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IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
幻想的な風景画_IRIS.log

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選択

 手術を受けたい。


 そうはっきり口にしたのは、IRISと会ったあの夜から三日後だった。


 もっと迷うと思っていた。怖さが勝って、結論を先延ばしにするかもしれないとも思っていた。けれど実際には逆で、日が経つほど気持ちははっきりしていった。あの景色が胸の中から消えなかったからだ。朝起きても、学校へ行っても、帰り道の風に触れていても、ふとした拍子に水の揺れや空の広さが思い出される。


 あれは夢だったのかもしれない。

 でも、ただの夢では済まない何かを、僕の中に残していった。


 見たい。


 その気持ちはもう、丸めて胸の中にしまっておける大きさではなくなっていた。


 日曜の午後、父さんも母さんも家にいて、僕は居間に呼ばれた。たぶん二人も、そろそろ話をしなければと思っていたのだろう。テーブルの上に紙が何枚か置かれている音がした。病院の説明資料かもしれない。


「ハク」


 父さんが言う。


「こっちとしても、そろそろ一度ちゃんと話そうと思ってた」


「うん」


 僕は椅子に座って、膝の上で手を組んだ。


「僕、受けたい」


 言ってしまえば、思っていたより簡単だった。

 でも、そのあとの沈黙は簡単じゃなかった。


 父さんも母さんも、たぶんすぐには返事ができなかったのだと思う。反対したいわけでも、賛成したくないわけでもなくて、その一言の重さをちゃんと受け止めようとしている沈黙だった。


 最初に口を開いたのは母さんだった。


「本当に?」


「うん」


「怖くても?」


「怖いよ」


 それは嘘じゃなかった。

 成功率は低い。

 何かが残るかもしれない。

 もしかしたら、何も変わらないまま終わるかもしれない。


 でも、それでも。


「怖いけど、見たい」


 僕はそう言った。


「父さんが話してくれた川辺を見てみたいし、母さんの絵の空も見てみたい。二人の顔も見たい。……ちゃんと、自分の目で」


 また少し沈黙が落ちた。

 その沈黙の中で、母さんが顔を伏せたような気がした。声はしなかったけれど、布の擦れる小さな音がして、それがなぜかそう思わせた。


 父さんが、静かに言う。


「そうか」


 短い言葉だった。けれど、そこにはたくさんのことが入っていた。覚悟とか、迷いとか、まだ消えない不安とか、その全部。


「それなら、費用のことも含めて現実的に考えないといけない」


 その言い方で、僕は少しだけ背筋を伸ばした。


 夢の話ではなくなる。

 本当に“選ぶ”話になる。


 父さんはテーブルの上の紙を軽く指で叩いたみたいだった。


「手術費は、うちの蓄えだけだと少し足りない」


 僕は黙って聞く。


「生活がすぐ立ち行かなくなるほどじゃない。でも、無理のない範囲だけで出せる額でもない。受けるなら、何かを手放す必要がある」


 その何か、という言葉が胸に残った。


 僕は反射的に聞く。


「……何を?」


 今度は母さんが答えた。


「父さんの写真と、私の絵」


 僕は思わず息を止めた。


 父さんの写真。

 母さんの絵。

 それは家の中のどこにでもあるものだった。壁に飾ってあるものも、仕事部屋に大切にしまってあるものもある。僕には見えないけれど、それが二人にとって大事なものだということは分かっている。話し方や触れ方が違うからだ。


