プロローグ
朝、目が覚めると、家はまだ少しだけ静かだ。
僕はいつも、その静けさの質で時間を知る。夜の静けさは深くて、息をひそめているみたいに重い。朝の静けさはもう少し軽い。これから少しずつ、いろいろな音を迎えにいくための余白みたいなものがある。
布団の中で耳を澄ますと、遠くで水の流れる音がした。台所だ。たぶん母さんがもう起きている。しばらくして、引き出しの開く音と、食器が軽く触れ合う音がした。父さんは朝になるとあまり大きな音を立てないから、今いるのかいないのかは、それだけだと少し分かりにくい。
でも、家の中の空気はちゃんと二人ぶんある。
僕はそういうのが分かる。
見えない代わりに、という言い方が正しいのかは分からない。けれど音や匂いや、肌に触れる空気のわずかな違いを拾うのは、たぶん得意な方だと思う。
布団から出ると、床が少し冷たかった。昨日より少しだけ乾いた感じがする。窓の近くの空気も軽い。たぶん今日は晴れている。
着替えながら、僕は小さく笑う。
こういうとき、母さんにはよく「見えないのに、どうして分かるの」と言われる。父さんはそのたびに、「見えないから分かることもあるんだろう」と言う。僕はその言い方が少し好きだ。何かが足りない代わりに、何かがちゃんとあるみたいで。
廊下へ出ると、すぐにパンの焼ける匂いがした。少し遅れて、温かいスープの匂い。朝の食卓の匂いは、いつもどこか安心する。
「おはよう、ハク」
母さんの声が右からした。
「おはよう」
僕が答えると、母さんは少しだけ笑った気配を見せた。声の終わりがやわらかいと、分かる。
食卓に着くと、父さんが向かい側で椅子を引いた。
「よく眠れたか?」
「うん。夢は見た気がするけど、起きたら忘れた」
「いい夢だったのかもしれないな」
「忘れるくらいだから、きっと悪くなかったんだよ」
そう言うと、二人とも笑った。
見えないけれど、笑っているのは分かる。笑うと、言葉のまわりの空気が少しだけ丸くなる。息もやわらかくなる。人の顔は見えないけれど、たぶん笑顔には、見えなくても伝わる形がある。
僕はよく笑う子だと言われる。
別に、見えないことが平気なわけじゃない。
悲しくならないわけでもない。
たまに、自分だけ置いていかれているみたいに思う日だってある。
でも、絶望したところで何かが良くなるわけじゃないと、僕はもう知っている。だったら、笑っていた方がいい。笑っていた方が、まだ見ぬものを信じられる気がする。そうやって前を向いているうちに、いつか届くものがあるかもしれない。僕はそう思っている。
父さんと母さんは、そういう僕を見て、ときどき安心したように黙る。たぶん僕の笑顔には、二人を安心させる意味も少しあるのだと思う。
食事のあいだ、父さんが昨日の仕事の話をしてくれた。父さんは写真家だ。何かを切り取って残す仕事をしている。僕には写真そのものは分からないけれど、父さんが景色について話してくれるのは好きだった。
「昨日、川辺で撮ったんだ」
「いつもの街の?」
「ああ。夕方の、橋の近く」
僕はスプーンを持つ手を少し止める。父さんの話の中で、その川辺の景色は特に好きだ。
「水が流れてるだろ。そこに橋の影が落ちてるんだけど、その影がずっと同じ形じゃないんだ。水の上だから、流れに合わせて少しずつ揺れて崩れていく」
「橋の影が動くんだ」
「そう。風が吹くともっと細かく崩れる。あと、街灯がつく時間になると、水の上に灯りが伸びるんだよ」
「長く?」
「長く。まっすぐじゃなくて、揺れながら」
僕は目を閉じた。閉じても見えるわけじゃないけれど、父さんの話を聞くときは、そうした方が景色が胸に入りやすい気がする。
流れる水。
橋の影。
夕方の灯り。
揺れながら伸びる光。
僕の中では、それらはまだ本当の形を持っていない。けれど、持っていないからこそ、どこまでもきれいでいられる気もした。
「きれいだろうなあ」
僕が言うと、父さんは少し黙ってから、「きれいだった」と答えた。
今度は母さんが笑う。母さんは画家だ。父さんが景色を切り取る人なら、母さんは景色を育てる人だと僕は思っている。
「私は昨日、広い道の絵を描いてたの」
「広い道?」
「田舎のね。遠くまでずっと続いていて、左右に草が揺れてて、空がすごく広いの」
「風はある?」
「あると思うわ」
「草の匂いも?」
「それもある気がする絵」
僕は笑った。母さんの絵の話は、見えない僕にもちゃんと空気をくれる。父さんの話には輪郭がある。母さんの話には広がりがある。どちらも好きだ。
僕の世界は、二人の言葉でできているところがある。
まだ見たことのないものばかりなのに、世界はきっと美しいのだと信じられる。
父さんが光の話をしてくれるから。
母さんが色の話をしてくれるから。
色。
その言葉を思うたび、少しだけ不思議な気持ちになる。僕にはまだ、色が何なのか分からない。けれど母さんは、ときどき色を音楽みたいに話す。あたたかい色、やわらかい色、遠い色、静かな色。見たこともないのに、僕の中にはその気配だけが少しずつ積もっている。
「ハク?」
母さんが僕を呼ぶ。
「どうしたの、そんなに黙って」
「ううん」
僕は小さく笑った。
「ただ、いいなって思ってた」
「何が?」
「父さんの写真の話も、母さんの絵の話も。僕、そういうの好きだなって」
二人とも、少しだけ黙った。
その沈黙は重くなかった。たぶん、やわらかい顔をしているのだろうと思う。僕はその顔を見たことがない。でも、見えなくても、きっと優しい顔なのだと分かる。
僕はふと思う。
いつか見てみたい。
父さんの話してくれた川辺を。
母さんの描く広い空を。
そして、目の前で笑っているはずの二人の顔を。
そう思うことは、きっと悪いことじゃない。
見えないことを受け入れるのと、見たいと願うことは、たぶん別だ。
僕は今のままでも生きていける。
でも、それでもなお、未来に期待していいはずだ。
そう信じているから、僕は笑う。
まだ知らないものが、この先にたくさんある。
まだ触れていない景色がある。
まだ見ぬ未来がある。
そのことを思うだけで、朝の食卓は少しだけ明るくなる気がした。




