景色
僕は、父さんと母さんの話を聞くのが好きだ。
それはたぶん、僕にとって世界の話を聞くのとほとんど同じ意味だった。
朝の食卓でも、昼すぎの居間でも、夜の静かな時間でも、二人はときどき外の景色のことを話してくれる。仕事のことだったり、散歩の途中で見たものだったり、昔いた場所の思い出だったりする。僕はそれを聞くたび、自分の中に少しずつ知らない世界が増えていくのを感じる。
見えない世界は真っ暗だと、昔、誰かが言っていた。
でも僕には、その言い方があまりしっくりこない。僕の世界は、暗いというより、まだ形になっていないだけだ。音や匂いや温度や手触りや、誰かの声が運んでくる景色のかけらが、毎日少しずつ中に積もっていく。そうやって僕の中には、僕にしか分からない世界ができていく。
その中でも、父さんの話す川辺の景色は特別だった。
休日の昼下がり、僕は居間のソファに座っていた。窓が開いていて、風が薄いカーテンを少しだけ揺らしている。紙のめくれる音がして、父さんがテーブルの上で何かを選んでいるのが分かった。たぶん写真だ。
「また見てるの?」
僕が聞くと、父さんが笑った。
「ああ。昨日のやつを整理してる」
「川辺の?」
「そうだよ」
それだけで、僕の声は少し弾む。
「話して」
「好きだな、本当に」
「うん」
父さんは少し椅子を引いた。たぶんこちらに向き直ったのだと思う。それから、僕がちゃんと受け取れる速さで話し始める。
「昨日は夕方がきれいだった。昼の光が落ちていくころで、川の色も空の色も少しずつ変わっていく時間だった」
川の色、という言葉に、僕は少しだけ胸をくすぐられる。色はまだ分からない。けれど分からないからこそ、その言葉はいつも何か大事なものを含んでいるように聞こえる。
「橋の近くに立って撮ったんだ。水の流れはそんなに速くないんだけど、止まってるわけじゃない。見ていると、表面だけが細かくずっと動いてる」
「風があるともっと動く?」
「そうだな。風が吹くと水面が細かく波立って、そこに映ってるものまで少しばらける。橋の影も、街灯の灯りも」
「影って、黒いんだよね」
「うん。黒い」
黒。
僕の知っている“見えない”とは違う黒なのだろうと思う。
見えないことには輪郭がないけれど、父さんの言う黒には、たぶんちゃんと形がある。
「じゃあ、水の上にある黒は、流れていくの?」
「流れていくというより、揺れながら崩れる感じかな。同じ形を保てないまま、細くなったり、切れたりする」
「それ、きれいだろうなあ」
僕がそう言うと、父さんは少しだけ嬉しそうに息を吐いた。
「きれいだよ。夕方の川って、光が静かなんだ」
「静かな光って、どんなの?」
「昼みたいに強くないんだ。目に飛び込んでくる感じじゃなくて、そっと触れてくる感じに近い」
そっと触れてくる光。
僕はその言葉を頭の中で何度か転がす。
見えない僕には、光はいつも熱や空気の軽さとしてしか分からない。けれど父さんの言う光は、もっと細かい気配を持っている気がした。
「橋の向こうに建物が並んでてな、暗くなり始めると、一つずつ灯りがつくんだ」
「水に映る?」
「映る。まっすぐじゃなくて、揺れて伸びる。長い線みたいになることもあるし、細かくちぎれたみたいになることもある」
「それ、見てみたい」
気づくと、僕はそう言っていた。
父さんは少しだけ黙った。でも、その沈黙は困ったものではなかった。むしろ僕の言葉を大事に受け止めてくれているときの静けさだった。
「いつか見られるといいな」
そう答える声は、優しかった。
そのあと、母さんも仕事部屋から出てきて、向かいの椅子に座った。少しだけ絵の具と油の混ざった匂いがした。僕はその匂いが好きだ。母さんが何かをつくっていた気配がするから。
「何の話?」
「川辺」
僕が答えると、母さんが笑った。
「また? 好きねえ」
「好きだよ。父さんの川辺」
「私のは?」
「母さんのも好き」
「よかった」
母さんは少し考えるみたいに黙って、それから言った。
「じゃあ、私はこの前描いた道の話をしてあげる」
その言い方が、なんだかずるい。聞きたいに決まっている。
「広い道なの。まっすぐで、でも少しだけ先でゆるく曲がってて、その向こうまでは見えないの。両側に背の低い草が揺れてて、もっと遠くには木もある」
