでルークが座っていた隣の席は、今は空いていた。
どうでもいいと思う。
思うのに、その空白が少しだけ嫌だった。
その時の俺はまだ、名前を聞かされたことよりも、自分がそれを即座に否定したことの方が重いと気づいていなかった。




