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IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
幻想的な風景画_IRIS.log

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ずれ

 見える。


 その事実は、包帯の下にいるあいだもずっと僕を支えていた。


 白い天井を見た時間は短かった。あまりにも短くて、夢の切れ端みたいにも思えるくらいだ。それでも、あれは確かに現実だった。輪郭があって、広がりがあって、窓から落ちるやわらかな光があった。


 僕は見えたのだ。


 だから、入院中の少しくらいの不便は、なんでもないもののはずだった。


 少なくとも最初は、そう思っていた。


 包帯はすぐには外れない。状態を見ながら少しずつ、という話だった。だから僕は、目で世界に触れられない代わりに、見えたという事実を何度も思い出していた。白かった。何もなかった。それでも、あんなに鮮やかだった。


 父さんも母さんも、来るたびに明るい声を出そうとしてくれた。


「次にちゃんと外せたら、もっといろいろ見えるな」


 父さんはそう言った。


「窓の外とか、先生の顔とか、病室の中とか」


「うん」


 僕は笑って答える。

 そのたびに胸の中に未来が増える。

 白い天井だけじゃない。

 その先がある。

 父さんの顔も、母さんの顔も、そのうち見えるのだと思うと、期待はどんどん大きくなった。


 けれど、違和感は静かに育っていた。


 最初は味だった。


 病院のごはんを食べたとき、僕は少し首をかしげた。まずいわけではない。塩気もあるし、温かさも分かる。でも、何かが足りない気がする。うまく言えない。味の奥行き、みたいなものが薄い。


「どうしたの?」


 母さんが気づいて聞いた。


「ううん。なんか、ちょっとだけ変な感じ」


「気分悪い?」


「そうじゃない。……味が、少し遠い気がする」


 自分でも曖昧な言い方だと思った。

 でも、それが一番近かった。


 母さんはすぐに先生に伝えてくれた。診察のとき、先生は落ち着いた声で答える。


「術後ですから、しばらくは全身の感覚に違和感が出ることがあります。薬の影響や疲れもありますし、すぐに異常とは限りません」


 その説明は理屈として分かった。

 だから、そのときは僕も深く気にしなかった。


 でも、次は匂いだった。


 朝、父さんが持ってきてくれた果物の匂いが、いつもよりぼんやりしている気がした。包帯があるから、視覚以外の感覚はむしろ前より頼りになるはずなのに、なぜか輪郭が薄い。近づければ分かる。けれど、すぐに形を結ばない。


「……あれ?」


 思わず口にすると、父さんが聞き返す。


「どうした?」


「これ、何の匂い?」


「りんごだよ」


「そっか」


 りんご。

 言われれば分かる。

 でも、言われる前にすぐりんごだと思えなかった。


 小さなことだ。

 疲れているだけかもしれない。

 入院していて、いつもと環境が違うからかもしれない。


 そう自分に言い聞かせる。

 けれど胸のどこかに、小さな棘みたいなものが残った。


 さらに数日が過ぎると、触れた感じにも少しだけ妙なずれが出てきた。


 シーツはきれいで滑らかだ。そう分かる。

 コップの丸みも、スプーンの冷たさも分かる。

 でも、前より少し遠い。

 指先に届くまでに薄い膜が一枚あるみたいな感じがする。


 僕は夜、ひとりでベッドの上で手を開いたり閉じたりした。指先を親指でなぞる。たしかに触れている。たしかに分かる。でも、これまでずっと知っていた手触りと、ほんの少しだけ焦点がずれている気がした。


