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IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
導きは主の御手に_IRIS.log

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祭壇の裏

俺が本当に倒れたのは、主の像が白く見える午後だった。


礼拝堂に人がいた。

祈りの声が低く響いていた。

俺はいつものように、静かな顔を作っていた。


胸の奥が、突然つぶれた。


最初は、いつもの演技の延長のような気がした。

少し息を詰める。

少し膝を揺らす。

信者が不安そうにする。


だが、違った。


息が入らなかった。

喉が焼けた。

胸の内側を、冷たい手で握り潰されたようだった。


膝が折れた。


誰かが叫んだ。


「尊師様」


床が近づいた。

白い像が、視界の端に傾いた。


俺は、すぐに分かった。


これは、仕掛けではない。


仕掛けなら、終わりを知っている。

倒れ方も、息の止め方も、戻る時も決めてある。


だが、これは違う。


終わりが見えなかった。


信者たちが集まってくる。

泣く声がする。

祈りの声がする。


「導きは主の御手に」


誰かが言った。


違う。


医者を呼べ。

薬を買え。

水を持ってこい。

馬車を出せ。


金はある。


蔵にある。

地下にある。

祭壇の裏にもある。

帳簿に載せていない袋が、いくつも積まれている。


金はある。


そう言いたかった。


喉は動かなかった。


俺は口を開いた。

出たのは、掠れた息だけだった。


「祈っておられる」


誰かが泣いた。


違う。


俺は祈っていない。

金の場所を教えようとしている。


視界の端に、主の像があった。


白い髪。

白い衣。

飾りのない手。

ただ見ているだけの静かな顔。


信者たちは、俺が主を見ていると思っただろう。


違う。


俺が見ていたのは、像ではない。

その下だ。

祭壇の裏。

あの板の奥。


そこに金がある。


俺は指を動かそうとした。

祭壇を指そうとした。

板の裏を示そうとした。


だが、指は震えただけだった。


女信者が俺の手を取った。

両手で包み、胸に抱いた。


「主の御手を求めておられるのですね」


違う。


その手ではない。

主の手などいらない。


金庫を開ける手が欲しい。

医者を呼びに走る手が欲しい。

水を持ってくる手が欲しい。


だが、信者たちは手を組んだ。


俺を助けるためではない。

祈るために。


「これは祝福です」


誰かが言った。


違う。


痛い。

苦しい。

息ができない。


「尊師様は、主の御許へ近づいておられます」


違う。


近づきたくない。

行きたくない。

俺はまだ、ここにいる。


俺は、何度も口を動かした。


金はある。


たったそれだけでよかった。


金はある。

俺の金がある。

お前たちが泣きながら置いた金がある。

俺が清いふりをして集めた金がある。

俺が酒を隠し、欲を隠し、本音を隠して積んだ金がある。


それを使え。


今、使え。


俺のために使え。


だが、声は出なかった。


信者たちは、俺の唇を見て泣いた。


「最後のお言葉を」


違う。


言葉ではない。

金の場所だ。


「主に祈っておられる」


違う。


主など見ていない。


白い少女も。

御手も。

夢で見たとあいつらが泣いた光も。


何も見えない。


目の前にあるのは、床の木目。

主の像の白い裾。

祭壇の影。

そして、その裏にある金。


俺は、かつて死んだふりをした時のことを思い出した。


あの時も、信者たちは泣いていた。

あの時も、導きは主の御手に、と言っていた。

あの時も、俺の掠れた息を祈りだと思っていた。


あの時は、戻るつもりだった。


今は、戻り方が分からない。


「泣いてはいけません」


誰かが言った。


「尊師様は、主に選ばれた苦しみを受けておられるのです」


違う。


選ばれていない。

これはただの痛みだ。

ただの恐怖だ。


美しくするな。

意味を与えるな。


俺が作った言葉で、俺の痛みを飾るな。


息が細くなった。

