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IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
笑顔になれる動物園_IRIS.log

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29/258

 その日は、昼を過ぎても空が明るかった。


 向こうの道にはいつもより長く光が落ちていて、透明な硬いものにも、白い筋のようなものがいくつも映っていた。

 私は前の方に出たまま、しばらくそれを見ていた。


 光の強い日は、向こうとこちらの境目が少し見えにくくなる。

 向こうの色がこちらに混ざり、こちらの影が向こうに混ざる。

 それが好きだった。

 境目がやわらかくなる気がするからだ。


 でも、その日は少し違った。


 向こうにいた動物たちがひと組、またひと組と去っていって、道が静かになったころだった。

 空の明るさだけがまだ残っていて、透明な硬いものには、向こうよりもこちらの方が強く映るようになっていた。


 私は最初、それに気づかなかった。


 ただ、いつもより見えにくいと思っただけだ。

 向こうの色が薄くて、手前に何か黒いものが重なって見える。

 細い線。

 何本も並んだ線。

 上から下へ落ちている。


 私は顔を近づけた。


 線も近づいた。


 そのとき、胸の奥が少しだけざわついた。

 向こうにそんなものはなかったはずだ。

 道には何も立っていない。

 なのに、ここには細い線が何本もある。


 私は首を傾ける。

 線も同じように傾いた気がした。


 その奥に、ぼんやりと別の影が見えた。


 大きくて、少し歪な影。

 頭のまわりだけが妙に広がっている。

 肩から先は太く、腕は長い。

 顔の形も、向こうの動物たちとは少し違う。


 私は思わず後ろへ下がった。


 影も揺れた。


 その瞬間、背中の毛が逆立つような感覚が走った。


 あれは、向こうにいるものではない。

 透明な硬いものの、こちら側にある。

 こっちにいる。


 私はしばらく動けなかった。


 夕方に近づくと、向こうよりこちらが映ることは前からあった。

 けれど、こんなふうにはっきり見えたのは初めてだった。

 いや、見えていたのに、ちゃんと見ていなかっただけかもしれない。


 私はもう一度、そっと近づく。


 細い線。

 何本も並んだ線。

 その向こうに広がる自分の影。


 動くと、同じように動く。

 首を傾けると、傾く。

 片手を上げると、上がる。


 私はそこでやっと、それが自分だと知った。


 息が浅くなる。


 影の顔には、向こうの動物たちにはない形があった。

 口のまわりが前に出て、耳は高い位置にあり、頭のまわりには広がる毛がある。

 腕も足も、自分ではいつものつもりだったのに、影になると妙に大きく、重たく見えた。


 そして、背のうしろに、細く長いものまで揺れていた。


 私は反射的に振り向く。

 何もいない。

 けれど、体のうしろに何かがある感覚は前から知っている。

 座るとき、寝返りを打つとき、ときどき床に触れていた。

 気にしたことがなかっただけだ。


 もう一度、前を見る。

 影はそこにいた。


 知らない生きものみたいだった。

 でも確かに、私と同じように動く。


 そのとき、透明な硬いもののもっと端の方で、別のものも見えた。


 上まで続く囲い。

 横へ伸びる枠。

 開かない角。

 こちら側を取り巻く、固い境目。


 私は目を凝らす。

 今度は見間違えではなかった。


 前だけではない。

 横にもある。

 上にもある。

 こちら側は、どこかで途切れて道につながっているのではなく、ちゃんと囲われている。


 囲われている。


 その言葉が胸の中に落ちた瞬間、足が動かなくなった。


 私は、ここから向こうへ行ったことがない。

 そう言われてみれば、それは当たり前のように思える。

 でも、今まで考えもしなかった。

 向こうの動物たちを見て、一日が過ぎて、眠って、また朝になって。

 それで足りていたからだ。


 けれど、本当にそうだろうか。


 私は、見に来ていたのではなかったのか。

 私は、ここから向こうを見ていた。

 向こうの動物たちは、あちらを歩いていた。

 だったら、どうして私はいつもこちら側にいたのだろう。

