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IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
幻想的な風景画_IRIS.log

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 病院は、思っていたより静かな場所だった。


 もちろん無音ではない。足音もあるし、遠くで台車の車輪が鳴る音もするし、ときどき機械の電子音も聞こえる。でも、家や学校の音とは違っていた。全部が少しだけ抑えられていて、必要以上に大きくならない。人がたくさんいるはずなのに、みんな声をひそめているような感じがある。


 僕はその静けさの中で、妙に落ち着かなかった。


 入院の手続きをして、部屋へ案内されて、荷物を整理して、看護師さんからいろいろ説明を受けた。優しい声の人だった。手術の前後のことや、今日はしっかり休むこと、食事や消灯の時間のことを丁寧に話してくれる。そのひとつひとつを聞いているうちに、だんだん実感が強くなっていく。


 ああ、本当にここまで来たんだなと思った。


 父さんも母さんも、できるだけ普段どおりにしていた。父さんは必要な確認をひとつずつ聞いて、母さんは持ってきた着替えや身の回りのものを整えてくれた。僕も明るくしていようと思っていたけれど、部屋に二人の気配があるだけで、なんだか少し心細くなる。


 子どもっぽいなと思う。

 でも、こういうときに強がっても仕方がない。


「大丈夫そうか?」


 父さんが聞く。


「うん」


 僕は答えた。半分ほんとで、半分はそう答えるしかないからだった。


「何かあったらすぐ呼ぶのよ」


 母さんが言う。


「分かってる」


 そう返しながら、僕は二人の声をできるだけ覚えておこうとしていた。

 少し低い父さんの声。

 やわらかいけれど芯のある母さんの声。

 見えるようになったあとも、きっとこの声で二人を見つけるのだろうと思った。


 その日の夜は、結局あまり眠れなかった。


 病院のベッドは家の布団と違って、きれいに整いすぎている。寝返りを打つたび、シーツの張った音がする。廊下を行き来する足音や、どこかの部屋で小さく鳴る機械音が、夜になるとかえってはっきり聞こえた。


 怖い、と思う。

 でもその“怖い”は、前より少し形が変わっていた。


 ここまで来たのだ。

 もう、ただの想像ではない。

 明日になれば、僕は手術を受ける。


 そう考えているうちに、いつの間にか少し眠っていたらしい。次に意識がはっきりしたのは朝で、病院の空気が夜より少しだけ動いているのが分かった。遠くで誰かが話す声。カーテンの擦れる音。朝の配膳の気配。


 手術の日だった。


 そこからは、時間が妙に細切れになった。


 看護師さんに声をかけられて、準備をして、確認をされて、父さんと母さんが来て、また話をして。それぞれの場面は覚えているのに、全部が少しずつ浮いている。自分のことなのに、自分が中心にいないみたいな感じがあった。


「緊張してる?」


 看護師さんが明るく聞く。


「してます」


「それはそうよね」


 少し笑いながら言ってくれる声に、僕も少しだけ笑った。


 そのあと、父さんが僕の肩に手を置いた。


「終わったら、また話そうな」


「うん」


 母さんは何も言わずに、僕の前髪を少しだけ整えてくれた。いつもの癖だ。見えない僕には必要ないはずなのに、母さんはよくそうする。その指先が少しだけ震えていて、僕は胸の奥がきゅっとした。


「行ってくる」


 そう言うと、母さんはやっと小さく答えた。


「いってらっしゃい」


 その一言が、ものすごく遠くまで届く気がした。


 手術室までの移動のことは、あまり細かく覚えていない。ベッドか車椅子か、どちらだっただろう。ただ、通路の空気が少しひんやりしていて、音が広がりやすい場所へ移動していく感じがあった。扉が開く音。閉じる音。人の声。機械の気配。


 それから先は、もう本当に曖昧だ。


 声をかけられて、何かを確認して、意識が少しずつ沈んでいく。眠りに落ちるのとは違う。底の方へ静かに引かれていくみたいだった。


 次に目が覚めたとき、僕はもう手術のあとだった。


 最初は、自分がどこにいるのかがすぐには分からなかった。体が重い。喉が少し乾いている。空気に消毒の匂いがある。どこかで機械が規則的に鳴っていて、その一定さが逆に現実感を薄くしていた。


「ハクくん、分かる?」


 看護師さんの声がした。


 僕は少し遅れてうなずく。


「手術、終わりましたよ」


 その言葉が届くまで、数秒かかった気がする。

 終わった。

 つまり、越えたのだ。


「今はまだ安静ね。目のまわりもそのままにしておくから、無理しないで」


 僕はまたうなずいた。


 目のあたりには包帯があった。重たいわけではないけれど、はっきりと“覆われている”感じがする。見えない僕にとっても、それはいつもと違う感覚だった。見えないのに、さらに閉ざされているみたいな、少し不思議な感じ。


