可能性
その話を聞いたのは、夜だった。
夕食のあと、食器を片づける音がいつもより少し静かで、父さんも母さんも妙に言葉を選んでいる感じがして、僕はなんとなく背筋を伸ばした。二人とも何かを隠しているわけではない。ただ、大事なものを落とさないように、そっと運んでいるみたいな空気だった。
僕はそういう空気に敏い。
見えないからなのか、もともとなのかは分からない。でも、人が言葉を口にする前の呼吸や、手の動きの慎重さみたいなものには、わりとすぐ気づく。父さんが少し迷っているときは、声の前に短い沈黙が入る。母さんが緊張しているときは、皿を置く音がいつもよりやわらかくなる。
その夜も、二人はそんな感じだった。
「ハク」
父さんが僕の名前を呼ぶ。
「少し、話があるんだ」
「うん」
僕は居間の椅子に座り直した。母さんも近くにいる。布が擦れる音で、たぶん父さんの隣に腰を下ろしたのだと分かる。
少しの間があってから、父さんが言った。
「今日、知り合いの先生に会ってきた」
「先生?」
「医者だよ。目の治療に関わってる人でな」
その言葉だけで、僕の指先が少しだけ固くなった。
目。
僕にとって、それは何度も聞いてきた言葉だ。病院にも通ってきたし、子どものころからいろいろ説明は受けている。でも、あらためてこうして家で“目の話”として出されると、胸の奥が小さく波立つ。
「新しい手術法の話を聞いたんだ」
父さんの声は、慎重だった。
「まだ新しい医療で、誰にでも簡単に勧められるものじゃない。でも……成功すれば、見えるようになる可能性があるらしい」
その瞬間、僕の頭の中が少し空白になった。
聞こえていたはずの音が、一度全部遠くへ引いた気がする。時計の針の音も、窓の外を通る車の音も、部屋の中の細かい空気の動きも、全部が急に薄くなる。見えない代わりにいつも感じている世界の輪郭が、ほんの一瞬だけ飛んだみたいだった。
「見えるように……?」
自分の声がひどく小さかった。
「可能性、だけどね」
今度は母さんが言う。
「まだ症例も多くないし、絶対にうまくいくものじゃないの。だから、すぐに喜べるような話ではないのよ」
僕は何も言えなかった。
見えるようになるかもしれない。
その言葉だけが、何度も胸の中を往復する。
父さんの話してくれた川辺。
母さんが語ってくれた広い空。
今まで想像の中にしかなかったものが、本当に自分の目に入ってくるかもしれない。
そんなこと、考えたことがないわけじゃない。何度も夢みたいに思ったことはある。でも、夢と、現実の話として差し出される“かもしれない”は、全然違っていた。後者は、胸の奥にまっすぐ刺さる。
「どのくらいなんだ?」
僕はようやくそう聞いた。
成功率、と口にするのは少し怖かった。けれど知らないまま喜ぶのも違う気がした。
父さんは少しだけ息を吐いた。
「見えるようになる可能性を含めた成功率で、二割くらいだそうだ」
二割。
その数字は、期待するには小さく、捨てるには大きい、そんなふうに聞こえた。
母さんが続ける。
「しかも、見えるようになったとしても、何も問題が残らない完璧な形ってなると、もっと低いみたい」
「問題って?」
僕が聞くと、母さんは少し言葉を選んだ。
「術後の不具合とか、予想しきれない後遺症とか。まだ新しいから、分かっていないこともあるって」
分かっていないこと。
その言い方は、たぶん正直なのだろうと思った。分からないものを分かったふりで隠されるより、ずっといい。いいのだけれど、その分だけ怖い。
「それに費用も高い」
父さんが言った。
「うちにまったく余裕がないわけじゃない。でも簡単に出せる額でもない。だから、先生のところで話を聞いたときも、その場では返事をしなかった」
「二人で先に話してたの?」
「ああ」
父さんの声に、少し疲れたような色が混じる。きっと何度も悩んだのだろう。
「母さんとも相談した。可能性があるなら知っておきたかったし、でも軽い気持ちでお前に言うことでもないと思った」
「私は正直、まだ怖いわ」
母さんが静かに言う。
「見えるようになるかもしれない、って聞いて嬉しくないわけじゃないの。でも、もしうまくいかなかったらと思うし、うまくいっても別の何かを失ったらどうしようって考えてしまう」