「空は広い?」
「広いわ。道よりずっと広い」
「雲は?」
「少しだけある。でも、主役ってほどじゃないかな。空の高さを見せるために、少しだけ浮かんでる感じ」
母さんの言葉は、父さんとは少し違う。父さんが見たものを切り取るように話すなら、母さんは景色の中にある気分まで渡してくる。
「その絵は、どんな感じなの?」
「静かな感じ」
「静かなの、好き」
「ハクはそういうの好きよね」
「うん」
僕は笑った。
静かな景色が好きだ。
賑やかなものが嫌いなわけじゃない。でも、自分の中に景色をつくるときは、静かな方が長く残る。風の音がして、遠くまで何かが続いていて、急がなくてもいい場所。そういうものを想像すると、胸のあたりが落ち着く。
「草の匂いもある?」
僕が聞くと、母さんはすぐに答えた。
「あると思う。青くて、少し湿った匂い」
「青い匂いって、どんなの」
「うーん……若い感じの匂いかな」
「分かるような、分からないような」
「でしょ。でも絵ってそういうものよ。ちゃんと説明できないのに、そこにある気がするものを置いていくの」
僕はその言葉が好きだった。
ちゃんと説明できないのに、そこにある気がするもの。
たぶん僕が毎日感じている世界も、少しそれに近い。見えないものは多いけれど、感じられないわけじゃない。言葉にしにくくても、たしかにそこにあるものがたくさんある。
父さんの写真の話と、母さんの絵の話を聞いていると、僕の中には少しずつ景色が増えていく。
川辺。
橋の影。
水の上で揺れる灯り。
広い空。
遠くへ続く道。
草の匂い。
静かな風。
どれもまだ見たことがない。
でも、見たことがないからこそ、僕の中ではきっと一番きれいな形でいられる。
「ねえ、父さん」
「ん?」
「灯りって、あったかい色?」
自分で聞いておいて、少しだけ恥ずかしくなった。色のことを聞くとき、僕はいつも少し子どもみたいな気持ちになる。見たことのないものに、触れようとしている感じがするからだ。
けれど父さんは笑わなかった。
「そうだな。夕方の街灯は、あったかいって言っていいかもしれない」
「空は?」
「時間によるな。昼なら高い感じの明るさだし、夕方なら少しやわらかくなる」
「母さんは?」
僕がそう向けると、母さんがくすっと笑った。
「私は、あの道の空は静かな色だと思う」
「静かな色」
「うん。あんまり喋らない色」
「色って喋るの?」
「喋るわよ。よく見ると」
僕は声を立てて笑った。母さんはたまに、そういう不思議なことを言う。でも嫌いじゃない。むしろ、そういう言葉のおかげで、僕の知らない世界はただの情報じゃなくて、ちゃんと生きているものになる。
もし、いつか見えるようになったら。
父さんの言う灯りも、母さんの言う空も、本当にそんなふうに感じられるのだろうか。
その想像をすると、胸が少し熱くなる。
見てみたい。
父さんと母さんが語ってくれるものを、自分の目で。
川辺の灯りも、田舎の空も。
そして、今こうして向かいにいるはずの二人の顔も。
それはずっと前から胸の中にあった願いだけれど、この日はいつもよりはっきりした形をしていた。
見えないままで生きていくことを、僕は不幸だと思いたくない。
見えなくても、僕の世界にはちゃんと音があって、匂いがあって、触れられるものがあって、二人の声がある。
それだけでも十分に生きていける。
でも、それとこれとは別だ。
見たいと思うことは、きっと悪いことじゃない。
未来に期待することも。
まだ見ぬものを、美しいと信じることも。
「ハク、なんだか嬉しそうね」
母さんがそう言った。
「うん。なんか、今日はいつもより景色がいっぱいある気がする」
「それはよかった」
父さんの声も笑っていた。
僕はソファにもたれて、小さく息を吐いた。窓から入る風が、頬のあたりを静かに撫でていく。たぶん空は明るくて、外には木が揺れていて、遠くでは誰かが歩いている。
見えないけれど、そう信じられる。
信じられるだけの言葉を、僕はもうたくさんもらっていた。
だから、これから先もきっと大丈夫だと思えた。
まだ見たことのない世界は、たぶん想像しているよりずっときれいだ。
そしていつか、その美しさに触れられる日が来るかもしれない。
そう思うだけで、僕は自然に笑っていた。




