檻
その日は、昼を過ぎても空が明るかった。
向こうの道にはいつもより長く光が落ちていて、透明な硬いものにも、白い筋のようなものがいくつも映っていた。
私は前の方に出たまま、しばらくそれを見ていた。
光の強い日は、向こうとこちらの境目が少し見えにくくなる。
向こうの色がこちらに混ざり、こちらの影が向こうに混ざる。
それが好きだった。
境目がやわらかくなる気がするからだ。
でも、その日は少し違った。
向こうにいた動物たちがひと組、またひと組と去っていって、道が静かになったころだった。
空の明るさだけがまだ残っていて、透明な硬いものには、向こうよりもこちらの方が強く映るようになっていた。
私は最初、それに気づかなかった。
ただ、いつもより見えにくいと思っただけだ。
向こうの色が薄くて、手前に何か黒いものが重なって見える。
細い線。
何本も並んだ線。
上から下へ落ちている。
私は顔を近づけた。
線も近づいた。
そのとき、胸の奥が少しだけざわついた。
向こうにそんなものはなかったはずだ。
道には何も立っていない。
なのに、ここには細い線が何本もある。
私は首を傾ける。
線も同じように傾いた気がした。
その奥に、ぼんやりと別の影が見えた。
大きくて、少し歪な影。
頭のまわりだけが妙に広がっている。
肩から先は太く、腕は長い。
顔の形も、向こうの動物たちとは少し違う。
私は思わず後ろへ下がった。
影も揺れた。
その瞬間、背中の毛が逆立つような感覚が走った。
あれは、向こうにいるものではない。
透明な硬いものの、こちら側にある。
こっちにいる。
私はしばらく動けなかった。
夕方に近づくと、向こうよりこちらが映ることは前からあった。
けれど、こんなふうにはっきり見えたのは初めてだった。
いや、見えていたのに、ちゃんと見ていなかっただけかもしれない。
私はもう一度、そっと近づく。
細い線。
何本も並んだ線。
その向こうに広がる自分の影。
動くと、同じように動く。
首を傾けると、傾く。
片手を上げると、上がる。
私はそこでやっと、それが自分だと知った。
息が浅くなる。
影の顔には、向こうの動物たちにはない形があった。
口のまわりが前に出て、耳は高い位置にあり、頭のまわりには広がる毛がある。
腕も足も、自分ではいつものつもりだったのに、影になると妙に大きく、重たく見えた。
そして、背のうしろに、細く長いものまで揺れていた。
私は反射的に振り向く。
何もいない。
けれど、体のうしろに何かがある感覚は前から知っている。
座るとき、寝返りを打つとき、ときどき床に触れていた。
気にしたことがなかっただけだ。
もう一度、前を見る。
影はそこにいた。
知らない生きものみたいだった。
でも確かに、私と同じように動く。
そのとき、透明な硬いもののもっと端の方で、別のものも見えた。
上まで続く囲い。
横へ伸びる枠。
開かない角。
こちら側を取り巻く、固い境目。
私は目を凝らす。
今度は見間違えではなかった。
前だけではない。
横にもある。
上にもある。
こちら側は、どこかで途切れて道につながっているのではなく、ちゃんと囲われている。
囲われている。
その言葉が胸の中に落ちた瞬間、足が動かなくなった。
私は、ここから向こうへ行ったことがない。
そう言われてみれば、それは当たり前のように思える。
でも、今まで考えもしなかった。
向こうの動物たちを見て、一日が過ぎて、眠って、また朝になって。
それで足りていたからだ。
けれど、本当にそうだろうか。
私は、見に来ていたのではなかったのか。
私は、ここから向こうを見ていた。
向こうの動物たちは、あちらを歩いていた。
だったら、どうして私はいつもこちら側にいたのだろう。
どうして向こうへ渡ることを、一度も考えなかったのだろう。
