飯
配給のパンは固い。
噛めば噛むほど味が出る、なんて気の利いたものじゃない。ただ固くて、喉を通りにくいだけだ。煮込みも似たようなもので、温かさがなければ罰みたいな食事だったと思う。けれど戦場では、温かいというだけで十分意味がある。腹が満ちるなら文句は言わない。
俺はいつも通り、休憩区画の端に座っていた。
人の出入りが多い場所は落ち着かない。中央付近は誰かの愚痴や雑談が嫌でも耳に入るし、呼ばれる確率も上がる。壁際ならまだましだ。背中側を気にしなくていいし、食い終わったらそのまま立てる。
今日の巡回任務は大きな異常なし。敵影も怪物も確認されなかった。だが異常がない日は、だいたい別のどこかで面倒が起きている。防衛線全体がそういう構造だった。静かな場所は、単に今はまだ静かなだけだ。
休憩区画の空気は重かった。
向こうの卓では、補給の遅れについて誰かがぼやいている。別の場所では、砲台区画で事故があったらしいという噂が小声で流れていた。誰も必要以上に声を張らない。元気がないわけじゃない。張る意味がないだけだ。
俺は黙ってパンをちぎり、煮込みに浸した。
ひとりで飯を食うのは楽だ。
会話を選ばなくていい。
相槌を打たなくていい。
誰かの機嫌に付き合わなくていい。
こういう場所では、妙な連帯感を欲しがるやつがいる。仲間意識だの、同じ釜の飯だの、そういう言葉が好きなやつだ。否定はしない。そういうもので保てる心もあるのだろう。だが俺には要らない。明日には死ぬかもしれない相手に、わざわざ何かを預ける気にもなれなかった。
煮込みを飲み込んだところで、声がした。
「やぁ、元気? 任務おつかれ〜」
軽い声だった。
軽すぎて、一瞬、自分に向けられたものだと思わなかった。戦場では珍しい声色だ。緊張感がないという意味じゃない。ただ、重さに飲まれていない。そういう話し方をするやつは、ここではあまり多くない。
顔を上げると、知らない兵が立っていた。
年は俺とそう変わらないように見える。少し明るい色の髪。身なりは王国兵の規格に合っているが、どこか着崩しているような気配があった。だらしないわけではなく、緊張の中で一人だけ肩の力を抜いている感じだ。
そいつは俺の返事を待たず、向かいではなく隣に腰を下ろした。
「そこ、空いてたからさ」
俺は答えなかった。
空いている席はいくらでもある。わざわざここに来る理由はない。だが、そういうことを説明するのも面倒だった。追い払ったところで、こっちに何の得もない。
俺が無視を決め込むと、そいつは気にした様子もなく自分の食事を広げた。
「今日の巡回どうだった? 平和?」
平和、という言い方に少しだけ違和感を覚える。
この防衛線で使うには軽い言葉だ。
「普通だ」
必要最低限だけ返す。
「へえ、いいなぁ。こっちは朝から怪物の残骸処理だよ。あれ最悪。臭いし、重いし、なんか触りたくない感じがすごい」
俺はまた黙った。
軽口を叩くやつは珍しくない。珍しくないが、初対面でここまで間を埋めに来るやつは少ない。たいていはこっちの反応が悪ければ引くものだ。だがこいつはまるで気にしていない。会話が成立しているかどうかより、自分がここにいることの方が自然だと思っているようだった。
「そういえば、あんた、いつも一人で食ってるよね」
よく見ているな、と思ったが、口には出さない。
「別にいいでしょ。静かで」
「それはそう」
あっさり同意されて、少しだけ拍子抜けした。
「でもずっと一人だと、たまに逆に疲れない? 俺は無理だなぁ。黙って食うのって、食事じゃなくて補給って感じするし」
実際そうだろう、と俺は思った。
戦場の飯はだいたい補給だ。
「補給だろ」
俺が言うと、そいつは少し笑った。
「うわ、ちゃんと返してくれた」
その言い方が妙に馴れ馴れしくて、少しだけ苛立つ。だが本気で腹が立つほどではない。むしろ、そこまで気安いのに嫌味がないのが妙だった。
「名前、聞いていい?」
「嫌だ」
「即答だ」
そいつはまた笑う。
俺はパンをちぎる手を止めなかった。
「じゃあ俺から名乗っとくよ。ルーク」
返事はしなかった。興味がない。
「で、無愛想なあんたは?」
「……ノア」
「お、言ってくれた」
言うつもりはなかった。ただ、いつまでも粘られる方が面倒だっただけだ。
ルークは上機嫌に煮込みを口へ運んでいた。食べ方は雑ではない。周囲をよく見ている感じもある。なんというか、気を抜いているように見せるのがうまい。緊張していないわけではないのだろう。ただ、それを表に出さないだけだ。
「ノアって、もっと喋らないの?」
「必要なら」
「俺、必要な相手じゃない?」
「今のところは」
「ひど」
そう言いながら、全然傷ついていない声だった。
周囲では誰かが立ち上がり、誰かが入ってきて、また別の誰かが補給箱を運んでいた。騒がしいわけじゃないが、常に何かが動いている。その中でルークだけが、妙にこの場に馴染んでいるように見える。悪目立ちではない。むしろ、居方が自然だ。だから追い払う理由も薄い。
「ノア、顔怖いって言われない?」
「言われる」
「だよね」
「……お前は初対面でよくそこまで喋れるな」
気づけば、そんなことを口にしていた。
ルークは少しだけ肩をすくめる。
「喋んないと気が滅入るから」
その返しは、思ったより真面目だった。
けれど次の瞬間には、また軽い調子に戻る。
「あと、どうせ同じ隊列で動くかもしれないし。無言で背中に立たれるより、少し顔見知りの方がよくない?」
それは一理あった。戦場では、知らない味方より、少し知っている味方の方が扱いやすい。だからといって仲良くする気はないが、理屈としては分かる。
「別に」
「そういうとこだよ」
ルークは笑った。
俺は煮込みを飲み干し、空になった器を卓に置く。そろそろ休憩時間も終わる。立つ準備をしていると、ルークが横目でこっちを見た。
「また明日も一人で食うの?」
「多分な」
「そっか」
そこで初めて、少しだけ間が空いた。
ああ、ようやく終わるかと思った矢先、ルークはあっさり言った。
「じゃあまた隣来るわ」
俺は顔をしかめた。
「勝手にしろ」
「うん、勝手にする」
本当にそのつもりらしかった。
俺は席を立ち、食器を返却口へ持っていく。背中にルークの視線がある気がしたが、振り返らなかった。どうせ次の休憩には別の場所にいるかもしれないし、任務の組み替えでしばらく会わないこともある。戦場の人間関係なんて、その程度のものだ。
そう思っていた。
区画を出る直前、後ろからルークの声が飛んできた。
「ノアー。次はもうちょっと愛想よくしてよ」
俺は足を止めずに答える。
「期待するな」
「じゃあ期待しないで話しかける!」
意味が分からない。
だが、振り返るほどでもなかった。
休憩区画の外へ出ると、通路の照明は白く、壁の警戒表示だけが鈍い赤で明滅していた。あの色は相変わらず好きになれない。血だの火だの警報だの、ろくでもないものばかり連れてくる色だ。
それでもさっきまでより少しだけ、区画の中の空気が耳に残っていた。
うるさいやつだった。
軽いし、馴れ馴れしいし、初対面の距離感じゃない。
だが不思議と、ひどく嫌なわけでもなかった。
いや、違うな。
ただ追い払うのが面倒だっただけだ。
俺はそう結論づけて、次の持ち場へ向かった。




