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IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
秘密の日記帳_IRIS.log

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優しい夢

僕は、あいつに手を伸ばした。


触れられるかどうか、確かめたかった。


夢だと分かっていた。

さっき、アイリスがそう言った。


ここは夢。

願いを叶える場所ではない。

ただ、夢を見る場所。


それなのに、目の前にいるあいつは、あまりにもはっきりしていた。


風で揺れる髪も。

少しだけ不満そうに細められた目も。

僕を見上げる角度も。

昔から変わらない、偉そうな立ち方も。


全部、知っていた。


知っていると思った。


指先が、あいつの手に触れた。


温かかった。


「なに」


あいつが眉を寄せる。


「急に触るとか、変なんだけど」


その声を聞いた瞬間、胸の奥が詰まった。


本当に、そこにいるみたいだった。


僕は慌てて手を引いた。


「ごめん」


「別にいいけど」


あいつはそう言って、少しだけ笑った。


本当のあいつなら、たぶんここで僕の手を叩いた。

それから、「触るなら先に言いなさいよ」くらい言った。


こんなに簡単に許さなかった気がする。


でも、そんな小さな違和感は、すぐに夏の匂いに紛れた。


会えている。


今は、それだけでよかった。


「ねえ」


あいつは砂場の縁に腰を下ろした。


「立ってないで座れば?」


僕は言われるまま、隣に座った。


砂場の縁は、記憶より少し綺麗だった。

もっとざらざらしていた気がする。

ひび割れも、こんなに少なくなかった気がする。


でも、隣にあいつがいる。


それだけで、全部どうでもよくなった。


「何してたの」


あいつが聞いた。


「何って」


「来るの遅かったから」


「……ごめん」


「謝ってばっか」


「ごめん」


「また謝った」


あいつは笑った。


笑っている。


病室では、笑うだけで少し疲れた顔をしていた。

笑ったあと、息を整えるみたいに黙ることがあった。


でも、今は違った。


息が乱れない。

咳もしない。

頬も痩せていない。

指も細すぎない。


僕が一番見たかった頃のあいつだった。


「元気そうだな」


そう言うと、あいつは首を傾げた。


「なにそれ」


「いや」


「変なの」


本当に変なのは、僕の方だった。


夢の中で、死んだ幼なじみに向かって、元気そうだな、なんて言っている。


けれど、あいつは死んだことなんて知らないみたいに笑っていた。


いや、夢だから。


そう思った。


夢だから、知らなくていい。

夢だから、病気じゃなくていい。

夢だから、苦しまなくていい。


夢だから。


それを何度も自分に言い聞かせた。


「約束、覚えてるんだな」


僕が言うと、あいつは呆れたように息を吐いた。


「覚えてるってば」


「本当に?」


「しつこい」


「忘れてるかと思った」


「忘れたら怒るって言ったでしょ」


それは、僕の知っている言葉だった。


小さい頃、砂場で石を渡された日。

あいつはたしかに、そう言った。


忘れたら怒るから。


僕はその言葉を、ずっと覚えていた。


「じゃあ」


僕は自分の声が震えるのを感じながら聞いた。


「怒ってないのか」


あいつは僕を見た。


「何に?」


「僕が」


そこから先が言えなかった。


何も言えなかったこと。

最後にちゃんと返事をしなかったこと。

また明日を信じたこと。

あいつが死んだあとも、僕だけが息をしていること。


何に怒っているのかなんて、僕にも分からなかった。


でも、怒っていてほしかったのかもしれない。


怒ってくれたら、少しだけ楽になれる気がした。


あいつは、僕の顔をじっと見た。


それから、優しく笑った。


「怒ってないよ」


その声は柔らかかった。


柔らかすぎた。


嬉しかった。


泣きそうになるくらい、嬉しかった。


でも、どこかで思った。


本当のあいつなら、そんなふうにすぐ許すだろうか。


病室で僕が黙ったとき、あいつは笑っていた。

でも、その笑い方は、少しだけ怒っているようにも見えた。


寂しそうでもあった。

悔しそうでもあった。


夢の中のあいつは、そういう顔をしなかった。


僕を傷つけない顔で、そこにいた。


「怒ってない」


あいつはもう一度言った。


「だから、そんな顔しないでよ」


欲しかった言葉だった。


ずっと欲しかった。


僕は、その言葉に縋った。


縋ってしまった。


「そっか」


やっと、それだけ言った。


「うん」


「よかった」


「大げさ」


あいつはそう言って、僕の肩を軽く叩いた。


その手も、ちゃんと温かかった。


温かい。


そこにいる。


それだけで、僕はもう現実に戻れない気がした。


「ねえ」


あいつが言った。


「明日も来る?」


僕は息を止めた。


明日。


その言葉だけで、喉の奥が痛くなった。


最後に聞いた言葉も、また明日だった。


あの日、僕は信じた。

信じて、失った。


でも、今度は違う。


ここは夢だ。

夢なら、また会えるかもしれない。


「来る」


僕はすぐに答えた。


「絶対来る」


あいつは満足そうに笑った。


「じゃあ、待ってる」


その笑顔は、あまりにも僕が見たかったものだった。


欲しかった答え。

欲しかった声。

欲しかった明日。


全部、そこにあった。


僕は頷いた。


その瞬間、景色が少し白く滲んだ。


セミの声が遠くなる。

夕方の匂いが薄くなる。

あいつの輪郭が揺れる。


「待って」


僕は手を伸ばした。


「まだ」


あいつは笑っていた。


困ったように。

優しく。


「また明日ね」


その声が聞こえた。


次に目を開けたとき、僕は自分の部屋にいた。


天井が見えた。


見慣れた天井だった。


雨の匂いはしなかった。

夏の匂いもしなかった。

セミの声も聞こえなかった。


カーテンの隙間から、朝の光が入っていた。


僕は、しばらく動けなかった。


夢を見ていた。


それだけのことだった。


ただの夢。


分かっていた。


分かっていたのに、体の奥が空っぽになっていた。


さっきまで隣にいた。

声がした。

手に触れた。

約束の話をした。

明日も来ると言った。


なのに、今はもういない。


部屋には僕しかいなかった。


机があった。

椅子があった。

閉じたカーテンがあった。

飲みかけの水があった。


そして、机の引き出しの中には、まだ開けていない日記帳があった。


僕は起き上がれなかった。


起き上がったら、夢が完全に終わってしまう気がした。


布団の中で、さっきの声を何度も思い出した。


また明日ね。


あの声だけを、何度も。


昼になっても、僕は部屋から出なかった。


母さんが何度か声をかけた。


「ご飯、置いておくね」


僕は返事をしたのか、しなかったのか覚えていない。


腹は空いていたと思う。


でも、食べる気にならなかった。


食べている時間がもったいなかった。


起きている時間が、全部邪魔だった。


夜が来るのを待った。


眠れば、会える。


その考えが、頭の中で何度も回った。


眠れば、あいつがいる。

眠れば、声が聞ける。

眠れば、約束の続きを話せる。


起きているから、会えない。


それなら、起きている意味なんてあるのだろうか。


僕は布団の中で目を閉じた。


早く眠りたかった。


早く、あの夏へ戻りたかった。

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