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IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
幻想的な風景画_IRIS.log

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前夜

 入院が決まってから、時間は急に形を持ち始めた。


 それまでは“いつか”の話だったものが、日付を持ち、準備を持ち、持ち物の確認や書類の記入や、学校への連絡を持つようになる。そうなると、不思議なくらい後戻りのできない感じが出る。未来が急に近くなる。触れられそうなくらい近いのに、まだ届かない場所へ押し出されていくみたいだった。


 家の中でも、その変化ははっきり分かった。


 父さんは電話が増えた。病院とのやりとりだけじゃなく、仕事の相手とも何度も話していた。いつもより低い声で、言葉の間を慎重につないでいく。母さんも仕事部屋にいる時間が長くなった。けれど絵を描いているときの集中した静けさとは少し違う。考えごとをしながら、ひとつひとつ身の回りのものを整えているような気配だった。


 そして僕は、その全部の中心に自分がいることを、嫌でも意識した。


 自分で選んだことだ。

 そう言い聞かせるたび、少しだけ胸が痛む。

 でも、選ばなかった自分を想像すると、そちらの方がもっと苦しい気がした。


 学校では、担任の先生が思っていたより明るい声で送り出してくれた。


「うまくいくといいな」


 その言葉に、僕はちゃんと笑って答えた。

 クラスメイトたちも、心配してくれる子もいれば、よく分かっていないまま「見えるようになったらすごいじゃん」と言う子もいた。どっちも悪くなかった。僕が選んだ未来を、自分以外の誰かも少しだけ現実のものとして扱ってくれるのが不思議だった。


 帰り道、僕はいつもよりゆっくり歩いた。


 舗道の端をなぞる足裏の感触。遠くの車の流れる音。夕方に近づくにつれて少しずつ冷えていく空気。もしかしたら、これまで自分を支えてきたこういうものの感じ方が、これから少し変わるのかもしれない。そう思うと、なんでもない帰り道まで急に大事なものみたいに思えてきた。


 入院前夜、家にはあまり大きな音がなかった。


 夕食はいつもより少しだけ豪華だった気がする。僕の好きなものが多かったからだ。母さんは「たまたま」と言っていたけれど、たぶん違う。父さんも何も言わなかったけれど、スープをよそう手がいつもより丁寧だった。


 明るくしていようとしているのが分かる。

 僕もそうしようと思った。


「病院のごはんって、おいしいのかな」


 僕がわざと軽い調子で聞くと、父さんが笑った。


「期待しすぎない方がいい」


「そんなに?」


「病院によるだろうけどな」


「じゃあ、帰ってきたら母さんのごはんいっぱい食べたい」


「手術前日に言うことじゃないわね」


 そう言いながら、母さんも笑っていた。


 その笑い声を聞いて、少しだけ安心する。

 僕たちはまだ、ちゃんといつもの家族でいられている。


 食事のあと、父さんが言った。


「明日は朝早いから、今日は早めに休めよ」


「うん」


「眠れなくても、横になってるだけで違う」


「分かってる」


 そう答えたけれど、たぶん父さんも母さんも、僕がそう簡単に眠れないだろうと分かっていたと思う。実際、その夜の布団はいつもより少し広く感じた。部屋は静かで、家の音も少なくて、自分の呼吸だけが妙にはっきり聞こえる。


 怖い。


 その一言にすると簡単だけれど、実際はもう少し複雑だった。

 失敗するかもしれない。

 見えないままかもしれない。

 あるいは見えるようになっても、何かが変わってしまうかもしれない。

 でもそれでも、やっぱり見たい。


 怖さと希望が、同じ場所でぎゅうぎゅうに押し合っている。

 どちらか一方だけなら、もっと楽だったのかもしれない。


「眠れないの?」


 不意に、声がした。


 僕は飛び起きかけて、でもその必要がないことをすぐに思い出す。

 この声は知っている。


「IRIS」


 その名を口にすると、部屋の静けさが少しだけ変わる。実際に空気が動いたわけではないのに、何かが近くに“いる”という感じだけが、はっきり生まれる。


「緊張しているみたい」


「そりゃするよ」


「そうだろうね」


 IRISの声は相変わらず静かだった。慰めるようでもなく、面白がるようでもなく、ただ僕の状態を確認しているみたいな言い方だ。それなのに、なぜか話しかけやすい。たぶん余計な感情が乗っていないからだと思う。押しつけてこない。だからこそ、こちらの中身だけが浮かび上がる。


「逃げたくなった?」


「……少しだけ」


 嘘をついても仕方がない気がして、僕は正直に言った。


「でも、やめたいわけじゃない」


「知ってる」


 その答えに、僕は少しだけ笑った。

 知ってる、という言い方が妙に似合う声だった。


「ねえ、IRIS」


「なに」


「もし失敗したら、って考えるんだ。見えなかったらどうしようとか、変になったらどうしようとか」


「うん」


「でも、成功したら、って考えると、それはそれで怖い」


「どうして?」


 僕は少しだけ考えた。


「今のままじゃなくなるから、かな」


 言葉にしてみると、思っていたよりしっくりきた。


「見えないままの世界を、僕はちゃんと知ってる。音とか、匂いとか、手触りとか。これで生きてきたし、これが僕の普通だった。でも、見えるようになるって、その普通が変わるってことだろ」


