戻った男
一度、俺は死んだことにした。
教団が大きくなると、ただ言葉を語るだけでは足りなくなる。
人は慣れる。
祈りにも、涙にも、像にも慣れる。
慣れた信仰には、時々、新しい傷がいる。
血を流す必要はない。
死の匂いだけでいい。
俺は、儀式の日を選んだ。
礼拝堂には人が詰めかけていた。
主の像は白く、窓から落ちる光の中に立っていた。信者たちは俺の一言を待っていた。
俺はゆっくりと祭壇へ上がった。
体調が悪いように見せるのは難しくなかった。
少し息を浅くし、言葉の間を空ける。手を胸に添え、目を伏せる。
それだけで、前の方にいた女が不安そうな顔をした。
不安はよく広がる。
不安が広がった後に奇跡を置けば、奇跡は大きくなる。
俺は言った。
「導きは、主の御手にあります」
声を細くした。
「この身もまた、主の御手の中に」
その後で倒れた。
礼拝堂に悲鳴が満ちた。
誰かが俺の名を呼んだ。
誰かが主の名を呼んだ。
誰かが泣きながら、導きは主の御手に、と繰り返した。
良い声だった。
人が本気で泣く声は、金になる。
細かな仕掛けは、信者たちには必要なかった。
必要なのは、俺が倒れること。
信者が泣くこと。
主の御手に委ねること。
そして、戻ることだった。
俺は布の下で息を殺した。
祈り。
すすり泣き。
床に落ちる膝の音。
袋が置かれる小さな音。
死は、よく金になる。
俺は、自分のために泣く声を聞いていた。
俺のために祈る声を聞いていた。
俺のために金を置く音を聞いていた。
悪くなかった。
いや、素晴らしかった。
人は、誰かが死に近づくと財布の紐が緩む。
ましてそれが、主に選ばれた者の死ならなおさらだ。
信者たちは、俺が戻るまで泣き続けた。
時が来て、俺は目を開けた。
礼拝堂は泣き声で満ちていた。
主が戻してくださったと、誰かが叫んだ。
主の御手より帰られたと、誰かが崩れた。
俺は、弱々しく見えるように息を吐いた。
何かを語ろうとして、語れないふりをした。
語らない方が、よく広がることもある。
信者たちは、俺の沈黙に意味を足した。
俺の掠れた息に、主の声を聞いた。
俺の震える手に、御手の痕を見た。
俺は何も言わなかった。
言わないものは、信者が勝手に美しくする。
美しくなったものは、また金になる。
その日から、袋はさらに重くなった。
死すら、よく金になった。
町の外からも人が来るようになった。
戻った男を見たい者。
主の御手に触れた尊師を見たい者。
自分も死から戻れるかもしれないと願う者。
俺は、以前より言葉を少なくした。
戻った男は、多くを語らない方がいい。
多くを語れば、ただの人間になる。
語らなければ、信者が勝手に主の近くへ置いてくれる。
俺はまた、綺麗な言葉を増やした。
苦しみは浄化。
沈黙は祈り。
死は主の御許への旅。
導きは主の御手に。
その言葉を信者たちは喜んだ。
覚えた。
広めた。
他人の苦しみにも、自分の苦しみにも、俺の言葉をかぶせた。
俺はそれを止めなかった。
漏れて得をする言葉だけを、世に流す。
それが一番いい。
人の口に戸は立てられない。
ならば、戸を立てるのではなく、広がって困らない言葉だけを口にすればいい。
ある信者が、病人に医者を呼ぼうとした時、別の信者が言った。
「まず祈りましょう。導きは主の御手にあります」
俺は、それを聞いていた。
医者を呼ぶなとは、俺は言っていない。
薬を捨てろとも言っていない。
ただ、苦しみは主の御手にあると言った。
死は主の御許への旅だと言った。
沈黙は祈りだと言った。
それだけだ。
信者たちがどう受け取るかまでは、俺の言葉ではない。
そう思うことにした。
責任は、主に置けばいい。
金だけが、俺の手元に残ればいい。
戻った男になってから、俺の清さはさらに磨かれた。
人前では酒を飲まない。
飾らない。
欲を見せない。
怒る時は主の家のために怒る。
金の話はしない。
しかし、金は集まる。
蔵が必要になった。
帳簿に載せる金と、載せない金を分ける必要が出た。
祭壇の裏にも、隠し場所を作った。
主の像の下ではない。
像そのものを汚すのはよくない。
だが、その近くがよかった。
信者は、主の像を疑わない。
疑わない場所ほど、隠すにはいい。
祭壇の裏の板を外せば、奥に空間がある。
そこに袋を積ませた。
誰にも、本当の量は教えなかった。
金はある。
その言葉を、俺は胸の中で何度も確かめた。
金はある。
酒も買える。
沈黙も買える。
家も買える。
役人も買える。
医者も買える。
命も、いくらかは買えるだろう。
俺は本気で、そう思っていた。




