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IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
秘密の日記帳_IRIS.log

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257/258

滲んだ嫌い

ページをめくるたびに、文字は少なくなっていった。


日付だけの日があった。

天気だけの日があった。

途中で終わっている文もあった。


その余白に、何度も同じ言葉が出てきた。


嫌い。


最初は、小さかった。


本文の横に、遠慮するみたいに書かれていた。


でも、ページが進むにつれて、その言葉は増えていった。


嫌い。


日付の横に。


嫌い。


行と行の間に。


嫌い。


ページの端に。


何が嫌いなのかは、どこにも書かれていなかった。


僕を、なのか。


病気を、なのか。


病院を、なのか。


世界を、なのか。


死んでいく自分を、なのか。


僕を置いていく自分を、なのか。


僕に忘れてほしくない自分を、なのか。


僕に忘れてほしいと思ってしまう自分を、なのか。


分からなかった。


分からないまま、僕は読んだ。


読みたくなかった。


でも、読むのをやめられなかった。


途中に、かろうじて文章になっているページがあった。


今日、あいつが来た。

また変な顔してた。

笑ってたけど、ちゃんと笑えてなかった。


その下に、少し離れて書いてあった。


嫌い。


僕は、その言葉を見つめた。


僕の笑い方が嫌いだったのかもしれない。


心配されるのが嫌だったのかもしれない。


僕が何もできないことが嫌だったのかもしれない。


僕が生きていることが嫌だったのかもしれない。


そこまで考えて、胸の奥が冷たくなった。


でも、次のページにはこう書いてあった。


来てほしい。

来ないでほしい。

帰らないでほしい。

帰ってほしい。

もう分かんない。


その下にも、


嫌い。


字が震えていた。


怒って書いたようにも見えた。

泣きながら書いたようにも見えた。

手に力が入らなくて、そうなっただけにも見えた。


本当のことは分からなかった。


僕に分かるのは、そこに字があるということだけだった。


あいつが、そのページに手を置いていたこと。

あいつが、その言葉を書いたこと。

あいつが、その言葉を書かずにはいられなかったこと。


それだけだった。


さらにページをめくる。


紙が、少し波打っていた。


水を含んで乾いたみたいに、表面が歪んでいた。


涙の跡みたいな丸い滲みが、文字の上にいくつも重なっていた。


嫌い。


きら――


その先は読めなかった。


滲んだインクが、黒い雲みたいに広がっていた。


次の行にも、何か書いてあった。


でも、ぐしゃぐしゃに潰れていて読めなかった。


紙の端に、爪で引っかいたみたいな跡があった。


消そうとしたのか。

破ろうとしたのか。

ただ、力が入ってしまったのか。


分からない。


分からないことばかりだった。


でも、分からないからこそ、苦しかった。


夢の中のあいつは、分かりやすかった。


僕が聞きたいことを聞けば、僕が欲しい答えをくれた。


怒ってないよ。

待ってる。

また明日ね。

ずっと。


優しかった。


怖いくらい、優しかった。


でも、この日記帳の中のあいつは違った。


分からなかった。


怒っている。

泣いている。

拗ねている。

怖がっている。

僕のことを考えている。

僕のことなんて考えたくないと思っている。


たぶん、その全部だった。


その全部が、あいつだった。


ページの後半は、もう日記とは呼べないくらい乱れていた。


短い言葉だけが、ばらばらに残っていた。


いやだ。


こわい。


いたい。


あいたい。


あいたくない。


嫌い。


嫌い。


嫌い。


読めるところと、読めないところがあった。


読めないところの方が多かった。


けれど、読めないところほど、目が離せなかった。


そこに、本当は何が書かれていたのだろう。


嫌い、来ないで。


嫌い、忘れて。


嫌い、忘れないで。


嫌い、泣かないで。


嫌い、そんな顔しないで。


嫌い、私を好きなままでいないで。


嫌い、私を好きなままでいて。


どれだったのか、分からない。


もしかしたら、全部違うのかもしれない。


もしかしたら、何も続いていなかったのかもしれない。


ただ、嫌い、とだけ書きたかったのかもしれない。


それでも僕は、読めないところまで読もうとした。


目を凝らした。


滲みを指でなぞりそうになって、慌てて手を止めた。


触れたら、壊れてしまいそうだった。


ページも。

文字も。

僕も。


最後の方に、長めの文があった。


ほとんど読めなかった。


インクが潰れて、文字の形が崩れていた。


