誤報
間者がいるらしい、という噂が流れたのは、その三日後だった。
最初はいつもの与太話だと思った。前線じゃ、何かがうまくいかないたびに裏切り者の影がちらつく。補給線が読まれた、敵の動きが妙に正確だった、怪物の投入がこちらの配置に噛み合いすぎている。そういう時、人は“たまたま”より“誰かが売った”を信じたがる。
気持ちは分かる。
分かるが、たいていは証拠もない。
その日も、休憩区画の奥で誰かが声を潜めて話していた。
「また情報抜かれてる」
「今回の補給経路、知ってたやつ限られてたろ」
「上が伏せてるだけで、もう絞れてるんじゃないか?」
そういう類の話だ。
俺はいつもの壁際で配給を食っていた。
隣には当然みたいにルークがいる。
「物騒だねぇ」
ルークが軽く言う。
「前からだ」
「でも今回、ちょっと本気っぽくない?」
「噂はいつだって本気だ」
言うと、ルークは苦笑した。
「それもそう」
俺は煮込みを口へ運ぶ。
味は相変わらず薄い。
隣の卓では、誰かが“獣人国の耳のいいやつが紛れてるんじゃないか”と適当なことを言っていた。
そういう話は珍しくない。異種混合の兵は純人間より疑われやすい。嗅覚がいい、夜目が利く、耳がいい。便利な特性は、そのまま疑いの理由にもなる。前線では役立つぶん、平時よりも線引きが雑になる。
俺はそういう会話が好きじゃなかった。
証拠もないのに、特徴だけで当たりをつけるやり方は雑すぎる。
「ノア、機嫌悪い?」
「別に」
「でも今、ちょっと顔怖い」
「元からだ」
「それはそう」
ルークは笑った。
だが、その笑い方が少しだけ薄い気がした。
「噂、気になる?」
「ならない」
「即答」
「証拠が出てから気にすればいい」
「合理的だなぁ」
「お前は違うのか」
「俺? 俺は……どうだろ。気にならないって言うと嘘かな」
言いながら、ルークは器の縁を指先でなぞった。
耳覆いには触れない。代わりに視線だけが少し泳ぐ。
珍しい、と少し思った。
こいつが話題を濁すのは、たまにある。だが今回はほんの少しだけ、間の置き方が不自然だった。
「疑われたいタイプじゃなさそうだもんな」
何の気なしに言うと、ルークは一瞬だけ固まった。
ほんの一瞬だ。
すぐにいつもの調子へ戻る。
「やだよ、そんなの。俺、愛されたい派だし」
「前にも聞いた」
「覚えてくれてるんだ」
「うるさい」
それで会話は終わった。
違和感がなかったわけじゃない。
だが、疑うほどでもない。
戦場で少し変な間があったからといって、それが何だという話だ。疲れているだけかもしれないし、噂のせいで空気が悪いだけかもしれない。
実際、その日の防衛線全体が少し荒れていた。
作戦の細かい変更が増え、通達が二転三転し、補給班と前線班の間でも小さな衝突が起きている。誰かがぴりつけば、周囲も引っ張られる。間者の噂はそういう時の火種としてちょうどいい。
俺とルークは午後の監視巡回を任された。
外縁寄りの観測通路を歩きながら、俺は端末の更新を確認する。今日の割り振りは細かく変わっていた。誰がどこに入るか、補修班がどこへ回るか、弾薬箱がどの通路を使うか。全体としてはまだ整っているが、継ぎ目が増えている。
「ねぇノア」
ルークが前を見たまま言う。
「もし間者がいたとして、どうする?」
「どうするも何もない。捕まえるだけだろ」
「そっか」
「何だその質問」
「いや、ノアってそういうのどう考えるのかなって」
「任務以上のことは考えない」
「割り切ってるね」
「感情でどうにかなる話じゃない」
そう言い切ると、ルークは少しだけ黙った。
足音だけが通路に響く。遠くでは補修用の溶接音が断続的に鳴っていた。外は風が強いらしく、隔壁の向こうから低い振動が伝わってくる。
「……ノアはさ」
ルークがぽつりと言う。
「もし仲いいやつがそうだったら、どうする?」
少しだけ面倒な聞き方だった。
俺は眉を寄せる。
「そんな仮定に意味あるか」
「例え話」
「ないな」
「即答だ」
「証拠があるなら同じだ。なければ違う。それだけだろ」
ルークは笑わなかった。
その代わり、小さく「そっか」とだけ言った。
俺は横目でそいつを見る。
表情はいつも通りに見える。
だが、さっきから少しだけ静かだ。
「お前、今日は妙だな」
言うと、ルークはすぐにこちらを向いた。
「そう?」
「口数が少ない」
「それ、ノアに言われるんだ」
「質問に答えろ」
少し間があってから、ルークは肩をすくめる。
「噂ってやつ、あんまり好きじゃないだけ」
「珍しくまともだな」
「いつもまともだよ」
そこでようやく、少しいつもの調子に戻った。
巡回は何事もなく終わった。
敵影なし。
怪物反応なし。
ただし防衛線の空気だけがざらついている。
夕方、再び休憩区画へ戻ると、噂はさらに広がっていた。誰が言い出したのかも分からない推測が、半分事実みたいな顔をして飛び交っている。王国兵の中に紛れた異種混合兵だとか、補給班に獣人国と繋がってるやつがいるだとか、挙句には補助知能サポート自体が改竄されてるんじゃないか、なんて話まで出ていた。
全部、根拠が薄い。
こういう時、人は自分の不安に形を与えたがる。
それがどれだけ雑でも、見えないままよりはマシだと思うのだろう。
「ほんと、みんな好きだよねぇ」
ルークがパンをちぎりながら言う。
「見えないものに名前つけるの」
「見えないままじゃ落ち着かないんだろ」
「ノアは平気なの?」
「落ち着かないなら、見えるまで待つだけだ」
ルークは少しだけ目を細めた。
「それ、強いのか冷たいのか分かんないな」
「どっちでもいい」
「でも、そういうとこ嫌いじゃないよ」
不意打ちみたいに言われて、俺は少しだけ顔をしかめた。
「やめろ」
「何が?」
「そういうことをさらっと言うな」
「本音なのに」
「なお悪い」
ルークはそこでようやく声を出して笑った。
その笑い方を聞いて、今日一日まとわりついていた妙な違和感が少しだけ薄れた。
こいつはルークだ。
うるさくて、
軽くて、
馴れ馴れしい。
戦場で背中を預けられるやつで、
飯の時間になると隣にいるやつだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
間者の噂は噂だ。
誰かが勝手に膨らませているだけだろう。
少なくとも俺は、そう思っていた。
だからその夜、通路の角で耳にした会話も、最初は大して気に留めなかった。
「……絞れたらしいぞ」
「まじか」
「名前まではまだだが、もう内々には――」
すれ違いざまの小声。
具体性のない断片。
俺はそのまま歩き続けた。
証拠が出てからでいい。
見えるものだけ見ればいい。
余計な疑いで目を曇らせるのが、一番くだらない。
そういう考えは、今も間違っていたとは思わない。
ただ、その時の俺はまだ、自分が何を“見たくない”と思っているのかに気づいていなかった。




