背中
その日の前線は、朝から嫌な静けさだった。
敵の動きが見えない日が安全なわけじゃない。むしろ逆だ。観測線の向こうがやけに澄んで見える時ほど、何かが奥で溜まっている気がする。そういう予感は、当たってほしくないのによく当たる。
『王国東部第七防衛線、警戒段階上昇。外縁広域に断続的反応。敵性種別、混在の可能性』
サポートの声が朝から二度目の警告を流した。
混在。
獣人国兵だけじゃなく、怪物も混じる可能性があるという意味だ。
俺たちは補助壁沿いの前進配置へ回されていた。正面の視界は広いが、そのぶん狙われやすい。仮設障壁と崩れた輸送車両の残骸を繋いだだけの簡易陣地で、守りやすい場所とは言いがたい。それでも、この線を抜かれれば後方の補給通路まで一気に食われる。守るしかない。
「嫌な感じするね」
隣でルークが言った。
耳覆いの位置を指で直しながら、前方を見ている。
いつもの軽さは残っているが、声の底は少し硬かった。
「お前でもそう思うか」
「俺でもって何」
「無駄に陽気なやつは勘が鈍いと思ってた」
「失礼だなぁ」
ルークは笑ったが、視線は前から外さない。
「でも、今日はほんとに嫌。静かすぎる」
その言い方が、妙に記憶に残る。
開始は唐突だった。
遠方でまず一発、電磁砲の着弾。
次にこちらの右側監視塔が吹き飛ぶ。
破片が上がり、遅れて警報が鳴る。
『交戦状態に移行。全員、迎撃行動を優先』
叫び声、足音、発砲音。
空気が一気に切り替わる。
前方の瓦礫群から敵兵が散開し、その間を縫うように怪物が出てきた。数が多い。いつもの小競り合いじゃない。本気の押し込みだ。
「左抑える!」
「了解!」
誰かの声に合わせ、俺は遮蔽物の陰から拳銃を抜いた。
近い。これは拳銃の距離だ。
一人撃つ。
二人目は肩口を掠め、転がり込む。
そこへ光線銃持ちが被せて仕留める。
怪物が一体、異様な速度で壁を乗り越えた。
脚の長い、人型に近い個体。
動きが読めない。
光線銃へ切り替える。
焼く。
止まらない。
「くそっ」
脚を狙い直すが、もう遅い。
怪物が飛ぶ。
その瞬間、横からルークがぶつかってきた。
視界が傾く。
俺は強引に地面へ倒され、怪物の爪がさっきまで首のあった位置を掠めた。
「立てる!?」
「問題ない!」
言いながら、起き上がりざまに怪物の胴へ一発。
ルークが横から追撃。
動きが鈍ったところへ、俺が頭部を撃ち抜く。
倒れた。
だが息をつく暇はない。
次が来る。
敵兵が遮蔽物の向こうから撃ち込んでくる。弾と光線が壁を削り、破片が頬を打つ。左では味方が一人倒れた。負傷か、即死かは見えない。確認する余裕もない。
「前出るな!」
俺が言うと、ルークは返事の代わりに笑った。
「ノアこそ!」
その軽さが妙に腹立たしい。
だが同時に、落ち着く。
ルークは恐怖を消しているわけじゃない。
たぶん怖いはずだ。
それでも声だけはいつも通りに近い。
そのことが、混戦の中ではありがたかった。
俺たちは遮蔽物を使いながら位置をずらし、左右から来る敵を処理していった。呼吸が合っている、というのはこういうことを言うのかもしれない。こっちが下がればあいつが埋める。あいつが撃てない角度は俺が取る。言葉が少なくても噛み合う。
それでも押されていた。
正面の敵兵が増え、怪物がさらに二体出る。後方からの支援要請も重なって、線全体がきしんでいるのが分かった。
『左翼区画損耗率上昇。補助壁破断を確認』
最悪だ。
左が抜ければここも持たない。
「ノア、右寄って!」
ルークの声が鋭く飛ぶ。
反射で動いた、その次の瞬間だった。
轟音。
どこから飛んできたのか、一発の榴弾が前方の残骸へ直撃した。鉄片と土煙が跳ね上がる。爆圧で視界が白くなる。耳鳴り。地面が揺れる。
まずい、と思った時には、足元が崩れていた。
半壊した遮蔽物の端に体を持っていかれ、バランスを崩す。
起き上がる。
だが遅い。
煙の向こうから獣人国兵が一人、短距離で詰めてきていた。
近い。銃より早い。
俺は拳銃を上げるが、相手の方が一瞬早い。
その間に割って入ったのが、ルークだった。
鈍い音がした。
