川辺
退院の日の空気は、病院へ来た日のそれよりずっと軽かった。
もちろん体はまだ本調子じゃないし、気をつけることも多い。包帯も、今この場で全部自由に外していいわけじゃない。でも、病院の外へ出るというだけで、世界がひとつ先へ進む感じがあった。
父さんと母さんが迎えに来てくれて、荷物をまとめて、先生から最後の説明を受ける。
「無理はしないこと。違和感があればすぐ連絡してください」
その言葉に、僕は素直にうなずいた。違和感はたしかにある。味も、匂いも、触った感じも、音も、少しずつ前とは違っている。でも、それを全部押し流すくらい、今はひとつのことしか頭になかった。
川辺へ行く。
父さんが話してくれた、あの場所へ。
病院を出たあと、車に乗せられて移動した。窓の外がどうなっているのかはまだ見えない。でも、外気の匂いは病院の中と違っていた。もっと広くて、少し乾いていて、季節の気配が混ざっている。以前より薄いとはいえ、それでも外の空気だと分かるだけで胸が高鳴った。
「もう少しだよ」
父さんが言う。
「うん」
僕は短く答える。
落ち着いているように聞こえたかもしれないけれど、胸の中はずっと騒がしかった。
ようやく車が止まって、外へ出る。
足元は舗装された道らしかった。靴の裏に伝わる硬さが、病院の床とは少し違う。風が頬に当たる。開けた場所だとすぐに分かった。遠くまで遮るものが少ないときの風の流れ方だった。
それから、水の気配がした。
匂いは前より淡い。
でも、分かる。
すぐ近くに川がある。
「ここだよ」
父さんの声が、少しだけ弾んでいた。
「父さんが、よく話してくれた場所」
「そう」
「母さんもいる?」
「いるわよ」
母さんの声がすぐそばで返る。
その声だけで、少しだけ安心した。
僕は立ったまま、包帯の上からそっと目元に触れた。
ここまで来た。
本当に、ここまで来たのだ。
「自分で外す?」
父さんが聞く。
「うん」
そう答えると、指先が少し震えているのが分かった。
怖い。
嬉しい。
期待している。
もし違ったらどうしようとも思う。
その全部が同時にあって、うまく息ができない。
でも、僕はゆっくりと包帯に手をかけた。
巻きついた布を、慎重にほどいていく。
空気が目のまわりに触れる。
光が、まだ何かの形になる前の段階で、先にそこへ来る感じがした。
最後のひと巻きを外す。
僕は、目を開けた。
世界があった。
最初にそう思った。
ちゃんと、あった。
広がりがある。
手前と奥がある。
水が流れていて、その向こうに橋があり、建物が並んでいる。
空もある。
高くて、遠くて、僕の知らなかった“上”がそこにずっと続いている。
「……あ」
声が漏れる。
見えている。
見えているのだ。
父さんの話してくれた川辺が、本当に目の前にある。
水面は揺れていた。
橋の影も落ちていた。
建物も、道も、手すりも、全部そこにある。
僕は呆然としながら、それを受け取った。
夢じゃない。
白い天井のときとは違う。
もっとたくさんのものがある。
世界が、ちゃんと広い。
「どう?」
父さんが聞いた。
たぶんすごく緊張した声だったと思う。
でもそのときの僕は、すぐには答えられなかった。
きれいだった。
きれいなはずだった。
なのに、何かが少しだけ引っかかる。
違和感。
最初はそれだけだった。
見えている。
ちゃんと見えている。
でも、思っていたものと何かが違う。
父さんの話してくれた灯り。
母さんの言っていた空。
IRISが見せてくれた静かな景色。
それらと目の前の川辺は、どこか決定的に噛み合っていない気がした。
何が違うんだろう。
僕は瞬きをした。
水面を見る。
橋を見る。
空を見る。
父さんと母さんの方へも、ぎこちなく顔を向ける。
二人の顔が、そこにあった。
僕は息を止めた。
はじめて見る父さんと母さんの顔。
声や手の感触から想像していたものと、違うところもあった。違うのに、不思議とすぐ分かった。ああ、この人たちが父さんと母さんなんだと、ひどく自然に思えた。
嬉しかった。
本当なら、そこで泣いてもよかったのかもしれない。
でも、その嬉しさのすぐ後ろで、違和感が急にはっきりした形を取り始めた。
色が、ない。
その理解は、一瞬では来なかった。
来なかったからこそ、余計に残酷だった。
最初は、空気が冷たいだけかと思った。
次に、まだ目が慣れていないのだと思った。
それから、光の加減かもしれないと思った。
けれど、違った。
水も、橋も、建物も、空も。
父さんの顔も、母さんの顔も。
全部が、濃淡だけでできていた。
白と黒、そのあいだに無数の灰色がある。
世界はたしかに見えている。
でも、そこには母さんが語ってくれた“静かな色”も、父さんが言った“あたたかい灯り”も、どこにもなかった。
僕はそこで初めて、本当に理解した。
世界は、モノクロだった。
「……え」
喉から出た声は、ひどくかすれていた。
「ハク?」
母さんが不安そうに呼ぶ。
僕は答えられない。
見えている。
見えているのに。
見えた先の世界は、僕がずっと信じていたものより、あまりにも静かで、あまりにも少なかった。
しかも、その瞬間になって、ほかの感覚の薄さまで一気に押し寄せてきた。
風の匂いが、弱い。
川の水気も、昔思っていたよりずっと遠い。
手すりに触れた指先の冷たさは分かるのに、その質感は薄い。
遠くの音も、以前ならもっと豊かだったはずの層を失っている。
見えるようになった。
その代わりに、今まで僕の世界を支えていたものが、少しずつほどけていた。
その事実が、目の前のモノクロの川辺とひとつになって、僕の中へ落ちてくる。
願いは叶ったのだ。
でも、僕が欲しかったのは、こんなふうに乏しくなった世界だっただろうか。
父さんが何か言った。
母さんも僕の名を呼んだ。
でも、すぐには頭に入らなかった。
ただ、胸の奥にぽっかりと穴が空くみたいだった。
IRISが見せてくれた景色を思い出す。
あの水面。
あの空。
あの、あまりにも整いすぎた静けさ。
あれは理想だった。
僕が望んだ像だった。
現実は、それよりずっと痩せていた。
いや、現実が痩せているのではない。
痩せたのは、僕の方かもしれない。
色を受け取れない目。
少しずつ薄れていく嗅覚、触覚、味覚、聴覚。
見ることを得る代わりに、感じることの豊かさを落としていく自分。
僕は、その場で立ち尽くした。
「ハク、大丈夫?」
母さんの声が近い。
父さんの手が肩に触れる。
その手の重さは分かる。
でも、昔より少し遠い。
どうして。
そう言いたかったのかもしれない。
でも誰に向けてなのか、自分でも分からなかった。
先生に?
世界に?
自分に?
それとも。
僕は、かすれた声でひとつだけ名前を呼んだ。
「アイリス」
応答はなかった。
風が吹く。
川が流れる。
父さんと母さんが、すぐそばにいる。
見える。
ちゃんと見える。
それなのに、世界はどこまでも遠かった。
そして少年は笑えなくなった。