「売れるの?」


 自分でも変な聞き方だと思った。

 でも最初に出てきたのがその言葉だった。


「売れる可能性があるって話はある」


 父さんが言う。


「ありがたいことに、前から欲しいと言ってくれていた人もいる。ただ、俺たちが手元に残しておきたいと思っていたものも含まれる」


「母さんの絵も?」


「そう」


 母さんの声は落ち着いていたけれど、その落ち着きがかえって重かった。


「昔描いたものとか、思い入れのあるものとか。すぐに同じものが戻ってくるわけじゃないから」


 僕は何も言えなくなった。


 手術は高い。

 だから何かを手放さなければいけない。

 それが父さんの写真で、母さんの絵だなんて、考えていなかった。


 見たい。


 その気持ちは消えない。

 でも、見たいからって、二人の大事なものを差し出させるのか。

 そう思った瞬間、胸の中のまっすぐだったはずの願いが、急に痛みを持ち始めた。


「……やっぱり、やめた方が」


 そこまで言いかけたとき、父さんが静かに遮った。


「それは違う」


 強い声ではなかった。でも、迷いのない声だった。


「お前が遠慮して決めるのが、一番違う」


「でも」


「たしかに簡単な話じゃない。俺も母さんも悩んでる。正直、今でも迷ってる」


 父さんはそこで少し息をついた。


「でも、手放す価値がないと思ってるわけじゃないんだ」


 僕は顔を上げるような気持ちになった。見えないのに、ついそうしてしまう。


「写真も絵も、大事だよ。思い出もあるし、好きだから残してきた。でもな、それを残すことだけが正しいとも思ってない」


 母さんも、小さく続けた。


「私たちがつくってきたものは、ずっと手元に抱えておくためだけのものじゃないもの。もし本当に必要なら、手放すこと自体は間違いじゃないわ」


 その言葉は、慰めではなかった。

 本当に悩んだ人の言葉だった。


 だからこそ、僕には重かった。


「でも、僕のために」


「あなたのためだけじゃない」


 母さんが言う。


「もちろん、ハクのことは大きいわ。でも、それだけじゃないの。あなたが見たいと願うことを、ちゃんと大事にしたいっていう、私たち自身の気持ちもある」


「父さんと母さんが、そうしたいって思ってるってこと?」


「そうだ」


 父さんが短く答える。


 僕はしばらく何も言えなかった。


 父さんと母さんは、僕に何かを押しつけているわけじゃない。

 でも全部を僕ひとりに背負わせてもいない。

 家族として一緒に悩んで、一緒に選ぼうとしている。


 だからこそ、この選択は軽くできなかった。


「後悔するかもしれないよ」


 僕はぽつりと言った。


 誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。

 失敗するかもしれない。

 お金も作品も手放して、それでも何も得られないかもしれない。

 そうなったら、きっと後悔する。


「するかもしれないな」


 父さんはあっさり言った。


「でも、受けなかったら受けなかったで、別の後悔をするかもしれない」


「……」


「だから、どっちが絶対に正しいかなんて分からない。分からないなら、せめて自分で選んだと思える方を選びたい」


 その言葉を聞いて、胸の奥がじんと熱くなった。


 自分で選ぶ。


 それがこの作品の裏にずっと流れているものなのだと、そのときの僕はまだ知らない。ただ、その言葉は妙にまっすぐ僕の中へ入ってきた。


 見えないまま生きること。

 見える可能性に賭けること。

 そのどちらにも痛みがある。

 だったらせめて、自分で選びたい。


 僕は膝の上の手を強く握った。


「僕、受けたい」


 今度はさっきよりも、はっきり言えた。


「写真も絵も、そんな簡単なものじゃないって分かってる。たぶん全部は分かってない。……でも、それでも僕は見たい。父さんが撮った景色を、母さんが描いたものを、この目で見てみたい」


 言いながら、喉の奥が熱くなった。


「見えなくても生きていけるって、ずっと思ってきた。今もそう思ってる。でも、見たいって思っちゃうことまで諦めたくない」


 母さんが、小さく息を呑んだのが分かった。


 そのあと、僕の手の上に、やわらかい手が重なった。母さんだ。さらに反対側から、少し大きくて骨ばった手が重なる。父さん。


「分かった」


 父さんが言う。


「じゃあ受けよう」


 母さんはすぐには言葉にしなかった。でも重ねられた手に、少しだけ力がこもる。


「怖いけど」


 母さんがやっと口を開いた。


「それでも、ちゃんと前を向いて選んだんだものね」


 僕はうなずいた。


 涙が出そうだった。

 でも泣きたかったわけじゃない。

 たぶん、希望と怖さがどっちも同じくらい大きくて、胸の中でぶつかっていたのだと思う。


 その日から、家の中の空気は少し変わった。


 病院との連絡。日程の調整。費用の話。父さんと母さんは忙しくなった。僕も学校から帰ると、居間で二人が低い声で話しているのを聞くことが増えた。ときどき電話口で、父さんが作品のことを話しているのも聞こえた。母さんが静かに溜息をつく夜もあった。


 僕は何もできないまま、その気配を聞いているしかなかった。


 それが少し苦しかった。

 僕の願いが、家の中を動かしている。

 誰かの大事なものが手放されようとしている。

 そう思うと、胸の奥に鈍い重さが残る。


 それでも、不思議と気持ちは揺らがなかった。


 たまに、夜になると思い出す。

 水の揺れ。

 橋の影。

 広い空。

 静かな色。


 あの景色は本物ではなかったのかもしれない。

 でも、僕の願いをかたちにしてしまうには十分すぎるほど、美しかった。


 ある夜、母さんが仕事部屋の前で立ち止まっている気配がした。


「母さん?」


 僕が声をかけると、母さんは少し笑った。


「起きてたの?」


「うん」


「ちょっと、絵を見てたの」


 僕はしばらく黙った。

 見ることのできない絵の前にいる母さんを想像する。

 大事なものを手放す前に、最後に見ていたのかもしれない。

 そう思うと、胸が苦しくなった。


「ごめん」


 小さくそう言うと、母さんはすぐに否定した。


「謝らないで」


「でも」


「これは私が選ぶことでもあるのよ」


 その声は優しかった。


「つらくないわけじゃない。でもね、ハク。あなたが見たいと願ったことを、私はちゃんと嬉しいとも思ってるの」


「……うん」


「だから、泣きそうな声をしないで」


 そう言われて、僕は少し笑ってしまった。たしかに泣きそうだったのだと思う。母さんにはすぐ分かる。


 母さんも、たぶん少しだけ笑った。


 そのやりとりのあとで、僕は布団の中に戻った。


 受ける。

 もう決まった。

 あとは進むだけだ。


 怖い。

 失うものもある。

 たぶんきっと、何も変わらずにはいられない。


 それでも僕は、自分で選んだ。

 見たいと思った。

 そのことだけは、これから先もたぶん消えない。


 暗いはずの夜の中で、僕は目を閉じる。

 閉じても変わらないはずなのに、胸の中にはもう、あの景色の残り火みたいなものがあった。


 それが僕を前に進ませていた。

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