好きな顔
次の日も、朝は来た。
光はいつもと同じように高いところから落ちて、床に細長い形をつくった。
水の匂いも、冷たい床の感触も、何ひとつ変わらなかった。
変わったのは私だけだった。
目を開けた瞬間から、前の日に見たものがそこにある。
夢ではなかった。
長い夢の方がまだよかった。
朝になれば薄れて、ぬるい感触だけが残るような、そういうものならよかった。
けれど、昨日見た囲いの線は、起きても消えていなかった。
前へ行けば見える。
横にもある。
上にもある。
ここはちゃんと閉じていて、向こうの道へはつながっていない。
私はしばらく動けなかった。
前へ行けば、また向こうが見える。
向こうが見えれば、向こうもこちらを見る。
それを知ってしまった今、前の方へ出るのが怖かった。
でも、出なくても、何かが変わるわけではない。
私はゆっくり立ち上がる。
体は重い。
昨日までと同じ体のはずなのに、自分のものではないみたいだった。
頭のまわりの毛も、腕の太さも、背のうしろの長いものも、急に形を持ちすぎている。
私は前へ出る。
透明な硬いものの向こうには、もう朝の動物たちがいた。
小さいもの、大きいもの、群れるもの、ひとりで来るもの。
皆、昨日までと変わらない顔で歩いてくる。
けれど、もう前のようには見えなかった。
あれは、見に来る顔だ。
そのことが分かってしまうと、口の形も、目の向きも、全部別のものになる。
足を止めるのは、興味があるから。
指をさすのは、相手を見ているから。
歯を見せるのは、向こう同士で何かを分け合っているから。
その中心にいるのが、私。
胸の奥が、ゆっくり冷たくなっていく。
小さいものがこちらに気づいた。
すぐに足を止める。
隣の大きいものの腕を引いて、何かを伝える。
大きいものもこちらを見る。
そして、口の形が変わる。
歯が見える。
目が細くなる。
あの顔だ。
私は思わず後ずさる。
でも、その顔は向こう側の透明な硬いものに何度も映って、逃げても消えなかった。
白い歯。
やわらかい目。
少し持ち上がる口の端。
やさしい顔。
そう呼んでいたものの意味が、音もなく裏返る。
あれは、向こうが安心している顔だった。
こちらを怖がっていない顔。
こちらが外へ出てこないと知っている顔。
近づいても、自分たちは傷つかないと分かっている顔。
だから、あんなふうにやわらかいのだ。
私はその場にしゃがみこんだ。
怖かったわけではないのかもしれない。
怖いだけなら、もっと早く叫んでいたはずだ。
でも、声は出なかった。
ただ何か大事なものが、静かに剥がれていく感じがした。
好きだった顔。
安心できると思っていた顔。
その形の中に、私は自分の立つ場所を知らされていただけだった。
見ているつもりで、見られていた。
近づいたつもりで、置かれていた。
やさしさだと思っていたものは、向こう側の余裕だった。
朝が過ぎて、昼が来る。
向こうの足音は途切れない。
誰かが来て、立ち止まり、顔を変え、去っていく。
また別の誰かが来る。
私はそのたび、前の方から離れたり、影に入ったりした。
けれど、向こうはそれでもこちらを見る。
少し姿が見えにくくなれば、もっと見ようとする。
前に出れば、足を止める。
動けば、その動きに目が集まる。
どうして今まで気づかなかったのだろう。
私はずっと、向こうの顔を観察していた。
でも向こうは、私の体を、私の動きを、私の顔を見ていた。
あの静かな子も、きっとそうだった。
そう思った瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
夕方近く、私は前の方に出ることができず、奥で丸くなっていた。
それでも、向こうの道の先を何度も見てしまう。
来ないでほしいと思うのに、来るかどうか確かめてしまう。
あの静かな子が。
来なければいい。
もう見たくない。
あの顔だけは見たくない。
そう思うのに、足音がすると、どうしてもそちらを向いてしまう。
そして、その子は来た。
いつもと同じように静かだった。
