幻想
最初にそれが夢だったのかどうか、今でもよく分からない。
眠っていたのは確かだと思う。布団のやわらかさも、夜の静けさも、たしかにそこにあった気がする。けれど、夢にしては妙に輪郭があって、現実にしては音が少なすぎた。
ただ、気づいたとき、僕はどこかに立っていた。
立っていた、というのも変かもしれない。足の裏に地面がある感じはあった。でも、その地面が土なのか石なのか、あるいは何もないのかが分からない。風はあった。ひどく静かな風だった。頬を撫でていくのに、どこから吹いてくるのかも分からない。
匂いは、少しだけした。
水の匂い。草の匂い。遠くの空気の、冷たく澄んだ感じ。
父さんの話してくれる川辺と、母さんの絵の中にある道の、どちらにも似ている気がした。
「こんばんは」
声は、すぐ近くからした。
僕は反射的に振り向こうとして、けれど自分がどちらを向いているのかも分からないことに気づく。見えないのだから、当たり前だ。なのにそのときは、なぜか“振り向く”という動作がひどく自然に思えた。
「驚かせた?」
声は静かだった。女の子の声だと思う。高すぎず、低すぎず、耳に残るのに押しつけがましくない。不思議な声だった。優しいとも違う。冷たいとも違う。ただ、澄んでいる。
「だれ?」
僕が聞くと、少しだけ間があった。
「IRIS」
その言い方は、名乗るというより、ただそこにある名前を置いたみたいだった。
「……アイリス?」
「そう呼んでもいいよ」
僕は少しだけ眉を寄せた。知らない名前だった。知らないはずなのに、なぜかその響きは妙に引っかかった。初めて聞く音なのに、まったく遠いもののようにも思えない。
「ここ、どこ?」
「あなたが静かにいられる場所」
変な答えだと思った。けれど笑う気にはなれなかった。たぶんその声のせいだ。ふざけている感じが全然しない。
僕は耳を澄ませた。さっきから、夜にしては音が少ない。虫の声も、遠くの車の音も、家の中の気配もない。風はあるのに、その風が何かを揺らす音もしない。ただ自分の呼吸だけが妙にはっきりしている。
「夢、なのかな」
「そう思うなら、それでもいい」
IRISはそう言った。
なんでもないことみたいに。肯定も否定もしないまま、ただ僕の前に置くだけの言い方だった。
「あなた、最近よく考えているでしょう」
「何を?」
「見えることを」
胸の奥が小さく鳴った気がした。
僕は少し黙る。手術の話を聞いてから、たしかにずっと考えていた。見えるようになるかもしれない。危ないかもしれない。やめた方がいいのかもしれない。それでも、見たい。
その全部を、まだ誰にもちゃんと話していない。
「……まあ、うん」
僕がそう答えると、IRISは少しだけ息を吐いた。笑ったのかどうかは分からない。たぶん違う。ただ、ほんのわずかに空気が動いた。
「だったら、少し見せてあげる」
「え?」
「あなたが見たいものを」
その言葉の意味を理解するより早く、何かが変わった。
最初は、ただ明るくなった気がしただけだった。
僕は光を知らない。けれど、そのとき胸の前にひらく何かを、僕は“明るい”としか言いようがなかった。今まで何もなかった場所に、急に広がりが生まれる。遠さができる。手を伸ばしても触れられないものが、そこにたくさんある気配がする。
息を呑んだ。
「これ……」
「景色だよ」
IRISの声が、少しだけ遠くから聞こえた気がした。
景色。
僕は目を見開いた、と思う。見えない目なのに、そうしたはずだという感覚がある。
そこには、水があった。
そう分かったのは、父さんの話を何度も聞いていたからだ。広がっているものがあって、揺れていて、同じ形にとどまっていない。その上に細い光が散っている。光というものを見たことがない僕でも、それが光なのだと分かってしまうくらい、それは柔らかくて、壊れやすくて、きれいだった。
橋もあった。
影もあった。
影は水の上で崩れていた。
遠くには灯りが並んでいて、それが川の上へ長く伸びていた。
でも、それだけじゃない。
少し顔を上げると、そこには空があった。どこまでも高くて、静かで、ひどく広い。母さんの話す田舎の空に似ていた。広い道は見えないのに、その空の下には、草の匂いがして、遠くまで続く静けさがある。まるで父さんの川辺と、母さんの描く風景が、同じ場所でひとつになってしまったみたいだった。