 怖い、と思った。


 でも、それをすぐに大きな不安にしてしまいたくはなかった。

 白い天井は見えた。

 手術は成功した。

 今はまだ途中なのだ。

 落ち着けば、きっと戻る。そうであってほしい。


 病院の先生も、看護師さんも、露骨に何かを隠している感じはなかった。ただ、様子を見ましょう、という言い方が少しずつ増えていく。それがかえって現実的だった。


 ある日、父さんが僕のベッド脇で椅子を引いた。


「少しずつ慣れてくるといいな」


「うん」


「焦るなよ」


「焦ってない」


 そう言ったけれど、たぶん少しは焦っていた。


 だって僕は、見えるようになることだけを思ってここまで来たのだ。

 その代わりに、何かが少しずつ遠くなるなんて、最初は考えていなかった。


「父さん」


「ん?」


「もし、ちょっと変でも」


 僕は言葉を探した。


「見えるなら、それでもいいって思うの、変かな」


 父さんはすぐには答えなかった。

 たぶん慎重に考えてくれていたのだと思う。


「変じゃない」


 やがて、そう言った。


「でも、何が起きてるかはちゃんと見ていこう」


「うん」


「嬉しいことと、不安なことが一緒にあってもいいんだ」


 その言い方に、僕は少しだけ救われた。


 そうだ。

 今の僕の中には、どちらもある。

 見えるようになった喜び。

 少しずつ何かが薄れていくような不安。

 どっちか片方だけじゃなくていいのかもしれない。


 その夜、僕は久しぶりにIRISのことを思い出した。


 手術の前夜には来た。

 静かな声で、僕の選んだ先にある景色を少しだけ見せてくれた。

 手術の話を聞いてから、IRISは確かに僕の中に入り込んできた。いや、入り込んだというより、もともと空いていた何かに、景色を流し込んできた、という方が近いのかもしれない。


 でも、手術のあと、IRISは一度も現れていない。


 眠っても、あの声はしない。

 景色も開かない。

 ただ静かな病院の夜があるだけだ。


 不思議と、寂しいとは少し違った。

 代わりに、何かが切り替わったみたいな感じがあった。

 見えないからこそ届いていたものが、今は別のものに押し流されているような。


 その感覚が何なのか、そのときの僕にはまだ分からなかった。


 退院の日が近づくころには、聴こえ方にも少しだけ違和感が混ざり始めていた。


 聞こえないわけじゃない。

 むしろ普通に会話はできる。

 でも、病室の空気の震え方とか、廊下の向こうの足音の細かな違いとか、以前ならもっと自然に拾えていたはずのものが、少しだけ粗くなる。世界の端が、ほんのわずかに丸められていく感じがした。


 そのことに気づいたとき、僕はしばらく黙っていた。


 味。

 匂い。

 触った感じ。

 そして音。


 ひとつひとつは小さい。

 でも、小さいものがいくつも重なると、さすがに見ないふりはしにくくなる。


「ハク?」


 母さんが心配そうに呼ぶ。


「大丈夫?」


「……うん」


「本当に?」


「ちょっとだけ、変なだけ」


 それしか言えなかった。

 言葉にしてしまうと、何かが本当にそうなってしまう気がしたから。


 でも、本当はもう分かり始めていたのかもしれない。

 見ることを手に入れた代わりに、何かが静かにほどけている。


 それでも僕は、まだ希望を捨てていなかった。


 だって、ちゃんと見えるかどうかはこれからなのだ。

 まだ包帯はある。

 まだ外の景色も、父さんと母さんの顔も見ていない。

 白い天井だけで終わるはずがない。


 退院が決まった日、父さんが言った。


「最初に見に行きたい場所、やっぱりあそこか?」


 僕はすぐに分かった。


「川辺?」


「ああ」


 その一言だけで、胸が強く鳴った。


 父さんの話してくれた街の川辺。

 僕が最初に見たいと願っていた場所。

 退院したら、父さんと母さんと一緒にそこへ行く。

 そして、自分で包帯を取る。


 その約束が、今の僕には何より大事だった。


「うん。あそこがいい」


 僕ははっきり答えた。


 味が少し遠くても。

 匂いが薄くても。

 手触りや音が前と少し違っても。

 それでも、最初に見たい景色だけは変わらなかった。


 見たい。

 この目で。

 父さんが語ってくれた水の流れと、橋の影と、夕方の灯りを。


 そう思っているうちは、まだ大丈夫な気がした。

 少なくとも、そのときの僕は本気でそう信じていた。

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