大きすぎず、小さすぎず、群れもせず、向こうの道をゆっくり歩いてくる。
私を見つけると、立ち止まる。
少しだけ顔の向きが変わる。
それだけで、私はもう苦しかった。
来ないでほしかった。
でも、いちばん来てほしかったのも、その子だった。
それがどうしようもなくみじめだった。
私は奥にいたまま、その子を見る。
向こうも、しばらくこちらを見ていた。
前のようにすぐ近くまでは来ない。
透明な硬いものから少し離れたところに立ったまま、静かにこちらを見ている。
その目は、昨日までと同じだった。
でも私は、もう同じようには見られなかった。
やがて、その子の口もとが少し動く。
目がやわらかく細くなる。
白い歯が、ほんの少しだけ見える。
あの顔だ。
私は思わず目をそらした。
好きだった顔。
いちばん好きだった顔。
見ているだけで胸の中がやわらかくなった顔。
今は、それがいちばん痛い。
あの顔の意味は、もう変わってしまった。
向こうがこちらに向ける、落ち着いた興味。
おびえなくてもいいものへ向ける、やわらかな視線。
閉じた向こう側から、こちらを見ている顔。
私はそれを好きだった。
好きになって、真似までした。
そのことを思うと、喉の奥に苦いものがたまる。
でも吐き出せるものは何もない。
静かな子はしばらく立っていた。
やがて、少しだけ顔を曇らせたように見えた。
それからまた、あの顔をした。
やさしい顔。
好きだった顔。
たぶん、その子には悪い気持ちはない。
それが分かってしまうのが、いちばんつらかった。
傷つけようとしているのではない。
ただ見ている。
こちらを見て、やわらかい顔を返している。
それだけだ。
それだけなのに、私は傷つく。
その子はやがて去っていった。
いつもと同じように。
振り返ることもなく、向こうの道の先へ消える。
残ったのは、夕方の光と、透明な硬いものに薄く映る私の影だけだった。
私は前に出る。
前へ出て、透明な硬いもののすぐ近くに立つ。
今は向こうよりこちらの方がよく映る。
囲いの線も、私の姿も、はっきり見えた。
知らない生きものみたいな顔。
頭のまわりの広がる毛。
高い位置の耳。
前へ出た口もと。
大きな手。
長いものの影。
私は、その顔を見つめる。
そしてゆっくり、自分の口もとに触れた。
口の端を持ち上げる。
歯を見せる。
目を細める。
前にも何度かやった動きだ。
好きな顔を真似しようとして、覚えた動き。
でも今は、その意味が前とは違う。
これはやさしい顔ではない。
少なくとも、私にとってはもうそうではない。
これは、見られるための顔だ。
向こうが見て、安心する顔。
向こうが好きだと思う顔。
ここに置かれたものが覚える顔。
頬がひきつる。
目のまわりも少し痛い。
うまくできているのか分からない。
でも、透明な硬いものの中の私は、たしかにあの顔に近づいていた。
私はそれを見ていた。
しばらく、じっと。
嫌だった。
でも、少しだけ落ち着いてもいた。
ここから出られないなら。
向こうの道へ行けないなら。
見に来た側にはなれないなら。
せめて、向こうが好きな顔くらいは、知っていた方がいい。
そう思ったのかもしれない。
あるいは、もう何も考えたくなかっただけかもしれない。
私はもう一度、口の形をつくる。
歯を見せる。
目を細める。
少しだけ首を傾ける。
透明な硬いものの向こうには、もう誰もいなかった。
それでも私は、その顔をやめなかった。
好きだった顔。
怖かった顔。
やさしいと思っていた顔。
その全部を、自分の顔に貼りつける。
夕方の薄い光の中で、囲いの線は静かに沈んでいく。
私の影だけが、透明な硬いものに淡く残る。
私はその影に向かって、もう一度あの顔をした。
少しずつ慣れていくのだろうと思った。
見られることにも。
この顔にも。
意味が変わってしまったあとでも、形だけは残るのだと知ってしまったから。
だから私は、笑った。
救われたからではない。
嬉しいからでもない。
ただ、覚えてしまったから。
ここで好かれる顔を。
見られるための、好きな顔を。