何が起きたのか、一拍遅れて理解する。
敵の刃が、ルークの脇腹を掠めていた。
「っ……!」
「ルーク!」
ルークは顔をしかめたが、止まらなかった。相手の腕を押し流すようにして体勢を崩し、その隙に俺が撃つ。敵兵が倒れる。続けて周囲へ二発。煙の向こうの影を散らす。
「下がれ!」
俺はルークの腕を掴んで遮蔽物の陰へ引き戻した。
脇腹の装甲が裂けている。血は出ているが、深くはない……はずだ。少なくとも今すぐ動けなくなる傷ではない。だが、間違いなく俺を庇った結果の負傷だった。
「平気、平気」
ルークは歯を見せるように笑った。
余裕を装っているのが見え透いている。
「喋るな」
「喋れるから平気」
「黙れ」
「はい」
短く応急処置を施し、止血だけ済ませる。
完全な手当てをする余裕はない。
まだ終わっていない。
だが、その手が少しだけ震えていることに、自分で気づいた。
怖かったからじゃない。
遅れて、理解したからだ。
こいつは今、俺を庇った。
偶然じゃない。
反射的にそう動いた。
俺は立ち上がり、前へ出た。
ルークも続こうとする。
「動ける」
「分かってる」
「じゃあ」
「……背中、見とけ」
口にしてから、自分で少し驚いた。
ルークも一瞬だけ目を見開く。
だがすぐに、いつもの笑い方に戻った。
「了解」
それだけで十分だった。
そこから先の戦闘は、妙に鮮明だ。
右側から回る敵影にルークが先に気づき、俺が撃つ。
前へ出る怪物の足を俺が止め、ルークが頭を抜く。
後退の合図も、射線の取り方も、いちいち説明しなくても噛み合う。
さっきまでと何が違うのかと聞かれたら、たぶん俺の方だ。
今までは、使える兵として並んでいただけだった。
だがこの時、はっきり思った。
こいつになら背中を預けてもいい。
信じてもいい、とは少し違う。
もっと戦場の言葉だ。
けれど俺にとっては、それで十分重かった。
交戦が収束する頃には、線のあちこちが崩れかけていた。補助壁は裂け、監視塔は半壊し、通路には担架が行き来している。だが、それでも完全突破はされなかった。辛うじて持ちこたえたと言うべきだろう。
『現区画、迎撃成功。損耗率更新。医療班を優先接続します』
サポートの声が、やけに遠く聞こえた。
俺は呼吸を整えながら、隣を見る。
ルークは壁にもたれ、脇腹を押さえていた。
「死ぬなよ」
自分でも妙なことを言ったと思う。
ルークは少し笑う。
「ノアに心配される日が来るとは」
「してない」
「うんうん」
「軽口叩けるなら平気だな」
「まあ、たぶん」
顔色は悪いが、目は死んでいない。
医療班を呼ぶと、ルークは面倒くさそうにしながらも素直に応じた。
応急処置が終わり、ようやく休憩区画へ戻れたのはだいぶ後になってからだった。区画はいつも以上に静かだった。疲れ切った兵は、飯を食う時すら喋らない。
俺はいつもの壁際に座り、配給を受け取った。
しばらくして、ルークが来る。
動きは少し鈍いが、ちゃんと自分で歩いていた。
「座るな」
「えっ」
「傷口開くだろ」
「ノアが優しい」
「うるさい」
それでも結局、あいつは隣に座った。
しばらく無言だった。珍しい。
いや、たぶん俺の方が何を言うべきか分からなかっただけだ。
「さっきは」
先に口を開いたのは俺だった。
ルークがこっちを見る。
「助かった」
短く、それだけ言う。
ルークは何も返さず、少しだけ目を細めた。
それから笑う。
「どういたしまして」
いつもの軽い返しのはずなのに、妙に静かに聞こえた。
俺はパンをちぎり、煮込みに浸す。
ルークも同じように食べる。
何か特別な会話があったわけじゃない。
友情を確かめ合ったわけでもない。
相棒だとか、仲間だとか、そういう言葉も出なかった。
でも、あの瞬間のことを俺は忘れないと思った。
戦場で命を庇われる。
その意味は軽くない。
少なくとも俺にとっては、もう前みたいに“ただ隣にいるやつ”では済まなかった。
名前をつけるなら何になるのかは知らない。
知る必要もない。
ただひとつだけ、はっきりしていた。
次の戦場で、こいつが背中側にいるなら、俺はもう振り返らない。