 父さんと母さんの声も、そのあとで聞いた。


「ハク」


「起きてる?」


 二人とも、できるだけ落ち着いて話していた。でも、その落ち着きの下に何かが張りつめているのが分かる。


「終わったよ」


 僕がそう言うと、父さんが短く息を吐いた。たぶん、ようやく本当に終わったと実感したのだと思う。


「よく頑張った」


 母さんの声は少しだけ掠れていた。


 その日はほとんど眠ったり起きたりの繰り返しだった。

 時間の感覚もあいまいで、気づくと誰かがいて、またいなくなって、薬の匂いと白いシーツの感触だけが残る。


 その中で、最初に違和感を覚えたのは味だった。


 水を少し飲ませてもらったとき、冷たさは分かるのに、いつもの水より輪郭が薄い気がした。気のせいかもしれないと思った。手術のあとで、体がまだぼんやりしているのだろうと。実際、その程度の違いだった。気にするほどでもない。でも、少しだけ心に引っかかる。


 次の日も、また似たような時間が続いた。


 安静にして、様子を見て、少しずつ確認をしていく。包帯はまだ外せない。焦れていないと言えば嘘になるけれど、ここまで来ると逆に静かだった。見えるかもしれない、という期待はまだちゃんと胸にある。でも、それを今ここでじたばた確かめても仕方がない。


 そう思っていた。


 だから、包帯を一度外しますと言われたとき、心臓が跳ねた。


「長くは外せません」


 医師の先生が説明する。


「状態の確認をしたら、またすぐに巻き直します。まだ無理はできないので」


「……はい」


 声がうまく出なかった。


 見えるかもしれない。

 今、この瞬間に。


 手が少し震えたのが、自分でも分かった。看護師さんが「大丈夫ですよ」と言ってくれたけれど、大丈夫かどうかなんて自分でも分からない。ただ、胸の中がひどくうるさかった。


 包帯がゆっくりほどかれていく。


 空気が目のまわりに触れる感じがした。

 今まで覆われていた場所が、少しだけ軽くなる。

 でも、まだ何もない。

 何も――。


 次の瞬間、そこに白があった。


 白、というのが正しいのだと思う。

 何も描かれていない、ただ広がっているだけの白。

 けれどその“ただそれだけ”のものが、信じられないくらい鮮明だった。


 天井だった。


 あとでそう知識として思うのではなく、そのときもう“上にある平らなもの”として分かった。輪郭がある。広がりがある。そこに窓からのやわらかい光みたいなものが静かに落ちている。


 ぼやけていない。

 逃げていかない。

 ちゃんと、そこにある。


「……っ」


 息が詰まった。


 見えている。


 その事実が、何より先に胸へ飛び込んできた。

 白い。

 何もない。

 ただの天井。

 それなのに、その何もなさがあまりにも鮮烈で、僕は一瞬、自分が泣いていることに気づかなかった。


「見えてる……」


 声にしたつもりだった。でも、ちゃんと音になっていたか分からない。


「はい。見えていますよ」


 誰かがそう答えてくれた。


 父さんと母さんも近くにいたはずだ。でもそのときの僕には、もう白しかなかった。白い天井。そこへ落ちるやわらかな明るさ。世界はこんなふうに“ある”のだと、初めて知った。


 涙が頬を流れていく。


 嬉しかった。

 ただ、嬉しかった。

 父さんの話した川辺でも、母さんの描いた空でもない。

 病院の、なんでもない白い天井。

 それでも僕にとっては、はじめて自分の目で触れた世界だった。


「よかった……」


 母さんの声が、どこかで震えていた。


「本当に……」


 父さんは最後まで言葉にならなかったのかもしれない。短い息だけが聞こえた。


 でも、十分だった。


 見えた。

 たしかに見えた。

 この目で。


 しばらくして、包帯はまた巻き直された。白は消えた。けれど今度の暗さは、前と同じ暗さではなかった。さっきまで確かに白があったことを、僕は知っている。世界が存在していることを、自分の目で一度触れてしまった。


 その事実だけで、胸の中はいっぱいだった。


 ベッドに戻ってからも、僕はしばらく泣いていた。悲しいわけじゃない。ただ、どうしても涙が止まらなかった。


 見える。

 見えるようになった。


 まだ自由には見られない。

 包帯もある。

 安静にしなければならない。

 それでも、もう十分だった。


 真っ白な天井だけで、僕は救われた気がした。

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