「そうだね」


「それが嬉しいはずなのに、ちょっと怖い」


 IRISはしばらく黙っていた。

 その沈黙は、考えているというより、僕の言葉が落ちるのを待っているみたいだった。


「あなたは、なくなることが怖いんだ」


「なくなる?」


「今までの感じ方とか、選ばなかった方の自分とか」


 僕は答えられなかった。

 図星だったからだ。


 見たい。

 でも、見えるようになることで、今の自分が少しずつどこかへ行ってしまう気もする。

 見えないままでも笑っていられた僕。

 音や匂いで世界をつくってきた僕。

 そういうものが、明日から先で薄くなってしまうのかもしれない。


「なくなるのは嫌?」


「……嫌、なんだと思う」


「それでも選んだ」


「うん」


「なら、それでいいんじゃない」


 あっさりした答えだった。

 でも不思議と、その軽さに救われた。


 誰かに“絶対大丈夫”と言われるより、ずっと楽だった。

 なくなるかもしれない。

 怖い。

 でも選んだ。

 その事実だけをそのまま置いてくれる方が、今の僕にはちょうどよかった。


「見せてあげようか」


 IRISが言った。


「なにを?」


「あなたが選んだ先にある景色の、少しだけ近いもの」


 僕は一瞬ためらった。

 またあの景色を見たら、もっと戻れなくなる気がしたからだ。

 けれど、もう今さらかもしれない、とも思った。


「……見たい」


「そう」


 声が少し遠くなる。いや、遠くなるというより、僕のまわりの方がほどけていく感じだった。布団の感触が薄くなって、部屋の空気が静かに消えていく。


 そして、また景色がひらいた。


 前と同じ川辺ではなかった。

 でも、やっぱりそこには父さんの話した光と、母さんの語る静かな広さがあった。


 今度はもっと近かった。

 水面が揺れているのが、前よりはっきり分かる。細い光がその揺れの上でほどけている。橋の影は黒く落ちていて、その端だけがわずかに崩れる。空は高く、ひどく静かだった。母さんの言う“喋らない色”というのが、少しだけ分かる気がする。


「きれいだ」


 僕が言うと、IRISは何も答えなかった。


 それでよかった。

 この景色の前では、余計な相づちはいらない。


 僕はただ見ていた。

 見ている、という行為そのものが奇跡みたいだった。

 輪郭がある。

 遠さがある。

 空の広さが、上へ上へ抜けていく。


 現実はこんなに綺麗じゃないのかもしれない。

 たぶん、そうなんだろう。

 でも、それでもいいと思った。

 これが理想でしかないとしても、理想を知ってしまったこと自体が、僕の願いを本物にしてしまったから。


「ねえ、IRIS」


「なに」


「もし、明日うまくいったら」


「うん」


「父さんと母さんの顔も、見えるのかな」


「見えるんじゃない」


「どんな顔してると思う?」


 自分で聞いておいて、子どもみたいだと思った。

 でもIRISは笑わなかった。


「あなたがよく知っている顔をしているよ」


「……それ、ずるい答え」


「そう?」


「だって僕、見たことないのに」


「でも知っているでしょう」


 その言葉に、僕は少しだけ黙った。


 知っている。

 たしかに、知っているのかもしれない。

 見たことはなくても、僕を呼ぶ声や、頭を撫でる手や、少し困ったときの沈黙や、笑ったあとの空気の丸さで、二人の“顔”みたいなものはもうずっと受け取ってきた。


 それを、明日、本当に見ることになるのかもしれない。


 そう思うと胸がいっぱいになる。


 景色はゆっくりと薄れていった。

 水の揺れも、空の広さも、遠くの静かな光も、少しずつ遠のいていく。


「また会える?」


 僕が聞くと、IRISは少しだけ間を置いた。


「必要なら」


 前とよく似た答えだった。

 でも、どこか少しだけ違う気もした。

 何が違うのかは分からない。ただ、その曖昧さが少しだけ胸に残る。


「ありがとう」


 僕がそう言うと、今度は本当に少しだけ沈黙があった。


「あなたは、礼を言うんだね」


「変?」


「別に」


 その声は、相変わらず薄かった。

 優しくも冷たくもない。

 でも、そのどちらでもないことが、かえってIRISらしかった。


 次に目を開けたとき、僕は自分の部屋の布団の中に戻っていた。


 外はまだ暗く、家の中も静かだった。

 でも、胸の中にあったざわつきは少しだけ整っていた。


 怖さがなくなったわけじゃない。

 不安も消えていない。

 それでも、選んだ先に何があるのかを、僕はもう一度見てしまった。


 そして、やっぱり思う。

 見たい。

 どんな結果でも、その向こうを見たい。


 朝になれば、病院へ行く。

 入院して、手術を受ける。

 僕の世界は、たぶんそこでひとつ変わる。


 変わる前の最後の夜に、僕は布団の中で小さく笑った。


 怖いままでも、希望を持っていていい。

 なくなるかもしれないものを抱えたままでも、未来を選んでいい。


 そう思えたから、少しだけ眠れそうな気がした。

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