耳覆い
ルークの耳覆いに気づいたのは、たぶん最初の日からだ。
ただ、気に留めるほどじゃなかった。
この防衛線では、装備の癖なんていくらでもある。手袋を片方だけ二重にするやつ、喉元をやたら固めるやつ、視界補助を嫌って昔ながらの照準にこだわるやつ。死にたくないと思って身についた習慣は、だいたい理由があるし、いちいち他人が口を出すものでもない。
ルークの耳覆いも、そのひとつだと思っていた。
耳の上からぴったり押さえるような薄い防具で、通信具に見えなくもないが、正式支給品とは少し形が違う。装備点検で引っかかるほどでもない、しかし妙に目につく程度の差だった。
その日、俺たちは内側の補給通路を抜けて、外縁寄りの小規模監視塔へ向かっていた。
前日の交戦の影響で警戒が強まっており、単なる巡回でも人数が増やされている。通路には資材運搬用の台車が何台も行き交い、補修班が壊れた壁面の交換に追われていた。防衛線は、戦闘よりも修復している時間の方が長いんじゃないかと思うことがある。
「ノア、眠そう」
隣を歩くルークが言った。
「寝てないだけだ」
「それを眠そうって言うんだよ」
「お前は元気だな」
「元気そうに見せるのも仕事のうち」
軽口みたいに聞こえたが、妙にするっと耳に入った。
こいつはたぶん、ほんとにそう思ってるんだろう。
前線では、空気を軽くできるやつはそれだけで価値がある。無理に明るく振る舞うのがいいとは思わないが、張り詰めたまま壊れるやつも多い。ルークの軽さは、あいつ自身のためでもあり、周りのためでもあるのかもしれなかった。
監視塔へ着くと、交代要員から簡単な報告を受ける。敵影はなし。怪物反応もなし。風が強く、索敵装置の感度に少し乱れが出ているとのことだった。
『外周音響観測にノイズ。補正を推奨します』
サポートの声が端末から流れる。
俺は機器の数値を確認しながら、外の様子を見た。荒れた平野の向こうに崩れた施設群、その先に低い山影。静かだ。静かすぎる時は、だいたい何かがいる。
「ノア」
ルークが低く呼ぶ。
「なんだ」
「左の瓦礫帯。何か動いた」
俺は即座に視線を向ける。
だがその時点では何も見えない。
「見えない」
「今、隠れた」
そう言われて数秒後、ようやく金属片の陰に人影が滑り込むのが見えた。獣人国の偵察兵だった。距離がある。肉眼で先に拾うには微妙な位置だ。
「……よく見えたな」
「見えたっていうか、気配?」
曖昧な言い方だったが、ともかく報告は正しい。
監視塔の他の兵にも共有し、狙撃手が照準を合わせる。敵はこちらに気づいたらしく、すぐに引いた。小競り合いにもならなかったが、それで終わりじゃない。この線では、小さな動きの後に本命が来ることがある。
俺たちはその後も持ち場を変えながら警戒を続けた。
ルークは妙に気づくのが早かった。
通路の向こうの足音。
風に紛れた金属音。
遮蔽物の裏の擦れるような気配。
毎回、決定的に先回りというわけじゃない。だが、他の連中より半歩早い。その半歩が、前線じゃ効く。
「お前、耳いいのか」
昼に近い休憩で、俺は何気なく聞いた。
ルークは配給の水筒を傾けながら首をかしげる。
「んー、まあ普通よりは?」
「普通よりは、で済むか」
「だって実際そうだし」
答えになっているようでなっていない。
だが、深く聞くほどのことでもないかと思った。
異種混合の兵も珍しくはない。王国内では純人間の方が重宝される傾向はあるが、前線では使えるなら何でも使う。嗅覚がいいやつ、夜目が利くやつ、平衡感覚が異様に鋭いやつ。祝福は発現しにくいらしいが、そのぶん身体能力の偏りが実務で生きることはある。
ルークもそういう類かもしれない。
耳覆いに触れながら、あいつは笑う。
「これ? 気になる?」
「別に」
「ほんとかな」
その言い方に少しだけ棘があった気もしたが、すぐ消えた。
「昔からなんだよね。耳、弱くて」
「弱いようには見えない」