そんなこと、あるはずがないのに。
「きれい……」
口からこぼれた声は、自分でも驚くくらい小さかった。
僕はそれを見ていた。
見る、ということをしていた。
どこに何があるのか、輪郭が分かる。遠いものと近いものの違いがある。手を伸ばしても届かないものが、確かに存在している。
こんなふうに世界が広がっているなんて、知らなかった。
いや、知りたかった。
ずっと知りたかった。
父さんと母さんが話してくれるたび、そのたびに想像してきたものが、今、初めて像になって僕の前にある。
「これ、本当の景色?」
僕が聞くと、IRISは少しだけ間を置いた。
「あなたが望んだ景色」
その答えは、なぜかすぐに分かった気がした。
本当そのものではないのだろう。父さんの川辺そのままでもない。母さんの道そのままでもない。でも、その両方があって、僕がそうあってほしいと願ったものまで混ざっている。だからこんなに綺麗なのだ。
綺麗すぎるくらいに。
「ずるいな」
思わずそう言ってしまった。
「何が?」
「こんなの見せられたら、もっと見たくなる」
IRISは答えなかった。
でも否定もしなかった。
僕はしばらく何も言えなかった。見えるということがどういうことなのか、たぶん本当にはまだ分かっていない。それでも、この景色があまりにもやさしくて、あまりにも美しかったから、胸の中にある何かがもう後戻りできないところまで来ているのが分かった。
見たい。
ただ見えたらいい、じゃない。
父さんが話してくれた光を見たい。
母さんが言った色を見たい。
そして、今ここにあるみたいな、こんなに広くて静かな世界に、本当に触れてみたい。
「ねえ、IRIS」
「なに」
「本当に、こういうふうに見えるのかな」
「あなたが見たいと願うなら、近いものは見られるかもしれない」
近いもの。
その言い方は少しだけ曖昧で、だからこそ現実的だった。必ず、とは言わない。大丈夫、とも言わない。ただ、可能性の形だけを静かに置く。
それがかえって、僕には本物みたいに思えた。
「僕、見たい」
口にした瞬間、その言葉はもう戻せないものになった。
IRISはたぶん僕を見ていた。どういう顔で、どんな目で見ていたのかは分からない。けれど、その視線みたいなものだけは感じる。やさしく見守るのとも違う。試しているのとも違う。ただ、そこにある変化を静かに確かめているような感じだった。
「そう」
それだけだった。
なのに、その一言で十分だった。
僕の中ではもう決まってしまったからだ。
見たい。
自分の目で。
この像ではなく、本当にある世界を。
しばらくして、景色は少しずつ薄れていった。
水の揺れも、遠い灯りも、広い空も、草の匂いも、ひとつずつ遠くなっていく。惜しいと思う前に、僕は必死で胸の中にそれを残そうとした。橋の影。細く伸びる光。空の広さ。静かな色。見たことのないはずのものを、なくしたくないと思った。
「待って」
僕が言うと、IRISの声が近くでした。
「また必要なら」
「また会える?」
「あなたが覚えていられるなら」
その答えの意味はよく分からなかった。けれど次の瞬間には、もう全部がほどけていった。
目が覚めたとき、僕は自分の部屋の布団の中にいた。
朝だった。窓の外で鳥が鳴いていて、廊下の先から台所の音がする。見慣れた、いや、聞き慣れた家の朝だ。それなのに、胸の中には昨夜の景色がまだかすかに残っていた。
夢だったのかもしれない。
でも、ただの夢にしては綺麗すぎた。
綺麗すぎて、残酷なくらいだった。
僕は布団の上でゆっくり起き上がる。
父さんの話してくれた川辺。
母さんが語ってくれた空。
昨夜見た、あまりにも整いすぎた景色。
その全部が混ざって、もう僕の中ではひとつの願いになっていた。
見たい。
前からそう思っていたはずなのに、今はもう比べものにならない。
見えたらいいな、ではなく。
見たい。
見なければ、と思うくらいに。
僕は両手を強く握った。
手術の成功率が低いことも、危険があることも、費用のことも消えたわけじゃない。それでも、その全部の向こう側にある景色を、もう想像だけでは済ませられなくなっていた。
世界はきっと美しい。
昨夜のあれは、本当の世界そのものじゃないのかもしれない。
それでも、あんなふうに見える可能性があるのなら。
僕は、その方へ手を伸ばしたかった。




