やさしい顔
向こうの動物たちには、いろいろな顔がある。
それは前から知っていた。
けれど、見ているうちに、少しずつ分かってくることもある。
最初は同じように見えた顔が、だんだん違って見えてくるのだ。
たとえば、口の形。
向こうの動物たちは、ときどき歯を見せる。
大きく口をひらいて、白いものを並べる。
最初のころ、私はその顔が少し苦手だった。
噛みつく前の顔に似ていたからだ。
小さいころ――たぶん、小さかったころだと思う――私は一度だけ、誰かに強く押さえつけられたことがある。
大きな影。
固い床。
鼻の奥に残る、少し薬みたいな匂い。
そのとき、近くにあった顔が歯を見せていた気がする。
はっきり覚えているわけではない。
夢の欠片みたいに、ところどころしか残っていない。
けれど、それ以来、歯を見せる顔を見ると、少しだけ背中が固くなることがあった。
だから最初は、向こうの動物たちがそういう顔をすると、私は少し離れた。
前の方にいた体を引いて、影の方へ戻る。
じっと様子を見る。
相手が去るまで待つ。
でも、不思議なことに、その顔をしたものたちは、こちらを傷つけなかった。
透明な硬いものの向こうで、口を開いて、白い歯を見せて、それで終わる。
ときには声まで出しているのに、それ以上何もしてこない。
むしろ、そういう顔のあとの方が、向こうは落ち着いて見えることもあった。
目が丸くなる。
口がやわらかく開く。
隣のものと顔を寄せ合う。
そしてまたこちらを見る。
あれは本当に怖い顔なのだろうか、と私は思い始めた。
昼の明るい時間に来る小さいものたちは、特によくその顔をした。
高い声を出して、手を叩いて、歯を見せる。
でも、その顔のまま後ろへ飛びのくこともあるし、大きいものの後ろへ隠れることもある。
それならやはり、噛みつく前の顔ではないのかもしれない。
私は少しずつ、その顔に慣れていった。
慣れると、不思議なことが起こる。
前はただ白く尖って見えていたものが、だんだん別の形に見えてくるのだ。
口もとがやわらんで、目も少し細くなる。
歯だけではなく、顔ぜんたいが変わる。
それを見ていると、向こうは今、悪い気分ではないのだろうと思えるようになってきた。
歯を見せる顔。
目を細める顔。
口の端が少し上がる顔。
それらをまとめて、私は心の中で「やさしい顔」と呼ぶようになった。
ことばにしたことはない。
でも、あれはたぶん、そういう顔なのだと思った。
近くに来ても大丈夫な顔。
見られてもこわくない顔。
むしろ、見つめ返してもいい顔。
そのころから、私は向こうに現れる動物たちを、前より楽しみに待つようになった。
今日はどんな顔が見られるだろう。
歯を見せるだろうか。
目を細めるだろうか。
それとも、ただ静かに見つめるだけだろうか。
同じ種類に見えても、やさしい顔の出し方は少しずつ違う。
小さいものは大きくひらく。
大きいものは口を少しだけ動かす。
群れるものは、隣と同じような顔になる。
ひとりで来るものは、自分だけの顔をしている。
そういう違いを見分けるのが、私は好きになっていた。
そして、あの静かな子が来るようになったのは、ちょうどそのころだった。
最初に見たときと同じく、その子はあまり音を立てなかった。
大きくも小さくもない体で、向こうの道をゆっくり歩いてくる。
群れには入らず、誰かに引っぱられることもない。
ただ、まっすぐこちらの方へ来て、少し離れたところで立ち止まる。
その子は、よくこちらを見た。
ほかのもののように、見てすぐ去っていくのではない。
長くいる。
何もせず、静かに立っている。
ときどき顔の向きを変えるけれど、目はだいたいこちらに向いている。
私は最初、その子のことが少し気になった。
変わっている、と思ったからだ。
でも、何度か見るうちに、それが嫌ではないと分かった。
むしろ、落ち着くのだ。
静かな子は、歯を見せるときも静かだった。
大きく口をひらくのではなく、少しだけ口もとがゆるむ。
白い歯がわずかに見える。
それと一緒に、目の形がやわらかくなる。