「敏感すぎるのも弱いって言うんだよ」
ルークはそう言って、指先で耳覆いの端を軽く押さえた。
癖なんだろう。会話の節目ごとに、たまにあそこへ触れる。
そこへ突然、警報が鳴った。
鋭い電子音が通路全体に響く。赤い警戒灯が点滅し、空気の色が一段階変わる。嫌いな色だ。反射的に胃が重くなる。
『外縁補助壁に接近反応。複数。迎撃準備』
サポートの声に合わせて、俺たちは即座に持ち場へ走った。
補助壁の向こう側で、敵影が散開している。数は多くないが、動きが細かい。牽制と観測を兼ねた揺さぶりだろう。こういう時に無理に追うと、本命に喰われる。
「三時方向、二」
ルークが言う。
俺は照準を向けて撃つ。敵が伏せる。
そこへ別方向からもう一つ。
「右低いとこ、今!」
そっちも撃つ。
倒れたか、隠れたかまでは見えない。
ルークの指示は短いが、無駄がない。方位と高さだけで十分通じる。何より、その声に迷いがなかった。
交戦は短時間で終わった。
本格侵攻ではない。試し撃ちみたいな接触だ。だが、こういう細い削り合いの積み重ねで線は疲弊していく。終わったあとが一番だるい。全身は緊張したままなのに、戦う理由だけが引いていくからだ。
壁にもたれて息を整えていると、ルークが横に来た。
「さっきの三時方向、助かった」
「お前が言ったんだろ」
「言っただけ。撃ったのはノア」
「それならお前も同じだ」
「褒め合い?」
「違う」
ルークは笑う。
近くで見ると、耳覆いの縁に細かい擦り傷が入っていた。支給品よりも柔らかそうな素材で、使い込まれている。耳を守るためのものなのか、隠すためのものなのか、見分けはつかない。
「それ、支給品じゃないだろ」
なんとなく口にした。
ルークは一瞬だけこっちを見る。
「よく分かったね」
「形が違う」
「もらいもの」
「誰に」
「家族」
その答えは予想外にすんなり出てきた。
家族。
ルークがそういう言葉を使うのを、初めて聞いた気がする。
「大事にしてるんだな」
俺がそう言うと、ルークは少しだけ黙った。
それから、いつもの軽さで肩をすくめる。
「まあね。失くすと怒られそうだし」
冗談めかした言い方だったが、その一拍の沈黙が妙に残った。
それ以上は聞かなかった。
聞く理由もない。
夕方の飯の時間、ルークはいつも通り俺の隣に座った。
区画は相変わらず騒がしく、疲れていて、飯は相変わらず大してうまくない。
「今日、ノア二回くらい俺のこと見てたよね」
「見てない」
「耳覆い気になってるでしょ」
「別に」
「ほんとに?」
「装備確認だ」
「はいはい」
それで終わる。
こいつは本当に、人が踏み込まれたくない線を見極めるのがうまい。だから鬱陶しいのに、嫌になりきらない。
飯の途中、区画の奥で誰かが落とした金属カップが床を転がった。甲高い音が響く。何人かが顔をしかめたが、ルークはそれより先に小さく身じろぎしていた。反応が早すぎる。
俺が見たことに気づいたのか、ルークは苦笑する。
「言ったでしょ、敏感なんだって」
「面倒そうだな」
「けっこうね。でも役立つこともある」
「今日みたいにか」
「そうそう。ノアが死なないくらいには」
軽く言うな、と言いかけてやめた。
たしかに助かっている。
それは否定できない。
耳がいい。
反応が早い。
戦場でも動ける。
飯の時間はうるさい。
それが今の俺の中のルークだった。
怪しいとは思わない。
ただ、便利で、少し変わっていて、妙に自然に隣へ居座っているやつ。
その認識が少しずつ固まっていく。
「ノア」
「なんだ」
「もし俺がいなかったら、今日ちょっと困ってた?」
「別に」
「即答早いなぁ」
「事実だ」
「でもゼロじゃないでしょ」
「……うるさい」
ルークは満足そうに笑った。
何がそんなに楽しいのかは分からない。
分からないが、その笑い声が休憩区画の空気に混ざるのも、もう少しだけ普通になっていた。




