御酒
俺は、酒を飲まないことになっていた。
少なくとも、信者たちの前では。
宴の席でも、祝いの場でも、差し出された酒には静かに首を振った。
「主の言葉に酔うだけで十分です」
そう言うと、信者たちは潤んだ目で俺を見た。
清い人だと、誰かが言った。
欲に負けない人だと、誰かが泣いた。
酒を断るだけで、人は勝手に魂まで澄んでいると思う。
安いものだ。
夜、鍵をかけた部屋で、俺は高い酒を飲んだ。
信者たちの袋から買った酒だった。
遠くの町から運ばせた。瓶も栓も、触れば値が分かるほど丁寧に作られていた。
杯に注ぐと、香りだけで舌が重くなった。
喉に落とせば、熱が胸へ沈んだ。
主の味など知らない。
だが、高い酒の味なら分かる。
一人で飲む酒はよかった。
誰も見ていない。
誰も祈らない。
誰も俺を清いと言わない。
その沈黙も、金で買ったものだった。
口に合わなかった酒は、翌朝、小さな器に分けさせた。
「御酒です」
そう告げると、信者たちは震える手で受け取った。
ありがたい。
もったいない。
主の恵みだ。
昨夜、俺が捨てようとした味に、あいつらは祈った。
ある老人は、器を両手で抱え、泣きながら口をつけた。
ある女は、病の子の唇に一滴だけ垂らした。
ある男は、自分にはもったいないと言って、家に持ち帰った。
俺はそれを見ながら、静かにうなずいた。
御酒はよく効いた。
効いたのは酒ではない。
意味だ。
ただの酒でも、主の名を被せれば御酒になる。
余り物でも、俺の手を通せば恵みになる。
捨てるはずだったものでも、信者の涙で価値がつく。
商売とは、物を売ることではない。
意味を売ることだ。
欲も同じだった。
信者には触れない。
教団の中に、余計な熱を持ち込まない。
人の口に戸は立てられない。
ならば、口を持つ者に余計な話を渡さない。
必要なものは、外で金で片づけた。
詳しく語る必要はない。
俺にとって、それは食事や酒と同じだった。
値を払い、時間を買い、沈黙を買う。
それで終わる。
金で片づくものは楽だった。
祈らない。
泣かない。
尊師などと呼ばない。
夢で主を見たなどと言わない。
後腐れのないものには、値札がある。
値札があるものは、扱いやすい。
信者たちは、俺が欲を捨てた男だと思っていた。
違う。
俺は、金にならない欲を信者の前からどけただけだ。
信者の前に置いていい欲は、一つだけだった。
主を求める欲。
それは、よく金になった。
俺は金を信じた。
主は返事をしない。
金は返事をする。
主は姿を見せない。
金は手の中に残る。
主に祈っても扉は開かない。
金を払えば、扉は開く。
酒も買えた。
沈黙も買えた。
評判も買えた。
清い尊師という顔も買えた。
だから俺は、金を信じた。
ただし、それも口には出さない。
人の口に戸は立てられない。
金を信じる男より、主を信じる男の方が高く売れる。
だから俺は、翌朝も水を飲んだ。
信者たちの前で、静かに。
「尊師様は、今日も水だけで」
そう言われるたびに、俺は少しだけ目を伏せた。
「身体を満たすものより、魂を満たすものを」
信者たちは泣いた。
水は安い。
涙は高い。
酒は夜に飲めばいい。
人前で水を飲むだけで、夜の酒の代金は何倍にもなって戻ってくる。
俺は、自分の欲を否定しなかった。
ただ、見せる場所を選んだ。
欲は金で買えばいい。
信仰は金に変えればいい。
その二つを混ぜてはいけない。
信者は夢を持ってくる。
俺は意味を与える。
信者は泣く。
そして袋を置く。
その流れが美しかった。
俺は、主の像を飾らなかった。
自分も飾らなかった。
酒も見せなかった。
欲も見せなかった。
見えないところでだけ、金を使った。
金は、見せるものではない。
見せたいものを作るものだ。
俺はそれを知っていた。