 どうして向こうへ渡ることを、一度も考えなかったのだろう。


 胸の奥で、何かがゆっくり崩れ始める。


 そのとき、向こうの道の先に、いくつか影が現れた。

 夕方の最後の来るものたちだ。


 私は反射的にそちらを見る。


 いつものように歩いてくる。

 大きいもの。

 小さいもの。

 体に色を重ね、二本で歩き、互いに顔を向け合っている。


 でも、今はもう前のようには見えなかった。


 向こうにいるのは、ただの「動物」ではない。

 少なくとも、私が見て楽しんでいたつもりの、そういう存在ではない。


 あちらは道を歩く。

 立ち止まる。

 こちらを見る。

 指をさす。

 顔を変える。

 去っていく。


 そして私は、囲いの中からそれを見ている。


 それなら、見られているのはどちらだ。


 喉が急に狭くなったような気がした。


 向こうの小さいものが、こちらを見つけて足を止める。

 大きいものも隣で立ち止まる。

 そして二つの顔が、こちらに向いた。


 そのとき、私は初めて、向こうの目の向きの意味を考えた。


 観察していたのは、私だけではなかった。


 いや、違う。


 観察されていたのは、ずっと私の方だったのだ。


 頭の中で何かがひどく静かな音を立てて割れた。


 私は前から離れようとする。

 でも足がうまく動かない。

 体が重い。

 動き方を忘れたみたいだった。


 向こうの小さいものは、こちらを見て、口を大きく開いた。

 白い歯が見える。

 あの顔だ。

 何度も見てきた顔。


 やさしい顔。


 そう思ったはずなのに、今は違った。


 それは、何かを見つけた顔だ。

 何か面白いものに気づいた顔。

 自分の外にあるものを見て、反応している顔。


 透明な硬いものに映る影の向こうで、私は自分の輪郭を見る。

 頭のまわりの毛。

 前に出た口もと。

 高い位置の耳。

 大きな手。

 揺れる長いもの。

 向こうのどれとも違う姿。


 そして、その姿が囲いの中にいる。


 私は、見に来た側ではなかった。


 ずっとここにいた。

 最初からこちら側にいた。

 囲われた中で、向こうを見ていた。

 向こうも、こちらを見ていた。


 ならば、ここは何だ。


 私はゆっくり視線を巡らせる。

 床。

 壁。

 高いところ。

 端の方の開かない境目。

 置かれた水。

 休む場所。

 見えるようにつくられた前面。


 全部が急に、ひとつの形になる。


 檻。


 その言葉を、私はどこで知ったのだろう。

 夢の中か、昔のどこかか。

 分からない。

 でも、その形にぴたりとはまった。


 檻。


 私は、その中にいた。


 向こうの道を歩くものたちは、こちらを見に来る。

 ここにいる私は、その視線の先に置かれている。


 世界がひっくり返る、というのは、きっともっと大きなことだと思っていた。

 空が落ちるとか、床が割れるとか。

 でも実際は違う。

 何も壊れない。

 何も変わらない。

 光も、道も、向こうの足音も、そのままだ。


 変わったのは、意味だけだ。


 それまで信じていた形が、静かに裏返っただけ。

 なのに、息ができないほど苦しかった。


 そのとき、あの静かな子がいたなら、と私は思った。

 どうしてそう思ったのかは分からない。

 でも、いちばん好きだった顔を、この瞬間には見たくなかった。

 見たら、たぶん何かが決定的になってしまう気がしたからだ。


 私は前から離れて、奥の方へ下がる。

 光の届きにくい場所。

 影の濃い場所。

 そこへ行っても、向こうの視線が消えるわけではない。

 けれど、少しだけ遠くなる。


 それでも、頭の中ではずっと見えていた。


 透明な硬いものに映った自分。

 囲いの線。

 向こうに並ぶ顔。

 白い歯。

 目を細める形。


 私は、やさしい顔だと思っていた。


 けれど、本当にそうだったのだろうか。


 答えはもう、出かけていた。

 でも私はまだ、それを最後まで認めたくなかった。


 檻の奥で体を丸めながら、私は自分の口もとに触れる。

 少し前まで真似していた形。

 好きだと思っていた顔。


 指先に触れたそこが、ひどく知らないもののように感じられた。

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