胸の奥で、何かがゆっくり崩れ始める。
そのとき、向こうの道の先に、いくつか影が現れた。
夕方の最後の来るものたちだ。
私は反射的にそちらを見る。
いつものように歩いてくる。
大きいもの。
小さいもの。
体に色を重ね、二本で歩き、互いに顔を向け合っている。
でも、今はもう前のようには見えなかった。
向こうにいるのは、ただの「動物」ではない。
少なくとも、私が見て楽しんでいたつもりの、そういう存在ではない。
あちらは道を歩く。
立ち止まる。
こちらを見る。
指をさす。
顔を変える。
去っていく。
そして私は、囲いの中からそれを見ている。
それなら、見られているのはどちらだ。
喉が急に狭くなったような気がした。
向こうの小さいものが、こちらを見つけて足を止める。
大きいものも隣で立ち止まる。
そして二つの顔が、こちらに向いた。
そのとき、私は初めて、向こうの目の向きの意味を考えた。
観察していたのは、私だけではなかった。
いや、違う。
観察されていたのは、ずっと私の方だったのだ。
頭の中で何かがひどく静かな音を立てて割れた。
私は前から離れようとする。
でも足がうまく動かない。
体が重い。
動き方を忘れたみたいだった。
向こうの小さいものは、こちらを見て、口を大きく開いた。
白い歯が見える。
あの顔だ。
何度も見てきた顔。
やさしい顔。
そう思ったはずなのに、今は違った。
それは、何かを見つけた顔だ。
何か面白いものに気づいた顔。
自分の外にあるものを見て、反応している顔。
透明な硬いものに映る影の向こうで、私は自分の輪郭を見る。
頭のまわりの毛。
前に出た口もと。
高い位置の耳。
大きな手。
揺れる長いもの。
向こうのどれとも違う姿。
そして、その姿が囲いの中にいる。
私は、見に来た側ではなかった。
ずっとここにいた。
最初からこちら側にいた。
囲われた中で、向こうを見ていた。
向こうも、こちらを見ていた。
ならば、ここは何だ。
私はゆっくり視線を巡らせる。
床。
壁。
高いところ。
端の方の開かない境目。
置かれた水。
休む場所。
見えるようにつくられた前面。
全部が急に、ひとつの形になる。
檻。
その言葉を、私はどこで知ったのだろう。
夢の中か、昔のどこかか。
分からない。
でも、その形にぴたりとはまった。
檻。
私は、その中にいた。
向こうの道を歩くものたちは、こちらを見に来る。
ここにいる私は、その視線の先に置かれている。
世界がひっくり返る、というのは、きっともっと大きなことだと思っていた。
空が落ちるとか、床が割れるとか。
でも実際は違う。
何も壊れない。
何も変わらない。
光も、道も、向こうの足音も、そのままだ。
変わったのは、意味だけだ。
それまで信じていた形が、静かに裏返っただけ。
なのに、息ができないほど苦しかった。
そのとき、あの静かな子がいたなら、と私は思った。
どうしてそう思ったのかは分からない。
でも、いちばん好きだった顔を、この瞬間には見たくなかった。
見たら、たぶん何かが決定的になってしまう気がしたからだ。
私は前から離れて、奥の方へ下がる。
光の届きにくい場所。
影の濃い場所。
そこへ行っても、向こうの視線が消えるわけではない。
けれど、少しだけ遠くなる。
それでも、頭の中ではずっと見えていた。
透明な硬いものに映った自分。
囲いの線。
向こうに並ぶ顔。
白い歯。
目を細める形。
私は、やさしい顔だと思っていた。
けれど、本当にそうだったのだろうか。
答えはもう、出かけていた。
でも私はまだ、それを最後まで認めたくなかった。
檻の奥で体を丸めながら、私は自分の口もとに触れる。
少し前まで真似していた形。
好きだと思っていた顔。
指先に触れたそこが、ひどく知らないもののように感じられた。