その顔は、ほかのものたちのやさしい顔とは少し違って見えた。
騒がしくない。
急がない。
こちらを追いたてない。
ただ、見ている。
そして少しだけ、口もとを変える。
私はその顔が好きだった。
その子が来ると、私は前の方へ出る。
なるべく見やすい場所に座る。
背中を丸めすぎないようにして、顔を上げる。
そうすると、その子はたいてい立ち止まる。
そしてしばらくこちらを見る。
私は、その時間が好きだった。
向こうにはいろいろな動物が来る。
声の大きいもの。
急いで通りすぎるもの。
何かを持ったまま、片手間にこちらを見るもの。
けれど、その子は少し違う。
見て、待つ。
ただそれだけをしているみたいに見えた。
見られていると、私は少しだけ落ち着いた。
どうしてかは分からない。
でも、向こうの目がこちらにあると、ここにいていいような感じがした。
私はそんなふうに考えたことは、たぶんなかった。
ここにいるのは当たり前だし、向こうに動物たちが来るのも当たり前だ。
なのに、その子の視線だけは、私の体の形を少しだけ確かにしてくれる気がしたのだ。
私が前に出ると、その子はやさしい顔をする。
少しだけ歯が見える。
目が細くなる。
そのまま静かに、しばらく私を見る。
私はいつしか、その顔を待つようになっていた。
来るだろうか。
今日は見えるだろうか。
そう思いながら、向こうの道を見る時間が増えた。
もし来なければ、少しだけ落ち着かない。
別の動物たちが来ても、なんとなく違う。
騒がしいだけのやさしい顔は、あの子の顔ほど好きになれなかった。
静かな子のやさしい顔には、形があった。
毎回まったく同じではないのに、あ、これだ、と分かる。
少しだけ口もとがゆるんで、目がやわらかくなって、こちらを長く見ている。
その顔が私に向けられると、胸の奥が静かになる。
私はいつのまにか、その顔を覚えていた。
そして、覚えたものは、真似したくなる。
最初は、なんとなく口もとを動かしてみただけだった。
あの子みたいに、少しだけ。
歯を見せるほどではなく、でも何かをゆるめる感じで。
うまくいっているのかは分からない。
自分の顔は見えないからだ。
でも、前の透明な硬いものに、ほんの少し影が映ることがある。
その揺れた影の中で、口の形が少し変わった気がした。
私はそれが少し面白かった。
もう一度やってみる。
目も少し細めてみる。
口の端を上げるように意識する。
すると、頬のあたりが少し変な感じになる。
慣れない動きなのだろう。
それでも私は何度か繰り返した。
好きな顔だからだ。
やさしい顔。
見ていると落ち着く顔。
あの子が私に向けてくれる顔。
同じようにできたら、少し嬉しい気がした。
その日も、静かな子はしばらくしてやって来た。
私はすぐ前に出る。
向こうも立ち止まる。
しばらく見つめ合ってから、その子の口もとが少しゆるんだ。
いつもの、好きな顔だった。
私は、真似してみようと思った。
口を少しひらいて、歯を見せる。
目を細める。
うまくできているかは分からないけれど、たぶんこんな感じだろうと動かす。
すると、向こうの子は一度だけ目を丸くして、それからまたあのやさしい顔をした。
私はそれが嬉しかった。
通じた気がしたからだ。
ああ、この顔でいいのだ、と思った。
この顔は怖いものではなく、やさしいものなのだと、そこでほとんど信じてしまった。
その日から私は、ひとりのときにも少しずつその顔をつくるようになった。
口をゆるめる。
歯を見せる。
目を細める。
最初は変な感じがした。
でも、繰り返しているうちに、だんだん慣れてくる。
やさしい顔は、つくろうと思えばつくれる顔なのだと分かった。
そうして私は、あの顔を覚えていった。
好きな顔。
安心できる顔。
見られてもこわくない顔。
そのころの私は、まだ何も知らなかった。
向こうのやさしさを、そのままやさしさだと思っていた。
見られることの意味も、顔を返すことの意味も、考えたことがなかった。
ただ、好きな顔を覚えて、少しずつ真似していただけだった。




