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IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
秘密の日記帳_IRIS.log

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戻りたくない朝

気づくと、また白い場所にいた。


雨の匂いがした。


そこに、アイリスがいた。


白い髪。

白いドレス。

白い手袋。


昨日と同じように、静かに立っていた。


「もう一度」


僕は言った。


挨拶も、説明も、何もいらなかった。


「もう一度、見せてくれ」


アイリスは僕を見た。


怒らなかった。

止めなかった。

理由も聞かなかった。


ただ、短く言った。


「わかった」


白い場所がほどける。


雨の匂いが消える。


また、夏が来る。


公園に、あいつがいた。


「遅い」


今度は、そう言った。


僕は笑った。


「ごめん」


「また謝ってる」


あいつは呆れた顔をした。


その顔を見て、僕は息をついた。


会えた。


また会えた。


それだけで、僕はその日の朝から夜までの時間を全部許せる気がした。


夢の中では、たくさん話した。


くだらない話。

昔の話。

病室ではできなかった話。

僕が言えなかった言葉。


あいつは、そのほとんどに笑ってくれた。


怒らなかった。

責めなかった。

僕の黙っていた時間も、泣きそうな顔も、全部許すみたいに笑ってくれた。


優しい夢だった。


優しすぎる夢だった。


朝が来るたびに、現実が嫌いになった。


目を開けると、あいつがいない。

そのことに慣れるどころか、毎日ひどくなっていった。


最初の朝より、次の朝の方が苦しかった。

次の朝より、その次の朝の方が苦しかった。


夢の中で会えば会うほど、目覚めたあとの部屋が冷たくなる。


夢の中で声を聞けば聞くほど、現実の静けさがうるさくなる。


夢の中で笑顔を見るたびに、遺影の中の笑顔が見られなくなる。


僕は学校へ行かなくなった。


最初は、体調が悪いと言った。


次の日も、同じことを言った。


その次の日には、もう何も言わなかった。


母さんは心配していた。


父さんも、何か言いたそうにしていた。


でも、僕は聞こえないふりをした。


心配されることすら、遠かった。


僕の一日は、夜を待つだけになった。


朝に目を覚まして、夜を待つ。

昼に息をして、夜を待つ。

夕方にカーテンの隙間が暗くなるのを見て、夜を待つ。


眠るためだけに、起きていた。


引き出しの中の日記帳には、まだ触れなかった。


あいつの字を見るのが怖かった。


日記帳を開いたら、そこには夢じゃないあいつがいる。

病気になって、弱って、最後にいなくなったあいつがいる。


そんなものを見たくなかった。


僕が見たいのは、夢の中のあいつだった。


元気で。

優しくて。

僕を責めなくて。

約束を覚えていて。

また明日ね、と言ってくれるあいつ。


少し違っていてもよかった。


少し都合がよすぎてもよかった。


だって、会いたかった。


会いたかったのだ。


ある夜、夢の中で、僕はあいつに聞いた。


「ここに、ずっといられないのかな」


あいつは、隣でブランコに座っていた。


足をぶらぶらさせながら、僕を見た。


「ここ?」


「うん」


「どうして?」


「戻りたくない」


僕は正直に言った。


「朝になるのが嫌だ」


あいつはしばらく黙っていた。


ブランコの鎖が、小さく鳴った。


風が吹く。

夏の匂いが揺れる。


あいつは、少し困ったように笑った。


「変なの」


それだけだった。


戻って、とも言わなかった。

だめ、とも言わなかった。

ここにいなよ、とも言わなかった。


ただ、変なの、と言って笑った。


その笑い方も、やっぱり優しかった。


本当のあいつなら、どう言っただろう。


怒っただろうか。

呆れただろうか。

僕の頭を叩いただろうか。


分からなかった。


分からないまま、僕はその優しさに甘えた。


「明日も来る」


僕が言うと、あいつは頷いた。


「うん」


「明後日も」


「うん」


「ずっと」


あいつは笑った。


「うん」


その返事が欲しかった。


欲しかったから、聞いた。


聞いて、もらった。


それだけだった。


朝、目が覚めた。


部屋は暗かった。


カーテンを閉めたままだったから、昼なのか朝なのか分からなかった。


喉が乾いていた。

体が重かった。

頭の奥がぼんやりしていた。


それでも、最初に思ったのは一つだけだった。


早く夜になればいい。


僕は布団の中で、目を閉じた。


眠れなくても、目を閉じていた。


現実を見ないために。


あいつがいない部屋を、見ないために。


引き出しの中で眠っている日記帳を、見ないために。


その日は、夜になってもなかなか眠れなかった。


時計の音だけが聞こえた。


秒針が一つ進むたびに、僕は現実に押し戻される気がした。


早く。


早く眠らせてくれ。


そう思いながら、僕は机の引き出しを見た。


そこに、日記帳がある。


あいつが生きていた頃に書いていたもの。


あいつの字が残っているもの。


僕は、しばらく動けなかった。


開きたくなかった。


でも、目を逸らせなかった。


夢のあいつは優しかった。


僕を責めなかった。

僕を許した。

僕が欲しい言葉をくれた。


それなのに、胸のどこかが冷たかった。


本当に、あいつは怒っていなかったのだろうか。


本当に、あいつは僕を許したのだろうか。


本当に、あいつはあんなふうに笑ったのだろうか。


分からない。


分からないから、怖かった。


僕は引き出しを開けた。


日記帳は、そこにあった。


表紙は少し擦れていた。

角が丸くなっていた。

何度も開かれたものの形をしていた。


僕はそれを手に取った。


軽かった。


でも、やっぱり重かった。


生きるために開こうと思ったわけじゃない。


前を向くためでもなかった。


ただ、最後にあいつの字を見ておきたかった。


夢じゃないあいつの字を。


僕は震える指で、最初のページを開いた。

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