母さんのその言葉を聞いて、僕は少し安心した。
安心、というと変かもしれない。けれど、二人とも希望だけで突っ走ろうとしているわけではないのだと分かって、かえって救われた。怖いものを怖いと知った上で、それでも可能性を僕に渡してくれている。
それはたぶん、すごく真面目な優しさだ。
「すぐに決める話じゃないからな」
父さんが言う。
「受けるにしても受けないにしても、ちゃんと考えたい。お前のことだから、遠慮して本音を言わないかもしれないと思って、先に言っておくけど」
そこで父さんは少し声をやわらかくした。
「見たいと思うこと自体は、悪いことじゃない」
その一言が、胸の奥にまっすぐ落ちた。
見たいと思うこと。
今まで何度も胸の中に浮かんでは、少しだけ引っ込めてきたもの。
どうにもならないと分かっていることを、強く望むのはしんどい。だから僕は、見たいという気持ちを、自分の中で少し丸めて持っていたのかもしれない。
けれど父さんは、それを悪いことじゃないと言った。
母さんも、僕の手にそっと触れながら言う。
「見えないままでも生きていける、っていうのと、見たいと思っちゃいけない、は別の話だもの」
僕は、しばらく返事ができなかった。
喉の奥が少し熱くなる。泣きたいわけではない。けれど、自分でもよく分からないくらい、胸の内側がやわらかくほどけていく感じがした。
「……びっくりした」
やっとそう言うと、父さんが苦く笑った気配がした。
「だろうな」
「うん。だって、そんなの……急に、未来が増えたみたいで」
自分で言ってから、少し恥ずかしくなった。でも本当にそうだった。今まで閉じていたはずの先の時間に、急に別の道が一本できたみたいだった。
見えるようになるかもしれない。
危険で、高くて、分からないことも多くて、それでも。
今まで想像の中にしかなかった未来が、突然現実の形を持ち始めている。
「すぐには答えなくていいのよ」
母さんが言う。
「怖いなら怖いでいいし、受けたくないならそれでもいい。逆に、受けたいって思うなら、その気持ちもちゃんと聞きたい」
「お前が決めることだ」
父さんの言葉は重かった。でも押しつける重さじゃない。僕の手に、ちゃんと選ぶ重さを渡してくる感じだった。
僕は小さくうなずいた。
「考える」
「ああ」
「ちゃんと考える」
そう言いながら、僕の中ではもう何かが動いているのが分かっていた。
怖い。
でも、それ以上に。
見たい。
まだ声にはしない。
はっきり口にしたら、もう後戻りできなくなりそうだったから。
その夜、自分の部屋に戻ってからもなかなか眠れなかった。
布団の中で目を閉じる。閉じても何も変わらないはずなのに、胸の中だけが妙に明るかった。光を見たこともないのに、こんなときに“明るい”としか思えないのが少し可笑しい。
見えるようになるかもしれない。
その言葉を何度も繰り返すたび、父さんの川辺の話が浮かぶ。橋の影。揺れる灯り。水の上に伸びる光。母さんの広い道も、静かな空も、同じように浮かぶ。
今までは、全部“いつか見てみたいもの”だった。
でも今は違う。
それらは“自分が選ぶかもしれない未来”になった。
それは希望だった。
同時に、怖さでもあった。
二割。
高額。
不具合。
分からないこと。
現実の言葉は、どれも軽くない。
なのに、それでもなお、見たいという気持ちの方が少しずつ大きくなっていく。
たぶん僕は、その瞬間からもう、完全には元の場所に戻れなくなっていた。
翌日、父さんがまた川辺の写真の話をしてくれたとき、僕は前よりずっと真剣に聞いてしまった。
「昨日の灯りの話、もう一回して」
「またか?」
「うん。ちゃんと聞きたい」
父さんは少し笑って、それからゆっくり話してくれた。橋の下の暗さと、その向こうにある夕方の光。水面の揺れに合わせて形を変える灯り。遠くを歩く人の影。
僕はそれを前より強く、必死に受け取った。
もしかしたら、それを本当に見る日が来るのかもしれないと思ってしまったからだ。
まだ何も決めていないのに。
まだ選んでいないのに。
それでももう、僕の中では願いが前よりずっと重い形を持ち始めていた。
見たい。
その言葉だけが、静かに、でも確かに胸の奥で育っていった。