それでも、ところどころだけ拾えた。


あいつが


もし


こっち


きたら


いや


いやだ


嫌い


その文字を読んだ瞬間、胸の奥で何かが止まった。


こっち。


きたら。


僕は、ページを持つ手に力が入るのを感じた。


あいつは、何を書こうとしたのだろう。


僕が、あいつのところへ行こうとすることを考えたのだろうか。


僕が、会いたいからといって、この世界からいなくなることを想像したのだろうか。


それを嫌だと思ったのだろうか。


嫌いだと思ったのだろうか。


分からなかった。


分からない。


でも、分からないままではいられなかった。


僕は最後のページをめくった。


そこは、ほとんど読めなかった。


紙はぐしゃぐしゃに波打っていた。

端は少し破れていた。

インクは涙の跡みたいな滲みに潰されて、文字なのか汚れなのか分からないところばかりだった。


嫌い。


その言葉だけが、何度もあった。


嫌い。


きら――


いや。


嫌い。


嫌い。


誰を。


何を。


僕を。

病気を。

世界を。

死んでいく自分を。

僕を置いていく自分を。

僕に忘れてほしくない自分を。

僕に忘れてほしいと思ってしまう自分を。


分からなかった。


分からないまま、僕は最後の行を見た。


そこだけ、強く筆圧が残っていた。


文字は震えていた。

滲んでいた。

何度もペンを止めたみたいに、線が途切れていた。


それでも、読めた。


自殺なんかしたら、もう口聞いてあげないんだから!!


僕は、しばらくその行から目を離せなかった。


なんだよ、それ。


今さら。


そんなこと。


僕の中で、何かが崩れた。


夢の中のあいつは、そんなことを言わなかった。


怒ってないよ、と笑った。

待ってる、と言った。

また明日ね、と手を振った。


でも、日記帳の最後にいたあいつは違った。


泣いたみたいな跡を残して。

ぐしゃぐしゃの字で。

何度も嫌いと書いて。

最後に、僕を怒っていた。


その方が、ずっとあいつだった。


僕は日記帳を見下ろした。


声が漏れた。


「口なんか、聞けないだろ」


言ってから、喉の奥が痛くなった。


あいつはもういない。


返事なんかない。

怒ることもない。

拗ねることもない。

僕を睨むこともできない。


口を聞くも何も、もう、あいつの声はどこにもない。


夢の中でなら聞ける。


でも、あれは僕が見たい夢だった。


優しくて。

都合がよくて。

少しだけ違うあいつだった。


ここに残っているのは、ぐしゃぐしゃの日記帳だけだった。


綺麗じゃない。

優しくもない。

何が言いたかったのかも分からない。


でも、あいつの字だった。


あいつが生きていた証だった。


僕は最後の行を、もう一度読んだ。


自殺なんかしたら、もう口聞いてあげないんだから!!


本当に、勝手だ。


死んだのはそっちなのに。


また明日って言ったのに。

約束はまだ有効だって言ったのに。

僕を置いていったのに。


それなのに、後からこんな字を残していくなんて。


ずるい。


ずるすぎる。


僕は笑った。


笑ったつもりだった。


たぶん、泣いていた。


涙が落ちそうになって、慌てて日記帳を遠ざけた。


これ以上、滲ませたくなかった。


もう十分、ぐしゃぐしゃだった。


「それは困るなぁ」


声に出すと、胸の奥が少しだけ揺れた。


本当に、困る。


いつか会えたとき、無視されたら困る。


話したいことがあるのに。

聞いてほしいことがあるのに。

怒られてもいいから、返事くらいはしてほしいのに。


土産話もないまま会いに行ったら、きっと怒る。


いや、怒ってくれるかどうかも分からない。


でも、この字を書いたあいつなら、怒る気がした。


遅い、ばか。


そう言う気がした。


忘れたら怒るから。


そう言ったあいつの顔を思い出した。


病室で、


まだ有効だから。


そう言ったあいつの目を思い出した。


日記帳の中で、


ばか。


と書いていたあいつを思い出した。


夢の中のあいつより、ずっと面倒で、ずっと怖がりで、ずっと怒りっぽくて、ずっと生きていたあいつを思い出した。


会いたい。


それは変わらなかった。


今でも会いたい。


声を聞きたい。

名前を呼ばれたい。

怒られたい。

くだらないことで笑いたい。


その気持ちは、消えなかった。


消えなくてよかった。


でも、会いたいから死ぬのは違う気がした。


もし会えたとき、最初の一言が、


自殺なんかしたから口聞かない。


だったら、困る。


本当に困る。


だから。


僕は日記帳を閉じた。


表紙に手を置いた。


軽いはずなのに、まだ重かった。


でも、その重さを、今度は離したくないと思った。


僕は生きることにした。


土産話くらい、たくさんあった方がいいだろうから。

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