胸が重かった。

喉の奥で、音にならないものが潰れ続けていた。


医者を呼べ。


昔なら、金で呼べた。

夜中でも呼べた。

遠くの町からでも呼べた。

高い薬も買えた。

静かな部屋も買えた。

柔らかい寝台も買えた。


金は扉を開ける。

金は人を走らせる。

金は沈黙を買う。

金は時間を買う。


そう信じていた。


だが、金は一人で歩かない。


金庫は自分で開かない。

袋は自分で祭壇の裏から出てこない。

馬車は自分で走らない。

医者は、呼ばれなければ来ない。


手がいる。


人間の手がいる。


俺はその手を、ずっと祈る形にしてきた。


信者の手は、袋を置くために使わせた。

額を床につけるために使わせた。

主の御手に委ねるために組ませた。


今、その手は俺を助けない。


俺は手を伸ばそうとした。


誰かの袖を掴もうとした。

祭壇を指そうとした。

床を叩こうとした。


指は、ほとんど動かなかった。


女信者がさらに強く俺の手を包んだ。


「大丈夫です。主が導いてくださいます」


違う。


大丈夫ではない。


導かなくていい。

助けろ。


主の御手などいらない。


お前の手でいい。

水を持つ手でいい。

鍵を探す手でいい。

医者を呼ぶ手でいい。


だが、女は祈った。


周りの者たちも祈った。


その声は、美しかった。


俺が作った言葉が、礼拝堂を満たしていた。


導きは主の御手に。

苦しみは浄化。

沈黙は祈り。

死は主の御許への旅。


俺は、それを売った。

何度も売った。

泣いている者に売った。

病人の家族に売った。

死に怯える者に売った。

自分の罪をどうにか軽くしたい者に売った。


よく売れた。


そして今、その言葉が俺にかぶせられていた。


違う。


俺は浄化されていない。

祈っていない。

旅立ちたくない。

主の御許など行きたくない。


俺は、金を使いたいだけだ。


金はある。


金はある。


金はある。


それだけが、胸の中で鳴っていた。


一人の男が言った。


「医者を」


その言葉に、俺の胸がわずかに動いた。


そうだ。


医者だ。


呼べ。

今すぐ呼べ。


だが、別の信者が静かに言った。


「尊師様は、すべてを主に委ねておられます」


やめろ。


「人の手で妨げてはなりません」


違う。


妨げろ。

主の手を妨げろ。

俺をここに留めろ。


俺は口を開いた。


ひゅう、と音が出た。


「ほら」


誰かが泣いた。


「主の御名を」


違う。


金だ。


金はある。


喉が熱かった。

目の端が暗くなった。

主の像の白さだけが、妙に残った。


白い少女。


信者たちは、夢であれを見たと言った。

見たと泣いた。

見たから救われたと言った。


俺は一度も見なかった。


今も見えない。


像はある。

石はある。

白い顔はある。


だが、主はいない。


いるのは、俺が置かせた像だ。

俺が金になると判断した白さだ。

俺が飾らせなかった静けさだ。


その像が、俺を見ているように見えた。


いや、違う。


石は見ない。

神も見ない。


見ていたのは、信者たちだけだ。


そして信者たちは、俺を見ていなかった。


俺の痛みを見ていない。

俺の恐怖を見ていない。

俺の唇の裏にある言葉を見ていない。


彼らが見ているのは、清い尊師の最期だった。

主の御手に導かれる男だった。

彼ら自身が信じたい物語だった。


俺は、最後まで本音を口にしなかった。


いや、違う。


口にできなかった。


俺は一生、漏れて困る本音を隠してきた。

そのおかげで金を得た。


そのせいで、最後に金を使えなかった。


視界が狭くなった。


祭壇の裏が見えた。

あの板の奥。

積まれた袋。

冷たい銀貨。

金貨の重さ。

帳簿に載せていない俺の金。


金はある。


俺はその言葉を、まだ持っていた。


だが、誰にも渡せなかった。


主は見えなかった。


白い少女も。

御手も。

夢で見たとあいつらが泣いた光も。


何も見えなかった。


ただ、祭壇の裏だけが見えていた。


金はある。


そう思った。


それだけが、最後まで俺の中にあった。

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